二俣線建設の頃
78%KAKEGAWA Vol.70 1986年1月号掲載
遠江二俣線。全国で赤字路線を廃止するという国鉄の政策で、二俣線もまた廃止の憂き目にあっている。しかし今、第三セクター(市町村と民間が協力出費して会社を設立して経営)として保存される方向になりつつある。

二俣線は戦戦前、敵の攻撃を見越して東海道本線が使用不可能になった時の代行線として計画され敷設された。このことは掛川〜豊橋間の全線開通が、第二次世界大戦が勃発する前夜であったことからも覗える。しかし、二俣線の開通を、率直な気持ちで一番喜んで迎えたのは、生活の足を確保出来た沿線の住民ではなかっただろうか。

今月号では、原谷(旧原谷村)で最初に二俣線工事で働きたいと名乗りを上げた、幡鎌の山本良平さん(77才)に二俣線の思い出を語ってもらった。山本さんは工事完了後も国鉄職員として30年間二俣線の線路を守ってきた。二俣線に対する愛着は誰よりも強い。存続されることを心から願っている一人でもある。
住民の足は馬車からローカル線へ
当初、二俣線は遠美線(えんびせん)と呼ばれ、岐阜県の美濃まで敷設される計画であった。所が、かなり長い距離になるために、予算の関係と、豊橋からは名鉄が運行されていたこともあって途中で計画が変更された。

町と村、村と村をつないで走るローカル線が開通することは、沿線住民の夢であった。レジャーなどの観光目的ではなく、生活そのものだったからだ。たとえそれが軍事施策のためだったとしても、諸手を挙げて喜んだとしても無理は無い。

当時の住民の足といえば、6〜7人乗れば満員となる馬車と、人間の足だけが頼りであった。自転車もごくわずかな家に限られていたからだ。

そんな生活の中で二俣線開通の話は住民に一筋の希望を与えた。早速、原谷村では寄り合いをし、村議会でも取り上げ、当時の鉄道省に陳情にも行っている。念願が叶って昭和6年(1931年)4月1日から測量が始まった。

昭和10年(1935年)4月17日にようやく開通の運びとなったが、それと同時に今まで住民の足であった馬車も消えていった。その後「原谷ハイヤー」なる木炭車の個人タクシーが村で1台だけ走るようになったが、主に急病や急用の時に利用されたという。当時は殆どの家には電話がなかったので、営業所のある所まで走って行って頼んだというから、現在の救急車のようなわけにはいかなかったようだ。

山本さん退職間際の昭和36年(1961年)3月20日に遠江桜木駅にて撮影。
もめにもめた路線ルート
山本さんは、鉄道建設の測量が始まると直ぐに「二俣線工事で働きたい」と、建設事務所に行った。山本さんは21才の時に徴兵検査を受け、身体が小さいために甲種合格とはならず、第一乙種になってしまった。そのため「兵隊にすぐ行けないなら鉄道の仕事をしよう。」と決心したという。

建設事務所に行った翌日から早速測量の仕事が始まった。(二俣線工事は全て地元以外の業者が請け負い、作業員も地元以外からやってきた人がほとんどだったという。特に朝鮮半島から強制的に連れてこられた人も大勢いて、日本人より安い賃金で過酷な労働を強いられていたことも忘れてはならない。)こうして山本さんは地元作業員として第一号となったわけである。

測量の仕事は掛川駅から桜木駅へと順調に進んで行き、いよいよ原谷村へ入ったところでどこに通すかでもめた。初めの測量は、富部の境の「チンチン踏切」からずっと西へ入り「とうどの森」の場所に駅を作り、現在の小学校の西を通って森町へ抜けるコースであった。

しかし、工事を請け負っていた建設業者が、「こんなに大回りをしたのでは経費が掛かってしょうが無い。」と言って中止。

そこで、山本さんが「もっと田んぼの真ん中を通せばいい」と言ったが、細谷の駅の南側は、深田といって底なし沼のような田んぼで、棒をくすいで(刺して)みると4メートルも5メートルもズボズボと入ってしまう。これではしょうがないと、次は細谷の現在の県道より東側の「いこいの広場」の東を通り、原谷中学校の敷地を通り抜け、森町へ出るコースだった。

ところが、「茶畑や田んぼをつぶされては困る」という地元の人の反対でこちらもボツ。「県道に沿ってやってくれ」という意見もあったが、「県道に沿って列車が走ると危ない」とい反対にあって、結局、山本さんの出した「田んぼの真ん中を通す」という案で落ち着いた。こうして、掛川〜森間の測量が終わったのは昭和7年(1932年)であった。



現在の77才になった山本さん。白いヒゲがまるで水戸黄門さまのようだ。
細谷と富部の境にある踏切。
底なし沼と鉄橋
測量が終わり、いよいよ土盛り工事の始まりである。こちらは東京に事務所のある勝呂組が請け負うことになり、山本さんも測量要員から今度は建設作業員として働くことになる。

細谷の深田は、田植えや稲刈りをする時には、梯子を渡してその上に板をのせて作業したという。水のぶくぶくしている所に勢い付けて足から入ると、出るに出られない程だった。重みが徐々に加わるとズボズボと入ってしまうそうで、よく言われる底なし沼というのは深田のことを指しているのかも知れない。

こんな田んぼに列車の通るレールを敷くというのだから大変な作業だったと思われる。この田んぼの区間は約80m。深く掘った一番下に4〜5mに切った太い松の丸太を横1m間隔に梯子を作るような感じで置いた。その丸太の間に雑木の束を沈めるだけ沈めて、その上に玉石を入れ、セメントの袋を並べて水抜き作業を行った。

こうして水抜き作業を行ったが、現代ではいろいろと農地の構造改善が行われたので水はけも良くなり、通称底なし沼と言われるような田んぼもなくなった。

原野谷川に鉄橋を架けるときには「どう言う風に架けるのか」みんなが不思議がり、当日は大勢の見物人が押しかけたという。遠方からやってきたり、弁当持参で来た人もいたという。

今ならクレーンで吊り上げれば簡単だけど当時はクレーンがない時代。どう言う風に行ったかというと、出来上がった橋脚まで仮設の線路を敷き、分割された橋をトロッコに乗せ運び込む。両側の橋の手前では貨車が待機していて、後は貨車の力を利用して動かした。

架け終わった後、見物人達は「なるほどなあ」と感心して帰って行ったそうである。
遠江桜木駅正面
遠江桜木駅ホーム
遠江桜木駅駅舎に掛かる駅名標
一日の労働は地下足袋一足分
作業はシャベルやつるはしを使って穴を掘る人、トロッコやリヤカー、モッコ(わらで縄をなって網のような駕籠をつくり、棒を渡して前後でかつぐ)でその土や砂利を運ぶ人、盛り土をする人、枕木を渡していく人、レールを敷いていく人など、いろいろな作業に分かれていた。そしてその中もいくつかの班に分かれていた。トロッコを使って仕事をする作業員にとって、トロッコの善し悪しは作業効率にも影響する。

毎朝、各班ごとに「今日はここからここまで仕事しろ」と決められ、その仕事が終わるまでは帰ることが出来ない仕組みになっていた。一人が休めばその分残った者全員の負担になる。そのために、毎朝動きの良いトロッコを確保するために朝4時頃起きて出かけて行ったと言う。

朝は5時頃から仕事に掛かり、午後は6時半か7時頃まで働く。重労働だった割りには賃金は安く、地下足袋を一足買うのに一日半も働かなければならなかった。


遠江桜木駅ホームにある駅名標
映画「鉄路」のロケ
映画「鉄路」
製作:高田プロダクション
配給:新興キネマ
監督:田中重雄
脚本:西鉄平(八木保太郎)
原作:竹田敏彦

配役
国鉄機関手:高田稔
戸田澄江:山縣直代
機関士の妹:霧立のぼる
機関士助手:生方壮児
機関庫主任:松本泰輔
澄江の父:小宮一晃
澄江の母:浦辺粂子
専務車掌:原聖四郎
澄江の友人:高倉恵美子
ホテルの主人:大井正夫
こうして沿線住民の念願であった二俣線工事も、掛川〜森間が完成し、昭和9年(1934年)12月から翌年3月31日まで試運転が行われ、昭和10年(1935年)4月17日に開業の運びとなった。

開通前の2月11日には、現在の西掛川駅の東、逆川の鉄橋の奥の切り割りの所で映画のロケが行われた。

嵐の中で列車が止まってしまい、客車の中にいる乗客を救い出すというストーリーで、手押しポンプの消防車4台と、手で回す大きな扇風機6台が用意され、大風と大雨の嵐の状況を作り出した。

2月という一番寒い時期で、しかも夜の11時から朝方の4時頃までかけて行われたという。役者は蓑笠を着けていたが、水に濡れながら強い風を当てられるのだからたまったもんじゃない。しかもそれを何度も繰り返して行われたという。役者稼業も楽じゃない。

その撮影から8ヶ月後、この映画「鉄路」が掛川座でも上映された。山本さん達も早速見に行ったそうである。地元でロケが行われたせいもあって、館内は大盛況だったという。

二俣線の開通
昭和10年(1935年)4月17日、18日の開通式は二俣線のどの駅でも盛大に行われ。昼間は芝居小屋がかかり、餅投げ、福引き、仮装行列が行われ、夜は提燈を持って練り歩く提灯行列が行われた。

そして、両日は誰でも無料で乗れる祝賀列車が出たので、全車両押すな押すなの大盛況。開通式が終わった19日からは混合列車となって、客車1輛と貨物列車が2〜3輛の編成となった。

当時の駅は、掛川、桜木、原谷、森の4駅しかなく、一区間の運賃が5銭だった。(掛川から森までが15銭)しかし、有料になった途端に乗客は減ったが、それでも現在ほど少なくはなかったという。

他の交通手段があまり無かったとは言え、往復すれば一日の日当の三分の一から半分もかかってしまったのでは、おいそれとは乗れない。もっとも、町へ買い物にいくことも病院通いをすることも滅多になかったから、特別な用事があるとき以外は乗ることもなかったのだろう。(殆どが通勤や通学などの足となっていたようだ。)

その代わり、海産物を背負って売りに来るおばさんや富山の薬売りなど、行商の人達の足にもなった。町の商店や病院に行けない村人にとって、魚や薬を売りに来る行商人は生活そのもので、村人からは歓迎された。現在の訪問販売とは大違いだ。

さて、蒸気機関車は御存知のように石炭をくべて蒸気の力で走るのだが、一度火が消えてしまうと再び走らせるのに大層な時間がかかってしまう。そのために、列車が動いていない夜間でも、つきっきりで交替しながらで火を燃やしていたという。

今なら一区間2〜3分で次の駅に着くが、当時の蒸気機関車の場合、一区間10分ぐらい掛かった。森から掛川までは約1時間である。つい最近まで森の手前の駅の戸綿から掛川駅までマラソンで来ていた人が45分で走ってきたというから、ヘタをすればマラソンの方が早いくらいである。彼が蒸気機関車の時代だったら並行して走れたのではないだろうか。


しかし、あの巨体を動かすのだから遅いのも無理のない話である。この蒸気機関車も昭和46年(1971年)3月31日を最後に姿を消した。

原谷駅駅舎正面
原谷駅ホーム
原谷駅ホームにある駅名標
逃げ場のない鉄橋
二俣線はレールの上に置き石をされ、2回程脱線したことがあったという。幸いにも大きな事故にはつながらず死者も怪我人もでなかった。しかし、悲しいかな、線路を歩いていて轢かれた人が3名いて、飛び込み自殺者も3名いたという。自殺者以外は原野谷川、太田川の鉄橋を歩いていて逃げ場がなくて轢かれてしまった。

遺体の片付けは、線路を守っている山本さん達の役目である。轢かれるところを目の辺りにしたこともあったという。「本当にお気の毒でした。線路は危険ですから絶対に歩かないでほしい。」と山本さん。

二俣線も第二次世界大戦(1939年9月〜1945年9月)が始まる前にすべての工区が完了し、本来の目的である東海道本線の迂回路として利用されることになる。

戦争が始まって1945年硫黄島の激戦後連合軍の戦力が日本本土に影響してき出すと、真っ先に攻撃され破壊されたのが東海道本線だったという。天竜川の鉄橋西側と浜名湖鉄橋も攻撃され、それから復旧するまでは東海道線を走っていた汽車は二俣線で迂回していった。

1938年製造のC58 20蒸気機関車
戦争の傷跡
いよいよ戦争が激しくなると、兵隊を大勢乗せた列車がひっきりなしに走る。敗戦を迎える少し前、昭和20年(1945年)5月19日のこと。

やはり兵士を大勢乗せた列車が原谷駅に着き、ここからも何人かの兵士を乗せて出発した。ところが列車が細谷あたりに来たとき、アメリカ軍の飛行機が攻撃してきた。蒸気機関車のタンクに弾があたり、湯が全部漏れて立ち往生してしまった。

その時、上空を旋回しながらやってきた別の飛行機が、今度は兵士が乗っている列車めがけて機関銃を撃ち込んできた。原谷駅から乗車した兵士は、見送りの人達に窓から顔を出して手を振っていたために、家族や知人の目の前で頭や胸を撃たれ死亡したという。

その時山本さんは森駅からモーターカーで原谷駅に向かっている途中だった。「空襲でやられた」という知らせで急いで走ってきたが、すでに3名の兵士が撃たれた後であった。この時の光景は今でも忘れられないという。

この後、山本さんは、空襲のあった場所の田んぼの中で、ぐつぐついいながら湯気の立っている物を見つけた。棒で突っついて出した所、アメリカ軍の落とした爆弾の破片であった。

実際の物を見せて戴いたが、その鉛の塊は手に持つとずっしりと重い。断片のには細かい破片のような物がぎっしりと詰めてある。爆発すると細かい破片が飛び散ってそこいら中に突き刺さるように工夫されているという。

こういった破片は、立木にも刺さって、最近になって成長した木を製材した所、製材所のノコギリの刃がいかれてしまったそうである。その時に傷ついた線路は、現在桜木駅の構内に2本残っているそうである。

爆弾の欠片。直径が14〜15センチでずっしりと重い。
みんなで守って欲しい
山本さんは、工事の始まる前の測量の時から二俣線と関わってきた。そして、開通後も受け持ち区間を守続けてきたのである。台風の日には夜中であろうと飛び出していって巡回をした。そして線路には草一本生やさないように心がけてきたという。

「私らの時代には、線路監察という検査があって、一等、二等と等級をつけられたもんで、競走できれいにしたもんだった。掛川から新所原まで5〜6人づつのグループが11班あったからねえ。最近は草ぼうぼうで見られやへんがねえ。私らは情けない線路になっちゃったと思ってるんだけんが、自分の身体と同じこんで、年をくやあこうなるもんかなあと思ってるだけんが…アハハハ…。」

そして、それ以上に辛かったのは、二俣線の廃止問題がささやかれ始めた時だった。二俣線と共に生きてきた山本さんにとっては、身を切られるような思いだったのだろう。

二俣線は昔の人たちが苦労して作った路線でもあるし、地元の人達の大切な足でもある。利用者少なくなったとは言え、通勤通学の足として利用している人も決して少なくない。「みんなで守っていって欲しい」と、山本さんは今、声を大にして叫んでいる。
二俣線から蒸気機関車が姿を消す最後の写真1971年3月31日をもって姿を消した。(燃料効率が悪く、大量の煙を出す蒸気機関車を淘汰するため、国鉄の動力近代化計画により廃止された。)
あとがき

二俣線は「赤字、赤字」と言われているが、それではどの位赤字なのかと言うと、昭和58年(1983年)度の実績では、100円の利益を上げるための経営係数は962円掛かったという。28億2,600万円の赤字である。しかし、合理化を図り、減量経営、現行の国鉄運賃の1.5倍にあたる特別運賃制度を導入すれば、経営係数は167くらいになるという。

1.5倍の値上がりは痛いところだが、乗客が増えない限りは現行の運賃は望めないだろう。国はそっぽを向いたが、一応、第三セクター方式での存続の見込みは立ったようである。存続沿線市町村対策協議会の会長でもある榛村純一掛川市長は、件や沿線市町村以外に沿線の民間有力者や企業にも株主になってもらい、地域の連帯資産として位置付ける構想の一端を明らかにした。赤字に歯止めをかける目安が得られ、沿線の交通問題への対応策の方向付けが出来れば、来年早々にも会社設立に向けて踏み出すとのこと。

二俣線は東海道本線同様、通勤通学や車に乗れない人々の大切な足となっている。至る処で路線バスの廃止が実施されている昨今、それらの足となるのは路線バスだけでは将来の不安も残る。観光利用も視野に入れて是非存続させてもらいたい。