警鐘を鳴らす子どもたち
78%KAKEGAWA Vol.71 1986年2月号掲載
子ども達の自殺、校内暴力、いじめの問題は、裏を返せば大人社会に対して、子ども達が警鐘を鳴らしているのである。その警鐘に対して、大人達はもっと真剣に受けとめてあげるべきだ。無力な子ども達は今、助けを求めている。

根が深い「いじめ」現象
校内暴力が鎮静化したと思えば、今度は「いじめ」が大きな社会問題となっている。校内暴力が少なくなってきているのは、根本的なことを解決せずに、結局は、権力で抑さえつけたというだけのことにすぎない。子ども達のその抑えられた欲求不満やいらだちのはけ口として、弱い者いじめへとつながっていく。

昨年の7月に掛川市人権擁護委員会が「いじめ」の問題を取り上げ、市教育委員会や学校とPTAの教育関係者といじめの問題について研究会が開かれた。しかし、学校側からは具体的な事例の報告はなく、全体的にも「田園都市の掛川ではいじめの問題は無い」ということで対応を協議するまでには至らなかったという。

学校側からは、「教師の目の届かない所で起き、気づくのが遅れる面がある。」という一方で、「被害者意識が強すぎるのではないか。」という意見も出たという。ところが、実際には中学では数えきれない程のいじめが蔓延しているというし、小学校の高学年で既にいじめがある。

しかし、いじめの問題は根が深く「こうすればいい」「ああすればいい」と、簡単に答えが出せるような問題ではない。とは言うものの、「掛川市内にも、いじめによる自殺予備軍はいっぱいいる」そうで、よそ事として呑気に構えていると取り返しの付かないことにもなりかねない。
仕返しが恐い
掛川でも実際にいじめが至るところで発生しているにも関わらず、全く表面に出て来ていないというのは、いじめられた側の子どもも親も、公になることを極度に恐れているからだと言う。「仕返しが恐い」と、堅く口を閉ざしている。

親が他人に相談するときも「これはここだけの話で、他人に絶対口外しないでもらいたい。」と念を押すほどの怯えようである。いじめられている本人もその親も、身の細る思いで毎日を過ごしているのだと言うのだ。

受けたダメージが大きすぎて「いじめをなくそう」と、立ち上がる勇気も無く、ただ耐えることしかないというのが現状らしい。そのためにこの紙面では市内の実例を挙げることは出来ない。

その代わりにいじめが原因となった事故や事件の全国の例を挙げてみる。昨年12月の新聞記事を少し拾っただけでも、2日に千葉で「殺さねば、またいじめられると、いじめる同級生宅に放火(中三)」。3日には北九州で「金を要求された同級生宅に、いじめの仕返しに放火(中二)」。4日には静岡で「ビルから飛び降りて、厭世(えんせい)自殺(高三)」。7日札幌で「生きるのに疲れたと割腹自殺図る(中三)」。10日青森で「いじめを苦に首を吊って自殺(中二)」。…と続く。

いじめられても、仕返しが恐くて誰にも打ち明けられない子ども達が、追いつめられた末に自殺を図ったり、「相手を殺さなければ、またいじめられる」と思い込んでしまっても不思議では無い。しかし、いじめる側には、罪の意識がなくていじめている場合もあるという。いじめが単なる遊びとしての感覚しかないのである。

教師が「お前はあの子をいじめているんだよ。」と諭しても、それを理解できないのだという。小学生の低学年ならいざ知らず、中学生でさえもこんな状態である。ちょっと信じられない気もするが、そういうことはよくあると言う。また、説教されて、泣きながら「もうしません」と言いながら、下校途中でまたいじめていく中学生もいたりして、幼児から少年に成長しきれない子ども達が増えている。
いじめの線引きはできない
しかし、いじめ問題というのは、どこからどこまでを「いじめ」と言うのか、物差しとなるべきものが無いから非常に難しい面がある。人によっては「こんなことは昔からいっぱいあった」という人もいれば「今の状態は異常だ」と、言い切る人もいる。しかし、掛川においては、問題にされるべき問題が表面に出て来ていないのだから、それが異常なのか異常で無いのか、実際の所はわからない。

ある小学校には、しょっちゅうA君からいじめられているB君という男の子がいる。ところが、B君はいつも苦しい顔をしているわけではなく、A君の後からニコニコして付いていく場面もしばしば見かけるという。

そして「いじめられている」と聞いて、担任教師が飛んで行って対策を練ろうと思っていると、離れればいつでも離れられる状態でありながら、キン肉マンの技を掛けられるのを喜んでいる側面もあったりして、「どうしていいのかわからなくなる」と担任教師は言う。

この教師は「いじめはあるか」と聞かれれば、「何とでも答えようはある」と言う。例えば、登校拒否の問題にしても、ズル休みが月に7日以上あると登校拒否になる。そして、6日の子は登校拒否にはならない。果たして7日の子とどれだけの違いがあるのだろうか。

しかも、受け持ちの先生がズル休みと書きにくくて、カゼとか頭が痛くて休んだということにすれば、それは病欠扱いになる。また、親の責任で学校に来れない子もいるが、自分の意志では無い場合も登校拒否となってしまう。

登校拒否の問題も、いじめの問題も、ここからここまでという線引きは絶対に出来ない。そして、原因も内容もさまざまであるから、具体的にこうやれば直るということもない。一件一件を分析して、教師、父母、地域の人達が一体となって、それに見合った対処をしていくしか、今の社会情勢では解決の道はないのである。
他人の痛みがわからない子ども達
掛川において、いじめがどの位有って、どの程度のものなのかはわからないが、子ども達が確実に変わってきていることがある。それは、周りの子がいじめの現場を見ても知らんぷりしていることだ。騒いだり、止めに入ったり、内緒で教師に知らせる子どもがいなくなった。

昔ならばいじめられている子がいれば、「かわいそう」と止めに入る子、教師に知らせに走る子、そんな正義感みたいなものを持っている子が必ず何人かいた。これは「他人の痛みがわからなくなってきているからではないか」と、現場の教師は分析する。

この原因は、マスコミ(特にテレビ)の影響と、一人っ子あるいは少人数の兄弟が増えてきたことと、個人主義的な親が多くなっていることも大いに関係がある。

テレビからは殴ったり殴られたりする場面が流れる。そして、一人っ子でケンカをする相手もなく育った子どもには、この位殴れば、この位痛いという加減がわからない。そして、自分に関係無ければいいという、傍観者的な考えを持っている子どもなど、そういったものが複雑に合わさって陰湿ないじめへと繋がっていく。

例えば、保育園の中で遊んでいる最中に、転んで血を流して泣いていても、誰も「どうしたの?」と声を掛ける子どもがいない。そればかりか、倒れている子の側で、そのまま遊びを継続しているともいう。これなどはいじめのケースではないが、傍観者的な要素をこの幼い時から既に持っているという例である。

小学校では集団でいじめるケースは少ないそうだが、中学生になるとそれが顕著に表れてくるという。子ども達はマイナスの方向には連帯感が強く、「よせ!」という形で輪を組むのではなく。そのままいじめる側に回るか、あるいは傍観者として、そしらぬ顔をしているかのどちらかだという。

バレー部なら、全員が一人の子ばかりに球を打ち投げるとか、野球部ならその子の持ち物を全部隠してしまうというように、集団でいじめられたら、ちょっとではなくかなり恐い状況だ。いじめられた子どもが訴えてくれないから、親も教師も手の施しようがないのである。
生まれた時から非行少女非行少年ではなかった
それでは、どういった子がいじめの対象にされるのだろうか。身体の弱い子、動作の鈍い子、勉強の出来ない子、我が儘で自己中心的な子、かわいい子、勉強が良くできる子、正義感の強い子、ガキ大将だった子など、誰もがいじめの対象になり得るという。そして、その逆もあり得るのだ。

しかし、ここで一番知って貰いたいのは、子ども自身には何の責任もないということである。教育家の無着成恭(むちゃくせいきょう)氏は教育総合誌「ひと」で次のように語ってる。

……子ども達は昔も今も本質的に何ら変わっていない。まず第一に弱い存在であること。第二に知識も経験も少なくて未熟であること。第三に好奇心が旺盛で知りたがり屋でおしゃべりだということ。その延長として冒険にあこがれるということ。
昔の子どもと今の子どもはちがう、とよく言う。もしそうだとするなら、その子どもをとりまく状況が変わったのだ。その子どもをとりまく大人の社会が変わったのだ。大人が作りだしている社会のありよう、あり方が変わったから、それと対応して子どもが変わったのだ。
人間は生まれ出た時「この子は非行少女になる」とか「この子はきっと教師を殴る子になる」とか決まっていたのか。みんな生まれ出てからの育て方・教育によってそうなったのだ。
たとえば、ここにたいへんウソをつく少女がいた。その少女はうまれながらにしてウソをつく天分に恵まれているようにもみえた。しかしよく調べた結果はそうではなかった。ウソをつかないでは生きていられないような複雑な家庭の中で育ったのであった。……


そして、子どもが教師あるいは親に向かって話しかけたり質問している間は、目の前にいる大人(親や教師)をまだ信じている証なのだという。教育者(親や教師)は自分からベラベラしゃべるのではなく、子どもに語らせて、腹の中にあるものをすべて認めて上げる。子どもを信じてあげ、最後にちょっぴり「お母さん(お父さん、先生)だったらこうするな」とか「こうしたかもしれない」と、方向付けてあげることが大切だともいう。

子ども達が中学生、高校生になった頃から次第に無口になり、家庭や教師とは必要なこと以外話さなくなると良く聞く。だけれど、仲の良い友だちとなら良くしゃべるというのは、本来無口なのではなく、大人を信じていないからかも知れない。
子どもの前で教師の批判をする親
子ども達の成長段階において、小学校という場所はとても大事なところである。ところがその小学校の先生達は多忙すぎてヘトヘトに疲れ切っているという。「管理されているというよりも、がんじがらめになっているという感じがする。そのために子ども達と接する時間が少なくなるから、子ども社会を覗けないし、いじめがあっても気が付かないじゃないかな。よしんば知っていても、じっくり話し合う時間も無いんじゃないか。」とあるPTAの役員は言う。

確かに小学校の先生は、調査や報告書、事務処理の洪水で多忙を極めているという話をよく聞く。新聞の投書欄にも元教師が「小学校の教師は、あいさつの仕方、朝食は食べましたか、歯の磨き方、給食指導、登校拒否児の出迎え、万引きした子の引き取りなど数えたら切りが無い。今の学校は本末転倒で、教師の守備範囲を超えている。」と訴える。

また無職の男性は「乳幼児を他人に預けてパートで働く母親、幼児期を片手間に育てられた子ども達は、人間としての思いやりの心、自然を愛する気持ちを教えられることなく成長する。小学生の子どもぐらいは家庭内で正しい生活を指導すべきだ。」と母親を強く非難している。

子どもの前で平気で教師の批判をする親、教師の失敗を決して許さない親、授業のやり方進め方にまで口出しする親がいるのは事実だ。先出のPTAの役員は次のように話す。

「若い先生に向かって子どもが『アマチュア』と言う。どう考えてもこれは子どもの言葉とは思えない。宿題が少ないとか、進め方がおかしいとか、そんなことにまで口を出す。親が教師に対して信頼する気持ちがなければ、教師が子ども達に教育なんて出来る訳がない。それでも何かあるとすぐに学校に責任をなすりつけるんだから、先生も大変だと思うよ。利己主義の強い親が多いんだから、子どもだって当然そうなっていくだろうね。」

こういった親のエゴが子どもに伝わらないわけがない。それが、自分の思い通りにならないといじめに走ったり、他人がいじめられていても素知らぬ顔をする子どもを作り上げているのである。



殴打は愛のムチか…
それでは、個人主義的な子どもが大人になるとどうなるか。学校の現場ではそのように育ってしまった若手教師による陰湿な生徒へのいじめが始まっている。

法務局の調査によると、体罰で最も多いのが殴打だが、中には千枚通しでホホを突っついたり、刃物で威してカンニングの自白を強要したり、金属バットで殴る、後片付けができなかった児童にパンツを膝まで下ろして授業を受けさせたり、二階の窓から逆さに宙づりにしたり…と、全く考えられないような例も有る。

極端な例も有るが、これらは分別のある大人、ましてやたとえどんな状況に追いつめられたとしても、教育をする人間のすることではない。

掛川でも生徒の言い分を聞かずにいきなり殴ったり、些細なことでも殴ったりするという例はいっぱい聞いた。体罰は「愛のムチ」と奨励する親もいるが、何かはき違えているのではないだろうか。

愛のムチというのは、愛情が通っていてこそ愛のムチであって、やたらに殴るのはただの暴力に過ぎない。親にも殴られたことのない、ケンカもしたことがない子ども達が、愛情の伝わらない人間から、いきなり殴られたらどうなるか。反発するだけである。

本当の「愛のムチ」ならば、必ずその心は子ども達に伝わるはずである。お父さんもお母さんも教師も、もう一度その辺のことをじっくりと考えてみて戴きたい。
子の心、親知らず
最近の塾ブームは異常である。小学生どころか用事の時から英語塾に通っている子どもがいる。しかし、小学生低学年から学習塾に通わせたとしても、大きくなっても成績が良いとは限らないそうだ。

親に言われるまま学習塾やスクールに通っていると、自分で物事を判断するという思考力がなくなるから、高学年になって応用がきかなくなると言う。

子ども時代によく遊んだ子の方が成績が良くなる場合が多いし、世の中をうまく渡っていける。遊びの中から、仲間との体験で世の中のルール(人間関係)を覚え、自立心や逞しさ、人間性を育んでいくのである。

最近は猫も杓子も塾通いに忙しく、それぞれに空いている日が違うために、遊び相手が限定されてしまう。上級生から下級生まで揃って遊ぶなどということはもう昔の話し。今は学年ごとに、しかも外で遊ばず家の中でテレビゲームやファミコンに夢中になってるのだから、相手を労る気持ちなど生まれようがない。このままでは、いまの子ども達が大人になったとき、今度は親へのいじめが始まらないとも限らない。

昔は木登りや階段、あるいは屋根から落ちて骨折したり、転んで怪我をしたり歯を折ったりする子どもが一杯いた。それでも懲りずにまた遊ぶ。少しぐらいのカゼなら鼻水を垂らしながら遊んだ。親から叱られてもまた遊んだ。遊ぶことの楽しさを知っていたからだろう。

今では「外で遊んできなさい」と追い出しても「めんどくさい」「おもしろくない」と、なかなか外で遊ぼうとしない。寝ながらテレビを見ていたりファミコンに夢中になっている姿は完全に子どもの世界から離れている。雪国でも雪遊びをしなくなってきたという。「寒いから」と、家の中でファミコンに夢中になっているそうだ。

自分から遊びを見つけるのではなく、遊ぶ道具を与えて上げないと遊べなくなってしまった子ども達が増えてくると、「子どもは遊びの天才だ」と言う言葉は死語になりつつある。
25年前の呼びかけ…
子ども達にもっと遊びを、そしてもっとケンカを。今から25年前に発刊された戸塚廉先生の著書「日刊新聞を作る子どもたち」の中の「いたずら教育学」の中に次のような内容のことが書いてある。

……子どもは精神のしくみが未熟なために、ちょっとしたことですぐケンカをする。ちょっと人のひじが当たっただけでも、すぐ怒る。大人ならいろんな原因でひじが当たるということを、多くの経験で知っているから怒らない。ようするに、子どもがすぐ怒るのは、経験が無いからである。

ケンカをすることによって、いろんなことを感じ、いろんなことを覚えていく。だから、こどものうちのケンカは、成長していく上でとても大切なことである。極端にいうと、ケンカをしない子はオリの中に入れられた動物と同じで、食べるものを供給されているから、生命だけは保証されているが、社会的な活動をする能力がないから、「明日から一人で生活しなさい」と放り出されたら、社会の落伍者となり得るのである。……

まったくその通りだと思う。ケンカを奨励させる訳では無いが、子どもを叱るときには、そんなことも充分頭の中にいれておいて叱って欲しい
「それもいいね」という例外を認める
掛川での校内暴力、いじめの問題は、静岡や浜松、150号線通り(海岸線)から比べるとまだ軽いそうで、東京などと比べると保育園みたいなものだと言う。だが、決してないわけではない。

しかし、最近は今までのような「権力で押さえ込むやり方」や「管理社会」ではこういった問題は解決しないことが徐々にわかってきたために、少しずつ変わってくるのではないかと現場のある教師は言う。

権力、管理という圧力で押さえ込んだ東京では、校内のいじめ、暴力は減少してきたけれど、その代わりに学校で取締を厳しくすればするほど、今度は学校外に向けられるようになり、問題は一向に解決していない。

管理社会というと、つい難しく考えがちであるが、そんな大げさなことではない。朝起きてから寝るまで「早く何々しなさい」と次から次へと親或いは先生が命令してくれる。子どもはそのことば通りに動いていればいいわけで、そんなところから不満が徐々に蓄積されていく。

朝は「早く起きなさい」、起きれば「早く歯を磨きなさい」、歯を磨いていれば「早くご飯を食べなさい」。学校に行くと服装から授業態度、生活態度まで、全てが学校で指導してくれる。学校から帰れば「早く塾に行きなさい」、「宿題しなさい」、「早く寝なさい」と、まるでロボットごときの扱いを受ける。

こういうのを管理社会と言うのだそうで、子ども達だけでは無く、大人もまた自身を管理されていることに気が付くべきだ。車や服装にしても、自分で決めているように見えても、実は流行という名の下に、自分の意志決定がないまま、世の中全てが右ならえしている部分が多分にある。

管理社会では、人間は人間では無く物と同じ「人」にすぎない。自分で考えて行動するのが人間だとしたら、人に言われた通りに行動しているのは、ただの「人」に過ぎないのかもしれない。

「それもいいね」という例外を認めることが一番大切なことだとある先生は言う。「それもいいね」ということは、個人個人の持つ個性を認めてあげることである。しかし、残念ながら今の中学校の体質では、教師がこの言葉を使うわけにはいかないのが実状である。
悩み出した教師…規則とは
掛川の中学校でも、学校の指定服でないと服装検査が通らない。しかも、どこのメーカーの何番でなければいけないと、そこまで限定しているのである。そのために、他のメーカー品でも通るように、学生服の裏側に付いているラベルだけを売っている店まで出る始末。まるでいたちごっこである。

それを取り締まっている中学校の先生方が、「こんなことをしていると、服やソックスは勿論、下着までいちいちサイズを測って、学校で集金して買わなければならなくなってしまう。」と、悩み出している。

そのため最近は「自転車も実用車ならいい。ただし出来るだけ色を黒にしてほしい」というように徐々に変わりつつある。しかし、学校で規則を緩めていくと、必ず文句を言ってくる保護者がいる。管理教育というのは、学校、父母、地域住民と、警察とが複雑に絡み合った末に出来上がるものであるから、社会全体が理解を深めて行かなければ決してなくならない。

子どもの事故があると、警察から「どういう指導をしているんだ」と、学校側の教育を問われる為に、学校は「他の地区へ行くときには必ず保護者同伴で…」という規則を作る。たまたま地区の境に住んでいた家では、すぐ近くの文房具店に行くにも、親が付いていかなければならないと言ってた。

一定の線で引かれた規則というのは、不条理な面がいっぱい出て来る。

夕方遅くまで遊んでいると、近所の人がすぐに学校へ通報する。そこで、「何時になったら帰りなさい。」という規則が出来る。地域住民はなぜ子ども達に直接ことばを掛けてあげようとしないのだろうか。

学校でケガをすると、「危険だからこういうことはさせないでくれ」と親が訴える。「あの服装は中学生らしくない」と誰かが言えば「学生服はここのメーカーの何番にする。靴下は白色のワンポイントまでは良いが他はダメ」となる。

有る小学校では、下着まで規則を作り、身体検査で一カ所柄の付いたパンツを穿いていたら、学校から注意されたと言う。PTAの代表者だけでなく、父母全体を含めた地域住民との話し合いも必要では無いだろうか。
死を選ぶ子どもたち
かつては大人の特権であった「自殺」や「殺人」が、いまやこどもたちの世界にも蔓延している。高校生や中学生のみならず、小学生の自殺まで報道されるに至っては、寒気さえ感じる。

普通私達が思い詰めた末に「死のう」と思っても、なかなか実行に移せるものでは無い。「死ぬ勇気がなくて思いとどまった」という人もいると思う。死ぬことが勇気では無いかも知れないが、そのくらいの覚悟がなければ出来ないことなのである。

それが、首つり、飛び降り自殺と、大人でも躊躇するようなことを、こともなげにやってしまう。そこまでにいくには相当追いつめられていたのか、それとも死というものが軽く考えられてしまっているのか。

「死にたいと思ったことがあるか」というあるアンケートに、かなりの小学生達が「死にたいと思ったことがある」と答えたという。

今の子どもが簡単に死を選ぶようになったのは、マスコミの影響が大きいのは確かである。テレビでは人が簡単に殺されていくが、その反面では核家族化で、悲しみの中で死んで行く人を実際に見ていないことも原因していると言う人もいる。

私は小学校一年の時に祖父が亡くなり、その最期を看取ったのが私であった。翌年には祖母も亡くなり、その時も同じ布団に寝ていたから、死というものに対して恐怖心がある。冷たくなった祖母の身体は今でも良く覚えている。二度とかえってこないということを二人の死によって教えられた。

子ども達の持っている自殺という意味を真剣に問い直し、生命の教育をもう一度やり直す時期にきているのだと感じる。
解決への2っのヒント
京都のある学校では、子ども達に「いじめ特捜班」みたいなものを運営させている学校があるそうだ。いじめを見たり聞いたりしたら投書してもらい、そのいじめについて校内放送で「どう思うか」を呼びかけているという。

その結果、子ども達だけで考え、結論を出していくことで、ずいぶん変わってきたという。早い内にオープンにすることで、解決の道が開かれてきた一つの例である。

もうひとつは、大阪で行われた教育研修会で、中学校の教師が「生徒指導に携わるようになってから、生徒手帳を廃止して、校則の大部分を生徒達で決めさせたところ、生徒が生き生きしてきた」と発表した。

名札は、付けても付けなくても、どっちでもよいことになっているが、八割の生徒は付けてくるという。上からの押しつけではなく。自分達で決めたルールは、率直に認めるということである。


現在いじめ問題で悩んでいる方は、一人で悩まずに相談してみてください。まずは担任の教師に、そして掛川市人権擁護委員会や法務局に相談してください。詳しいことは掛川市役所秘書課で教えてくれます。