掛川最北端のくらし
78%KAKEGAWA Vol.64 1985年7月号掲載
過疎になった明ヶ島
掛川市最北端の村である明ヶ島は、掛川駅から車で約45分、戸数わずか6戸の過疎の村である。その6軒も若夫婦が同居している家は1軒だけ。ほかの5軒は老夫婦が2人だけで生活している。

山林業が盛んだった10年位前までは、次男、三男もほとんどの人が村に残り、植林をしたり、木を伐ったりする仕事に従事していたと言う。ところが、林業が不況になり、小学校が廃校になってからは、長年住み慣れた村を捨てて、山を下りていく人が増えた。

私達が取材に行った日は、村の中で子どもの姿はついに見かけなかったし、車の走る音さえ聞こえなかった。村中がシーンと静まりかえっているようで、住む主がいなくなった家は、心なし淋しそうに見えた。道路沿いにあった朽ち果てる寸前の小屋の中には、埃まるけの長いすの横で、雑草が我が物顔で生えていた。

茶畑で野良仕事をしていたおばさんは吉野さんといって、やはり夫婦2人だけの生活である。今は10月にお嫁に行く予定の娘さんが帰ってきているので娘さんの乗用車があるが、娘さんがお嫁に行った後は、再び車のない生活がはじまる。

ここから路線バスが走っている所までは、1時間も歩いて行かなければならない。しかも帰りは買い物などの重い荷物を下げて山道を登ってくるわけだから、1時間半以上はかかるという。

明ヶ島では路線バスが廃止になったわけでなく、最初から走っていないのである。しかし、昔はそれが当然だったし、誰もが歩くことに慣れていたはずなのに、いつしか車という便利な乗り物に振り回されて、車のない生活が考えられなくなってしまった。しかし、昔から同じ生活を続けている人にとっては、歩くことは苦痛でも何でも無い。ところが、明ヶ島の住民にとって昔と違うことは、若い人がいなくなって、全てが老夫婦の肩にのしかかってくることである。いくら足腰が丈夫とは言え、年をとれば身体の故障も出て来るのである。

林業の不況で村人の多くは山を下りた。
朽ち果てる寸前の誰も住まない小屋の中では雑草が生えていた。
町は水がまずいしね…
吉野さんは昭和22年(1947年)に高塚から嫁いできた。

「昭和22年って言えば食糧難で大変な時代だった。田んぼもある、畑もあるって聞いたもんで、食べるものが有れば呑気でいいと思って来たんだけど、まさかこんな山奥だとは思わなかったもんで、びっくりしましたよ。今のこの道がなくて。どこをどうして来たのかもわからなくて、逃げて帰りたくも帰る道はわからんし、山道が恐くて帰るに帰れなかっただよ…アハハ。今だったら何をしてもいいから、こんなとこへは来なかったけんね。だから、子ども達には、こんなとこに居ちゃあいかんって、なんしょう出て行くように言ってるだよ。」

しかし、逃げて帰りたいと思った所でも「住めば都」で、今はここから出て行きたくないという。

「町っていろんな匂いがあるしねえ。水はまずいし…。健康でこうやって野良仕事が出来るうちは、ここに居たいねえ。」

川の水は澄んでいるし、車の排気ガスや騒音に悩まされることもない。時間に追われることもなく一日は静かに過ぎていく。あくせく働くこともないし、畑からは自然農法で作られた安心な野菜が手に入る。

必要なものが有れば下(しも)の方にある店に電話すれば、大体の物は届けてくれると言う。自然に守られ暮らす豊かさ。病気にさえならなければ、こんなに素晴らしい人間らしい生活はない。

こんな明ヶ島でも、お正月とお盆の時期がやってくると急に賑やかになる。町に出ていった息子さんや娘さん達が里帰りしたり、一家で離村した家もお盆になるとお墓参りにやってくる。そして、夏場は近くのキャンプ場にやってくる人々で一度に活気づくのである。

吉野さんの家でも。日曜になれば息子さんや娘さんが子どもを連れて交替でやってくる。だからここにいてもちっとも淋しくないのだと言う。「身体の自由がきかなくなったり、どちらか片方が取り残される時期がやってきたら、村を出て行くつもり。」と言う。

配偶者がいなくなった時には、他の家でも山を下りて行く人がでてくるだろう。いつの日にか全く無人の村になってしまう可能性も出て来るわけだ。
茶畑で一人野良仕事をしている吉野さん。時間はのんびり過ぎていく。
吉野さんご夫婦のお住まい。
山を下るとそこには渓流が。
分校が消えてしまった…
過疎化になった一番の原因は、教育問題だと吉野さんは言う。

原泉小学校の明ヶ島分校が現在のキャンプ場の管理棟がある所にあった。原田小学校に統合され昭和42年(1967年)に廃校になってからは、原田小学校へ通うようになったが、スクールバスを出してもらうのが条件だった。とはいえ、スクールバスの来る所までは、大人が歩いても30分以上掛かる山道である。小学校1年の子どもでさえも歩いて通わなければならない。もちろんだがここには幼稚園もなければ塾もない。

本当の教育というのは自然の中で育まれていくものだと思うのだが、学歴社会の中で大人達の方が不安を抱きはじめたのかもしれない。

こうした教育問題に加えて、木材の不況が村人に山を下りる決心をさせたようである。しかし、根本的な問題はもっと別な所にあるような気がする。

田舎に住む者は都会の生活に憧れ、都会で生活している者は田舎の暮らしに憧れる。どちらも自分達の生活にないものを求め、良い面ばかりを見てしまうからだ。しかし実際に生活してみると「こんなはずではなかったのに」と後悔することになる場合が多い。

最近は、全国で「ふるさと村」なるものが大盛況。会費を払えば田舎生活が体験できたり、農作業もやらせてもらえたり、田舎で採れたものを送ってくれたりと、至れり尽くせりの待遇を受けられるという。

お金でふる里を買うことが良いか悪いかは別として、都会人の中にはお金を払ってでも田舎暮らしをしたいと思っている人もいるのである。これはある意味でその都会人がふる里を持っていないからに他ならない。

石川啄木は「ふるさとの山に向かいて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」と言っている。一家で離村してふる里がなくなってしまった者は、今度はお金でふる里を買うのだろうか…。
渓流に掛かる手作りの橋。
柚葉…山の中腹の村
明ヶ島の手前には、田代と柚葉という2つの部落がある。柚葉は7戸の内5戸が離村したが、現在は3戸がそこで生活している。1年半前に新しい住民が加わったからだ。柚葉は山の中腹にある部落で、急な坂道の途中に、朽ち果てる寸前の家やまだ充分に住むことの出来る家が点在している。

柚葉と明ヶ島の違いは、明ヶ島では先祖の墓はそのまま残っていて、お盆になれば、離村した人も墓参りに帰って来る。ところが柚葉では、離村した人は墓まで持っていってしまった。もう柚葉には二度と戻ってくる気が無いのだろうか。しかし救いは、残っている2軒共、若夫婦と子どもが揃っていることだ。そして、新しい住民も加わった。これからどうなっていくかわからないが、新しい住民が増えたことで村に新たな光が灯ったようである。

昔から住んでいるのは高木さんと杉本さんのお宅。高木さんのおじいちゃんは、80才を過ぎているにもかかわらず、足も身体もいたって丈夫だから、どこへでも歩いて行ってしまう。しかも、柚葉は山の中腹にあるために、屋敷から出れば上り坂か下り坂のどちらかである。

畑に行くにも、隣の家(と言っても2軒しかないが)に行くにも、必ず上り下りしなければならない。少し歩いただけで「ああ、疲れた」なんて言ってたら、とてもここでの生活は出来ない。空気はきれいだし、毎日足腰を鍛えているのだから心身共々丈夫なわけである
柚葉(ゆずっぱ)の戸数は3軒。
高木さんのおじいちゃん。
タクシー料金だけは町にはかなわない
左の写真の手前に写っているのは、高木さんのおじいちゃん手作りの自動車(大八車のような長い荷車)だという。山から荷を運んでくるのに使うそうだが、手先の器用なおじいちゃんは、生活に必要な物は、ほとんど自分で作ってしまうそうだ。

「ここでは派手な生活さえ望まなければ、食べることに困ることはない。みんなが、あんまり頭が良くなりすぎただな。薪のかわりに燃料がガスになったりで、便利になっても、便利さを追いかけるあまりに、結局は金に追われて生活が苦しくなり、山を降りていくだな。」とおじいちゃん。

全くその通り。多くの人達はお金がなくなっても車をやめることはなかなか出来ない。薪でお風呂やご飯を炊くことも多分しないだろう。

家の中に入ると、お風呂を沸かしているのか、奥の方で薪のはぜる音がしてくる。燃えている木の匂いが漂い、得も言われぬ子どもの頃の感情を呼び起こしてくれる。

私の実家でも、母が薪を燃やすお風呂でなければ嫌だと言い張って、つい1〜2年前までは薪でお風呂を沸かしていた。方々でスイッチひとつでお湯が出るという話を聞く度に羨ましがったものだが、今考えると、薪で沸かしたお風呂は熾(おき)が残るから冬でもすぐ冷めないし、第一にあの薪の燃える匂いがたまらなく懐かしい。

今では、住宅街では廃材や庭木の剪定した枝が出ても燃やすところもなく、市が回収して焼却場で燃やしている。考えて見れば、燃料に成るものを見す見す捨ててしまっているのだから、こんなに無駄なことはない。

ここ柚葉でも町に居るよりお金の掛かるものがある。それはタクシー代である。車の乗れないお年寄りにとって、町の病院に行くときは大変勇気がいる。路線バスが走っていないので、行きは送ってもらうにしても、帰りはタクシーに頼らざるを得ない。料金メーターはどんどん上がりその度に冷や冷やする。近道を通ってもらい、最後のメーターが変わる寸前で降ろしてもらうそうだが、それでも片道4千円前後もかかるという。
高木さんのご夫婦と2人の孫。手前はおじいちゃん手作りの自動車(?)。
高木さん宅。夕方になると奥の母屋の煙突から煙が上がる。
高木さん宅の農作業小屋脇の入口から。
掛川版「ロッキード!?」
柚葉7戸、田代7戸、松平2戸の計16戸の住民が、戦争に負け終戦になった次の年(1946年)、電気を引いてもらいたいと、静岡市まで陳情に行ったことがある。「こんなことは話していいだかわからんけんが、今だで種明かしをするんけんが…」という前置き付きで話してくれたのは、掛川版ロッキードである。

「静岡のおえら様(偉い人の意味)の衆の所へ、『山奥だけんが電気をつけてもらいたい』って頼みに行った。事務所の方じゃ人がいっぱいいるもんで、自宅の方へしいたけを届けただけんが、しいたけを入れた箱の下にお金を入れてっただよ。お金をもらったでって言えないもんだで、『こんなに熱心に来てくれるで、いっぺん視察に行って来にゃあならん』っと言って、ようやく来てくれた。」

おかげで、間もなく柚葉、田代、松平の奥地にも電気が灯った。

新しい住民は奇特な人
柚葉の新しい住民というのは、タウン誌78%にもよく投書をしてくれる、松浦秋夫さんという26才の独身男性である。松浦さんに一度会ってみたいという興味と、今、全国的に問題になっている過疎化が、現実に掛川にもあることを読者の皆さんに知って貰いたくて今回の特集を組んだ訳ですが、松浦さんは、明ヶ島や田代、柚葉の住民の間では、今時珍しく奇特な人(奇人という意味ではありませんよ。心がけが良くて感心な人という意味です。)と言われています。住民全員が温かい目で見守ってくれているのです。

田舎というのは、煩わしい面もある反面、人と人との繋がりが深いという良さもあるのです。しかし、松浦さんが柚葉に住むにあたっては、簡単に事が運んだわけではありません。

松浦さんが後になって聞いた話では「若い者が山の中に籠もるなんておかしい。爆弾でもつくるんじゃないか」と警戒されたそうだ。今になってみれば笑い話である。実際に住んでみると、警戒されている様子など全く無かったと言う。村人にしてみれば「こんな村イヤだ」と言って出て行く人が多い中で、若者が一人で「どうしても住みたい」なんて言うのは、どう考えても腑に落ちない事だったのだろう。

道から少し奥に入ったところにある松浦さん宅。ここからは山々が見渡せる最高の景色が広がる
ようやく新しい住民に…
最初の2軒はその場で断られた。3軒目(現在住んでいる家)も、なかなか良い返事がもらえなかった。いい人ならいいが、悪い人だと柚葉の人に迷惑がかかると言って、家主が危惧したからだ。

それからは、度々柚葉を訪れては、自分の生き方や考え方を杉本さんの奥さんに話しをしたりして、ようやく信頼を得たようだ。高木さんのおじいちゃんが、「そういうことを言う人が、悪いこんをするわけがないで…」と言ってくれたことで、ようやく話が進展した。

しかし、柚葉といっても2軒だけの部落であるから、近くの田代の人達とのつながりも深い。集会やお庚申さま(神を祀って夜まで酒を飲む?)も合同でやったりする位だから、一応、田代の人達の了解も得なければならないと、全員が集まった所で相談の場が設けられた。

「過疎化になっている折りでもあり、その中に、たとえ一軒でも一人でも来てくれるって言やあ歯止めにもなるで、いい人ならぜひ来てもらったらどうか」という意見が出たことで、全員の賛成が得られ、ようやく柚葉の住民になることが出来たのである。
柚葉の新しい住民の松浦さん
動物が出迎えてくれる
松浦さん自身は、「ここを生涯の定住地と決め、たとえ一人になっても出て行く気は無い」と言う。柚葉は田代や明ヶ島と違って、山の中腹に家が建っているので、いつでも周りの山々が見渡せる。そんなところが大いに気に入っているそうである。

柚葉の住民になって今年の9月で2年になる。現在住んでいる家は、離村した住民の廃屋だったにもかかわらず、家の中を改装したばかりだったので、すごくきれいだったそうだ。8畳2間、6畳2間、寝室、台所、トイレ、風呂、裏には倉庫があり、都会のアパートなんか問題じゃない位に広い。家賃もかなり安そうだ。

家の前には、ピーマン、茄子、トマト、中国野菜などの家庭菜園もある。昨年は種を蒔いただけで全然手入れをしなかったが、食べきれないほど収穫があった。今年はしっかり手を入れたのでもっと獲れるだろうと言う。村の人達もいろんなものを届けてくれる。

柚葉では新聞は郵送で送られてくる。もちろんチラシは入ってこない。大雨が降れば崖崩れで道路が通行止めになることもある。こんな山奥には訪ねてくる客も滅多にいない。だけど、春が訪れる頃から、通勤帰りの夜などは、野ウサギやタヌキ、キツネなどの動物が出迎えてくれる。車と並んで一緒に走ったりもするという。
松浦さんの自宅前。時にはこんな作業もする。
黒板には様々な伝言が…
松浦さんは一人住まいの会社員だから、会社が休みの日以外は日中は留守になる。そこで、家の前に黒板を置いた。村の伝言はそこに書いておいてくれる。郵便局の人が「○○の記念切手が何日に発売される」とか、隣のおばあちゃんがメッセージを書いてくれたりとか、黒板一枚が温かい交流の場を作ってくれている。

勤務先まで車で45分。ちょっと大変だが、このような村人との交流や柚葉の豊かな自然が、一日の疲れを癒やしてくれる。

最後になってしまったが、松浦さんがなぜ柚葉にすむようになったかを聞いてみた。以前から、山奥の空気がきれいで静かなところに住みたいという希望を持っていた。宅急便の配達員という仕事柄、住宅地図を見ることが多い。地図には住宅が四角く囲ってあって、その中に番地と世帯主の名前が記入されている。

田代や柚葉の辺りを見たら空白が多かった。家はあるけど人は住んでいないと思い、早速出掛けて行ったそうである。最初は田代に行ったが、地図会社の調査がされていないのか空いている家はなかった。田代のあるおばあさんが「柚葉に行けばいっぱいあるよ」と教えてくれ、それがきっかけで柚葉に住むことになったのである。

一人ぼっちの方が好きなので、人恋しいことはないと言う。だけど、「旅に出たり、いろんな人と接して、いろんな話をして自分の世界を拡げる」ことを目標に生きているので、人と接することは嫌いじゃないと言う。むしろ積極的に村人と接しているそうだ。一人が好きだとは言え、やっぱりお嫁さんはほしいようだ。
松浦さんの仕事用の車
豊かさとは…(あとがき)
掛川でも、明ヶ島や田代、柚葉以外にも、少し山奥に入った集落では、過疎化の波が徐々に押し寄せている。だけど、掛川辺りでは山奥と言っても知れている。(道路は開通していて、電気は通っているし郵便も来る。)なのに、なぜ人々は生まれ故郷を捨ててまでも都会に出て行こうとするのだろうか。町に住んでいる人達の多くは、町がより都会化していくことを望んでいる。
家の中を見廻してみれば、狭い家に必要の無い物がゴロゴロしているのではないのか。豊かさを求める余り、結局は(無駄な消費をしたために)生活に追われて四苦八苦しているのが多くの現状ではないだろうか。今の生活が本当に豊かなのかを、もう一度見直してみる必要があると思う。