自然派SOHOの田舎暮らし快適実践術
メールマガジン「八ヶ岳の里から」バックナンバー
《第58号》2009年1月2日発行
◆いろいろな里山の出来事(伐採のその後)
◆田舎暮らしと病院(悲喜こもごも--入院生活初体験1の巻)
◆冬の空気は凛としていますが、今日は青空で柔らかな日差しが静かな里山を包んでいます。のどかな新年の始まりです。本年もよろしくお願い致します。



  ◆続編-いろいろな里山の出来事

《伐採のその後》

南西の林は、昨年の暮れに伐採が終わり搬出作業が始まっています。

ここからでは、そこの手前に他の人の所有の別荘地があり、赤松の林が視界を遮っていてよくわかりませんが、山の南側にまわって見ると、林だったところが、なだらかな丘になった様子がわかります。もちろんそこには木は一本もありません。

風の道も変わりました。

我が家は北に山を背負っているので、八ヶ岳方面から吹く北風は山を迂回して途中西の林にあたり、さらに今伐採した山によって狭められて西側から吹いてきていました。

数日前の強い風で確認できたことは、伐採で木がなくなった山に、かなり強い風が吹いているのがわかります。我が家の西斜面の木々はさほど揺れていないのに、その山の隣地の境界に残った木々は、風になびくように、まるでメトロノームの様に、ぐらぐらと揺れています。

今まで我が家に直接当たっていた強い風が半分以下になった感じです。



   ◆田舎暮らしと病院(悲喜こもごも--入院生活初体験1の巻)

緊急で入院になった病室は3階にあります。

ここ富士見高原病院には、病棟が全部で4箇所有ります。北2階病棟、西2階病棟、北3階病棟そして西3階病棟です。増築を繰り返したようで、十字型を基本としたやや複雑な構造です。初めて来る人たちは一応にして、病室探しに迷うようです。

昇降の階段は7箇所、エレベーターが4箇所設置されています。いずれも病院らしく考えられていて、便利な場所に配置されています。

八ヶ岳や南アルプスが眺望できる部屋も有れば、建物だけしか見えない部屋もありますが、私はその建物だけしか見えない北3階の病室にいました。

その病室には4つのベッドがあり、互いに一枚のカーテンで仕切られているだけの、いわゆる相部屋です。窓側に2つのベッド、その間は通路です。廊下側にも2つのベッド、ここもその間は通路です。窓側と廊下側のベッドはカーテンで仕切られています。

その日は、9月から入院している80才ぐらいの老人が、窓側のベッドに一人居るだけで、他は空いていました。この人を私は小淵爺さんと名付けました。私は、眺望が良くないので共同洗面所の横である廊下側を希望しました。小淵爺さんの隣、廊下側での入院生活です。

暫くして4名の若い看護師さん達が来ました。1人は入院保証書など事務的なことの説明と書類の作成に、もう1人は点滴のセッティング、もう2人は採血、検温と血圧などの計測です。作業は素早く、あっという間に終わり。3個の点滴容器が吊され、薬品が体内に流入しはじめました。

2〜3日は絶食、水も飲んではいけないようで、栄養源は点滴のみです。

夕方近くに、手術入院で患者が車椅子で運び込まれてきました。60才前後と思われる患者は、廊下側のベッドです。視覚的なプライバシーは守れますが、なにせカーテン一枚なので音は筒抜けです。会話も否応なしに耳に入ります。

その中年男性の患者と看護師の話を聞いていると、尿路結石で、明日に手術だそうです。この人を茅野北さんと名付けました。

その数十分、また患者が慌ただしく運び込まれてきました。80才前位の男性で、腹の下部が痛いということで緊急入院になったそうです。数ヶ月前にも胃潰瘍で入院したらしく再入院とのこと。この人は高根爺さんと名付けました。

これで、一気に満室。付添人もいて賑やかです。暫くして付添人も皆帰り、病室は落ち着きを取り戻しました。

6時50分頃食事の時間が始まりました。私だけは絶食なので何もありません。ただ暇です。

カチャカチャ、ズルズルとみんなの食事の音が聞こえてきます。高根爺さんは腹が痛いはずなのに、ものすごい勢いで食べています。よほどお腹が空いていたのでしょうか。すぐに食べ終わった様子です。小渕爺さんは、ゆっくりタイプのようです。時間をかけて食べています。茅野北さんはごく普通な感じがします。

すると、廊下を隔てた個室から女の人が怒っている声が聞こえてきました。

「なんで食べないの!」強い口調です。

「嫌いなの?!」と何回も何回も怒鳴っています。
「私忙しいんだから、早く食べてよ!!」

会話の内容から父親と娘(たぶん)の感じです。
父親は70才以上で寝たきり。体も思うように動かせないようです。昼ヘルパーが2〜3人来てマッサージ運動や食事の世話をしていました。

娘の言葉に父親は「う〜ん」と小さく唸るだけで言葉になりません。暫くして、看護師さんに交代して貰い、その娘は本当に帰ってしまいました。

その看護師さんは「あら、全然食べていないわね〜、これ嫌い?」と言葉をかけました。すると、その父親は安心したような感じで
「上の物をどけて。小さくしてくれ。食べる。」とハッキリとした小声で言うではないですか。食事も大分食べたようで、看護師さんによく食べたと褒められていました。

この父親は看護師たちにはちゃんと受け答えし、時折冗談も言って笑っています。娘が来ると看護師は出ていくので2人きりになります。父親は黙り、娘はいつも強い口調で怒鳴り、怒って帰っていきます。そこにはまともな会話がありません。この様子は毎回繰り返されました。

その人は本当の娘かどうかはわかりません。ひょっとしたら嫁なのかもしれません。しかし、今まで同じ屋根の下で生活をしていたことは確かです。私は、急に寂しい気持ちになり、とても心が痛みました。

その夜、小淵爺さんの所には、娘さんがまだいて食事やリハビリ等の話をしています。積もる話でも有ったのでしょうか、夜10時近く帰りました。

やっと消灯です。数十分で、みんな寝息を立てています。次第に寝息からイビキに変わり三者三様で病室はイビキ協奏曲大演奏会状態になりました。私は、なかなか寝ることが出来ません。

夜中1時を過ぎた頃から今度はトイレタイムです。小淵爺さんは腰の骨が悪いので車椅子でトイレまでお出かけです。大分良くなったらしく、自分で車椅子を出し、それに乗って足で漕いで移動します。足のリハビリのためだそうです。
ガチャガチャ(車椅子の金属の音)、ズルズル(スリッパの音)なかなかの音を立てて移動していきます。

茅野北さんは点滴の器具をカタカタ引きずりながらも静かに出ていきました。

高根爺さんが一番騒がしく、スリッパを引きずりながら歩きます。昼間はちゃんと歩いているのですが、夜は違います。一歩の歩幅が10センチくらいなのでなかなか進みません。ザーザーペッタン、ザーザーペッタン。途中で暫くとまったり、また何かを思い出したかのように戻ったり、その繰り返しで病室を出るまで1〜2分くらいは掛かります。そして、1〜2時間おき位にこれらがまた繰り返されます。さらには真夜中に電気をつけ、せんべいを食べたり何かを飲んだりもしています。

私は、「音」の観察が忙しく、まだ眠ることが出来ません。夜中も2時間おき位に、見回りを兼ね看護師さんが点滴を入れ替えに来ます。軽く話を交わし眠れないことを心配してくださいました。そんなこんなで入院初日、4時30分頃どうにか眠りにつきました。

このままでは他の病気にもなりそうな気がしてきました。
(次回は、悲喜こもごも--入院生活初体験2の巻)


【編集後記】

年末になると必ず頼まれることがあります。それは借りている畑の地主さんの家の簡単なメンテナンスです。正月に親類や子供たちが泊まりに来るので、12月31日までに直さなければなりません。一昨々年は、トイレの鍵つけとドアの修理、一昨年は居間の蛍光灯の器具の取付と台所の電球交換とテレビの取付、昨年は客間のテレビの取付と、居間のテレビのリモコンの設定と、風呂場の照明器具の点検と餅つき器の修理でした。二人とも80才前後、広い家にご夫婦だけで住んでいますがこういうことはなかなか出来ないので、ここ10年くらい毎年頼まれるたびに行っています。今年のお駄賃は、修理した餅つき器で搗いた餅でした。さっそく元旦に雑煮にしていただきました。
皆伐された山の頂上からは我が家方面が良く見渡せる。
南アルプスの鳳凰三山が良く見える。
頂上附近には石碑が祀られていた。

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