掛川版「ええじゃないか」
78%KAKEGAWA Vol.63 1985年6月号掲載
上の背景写真は豊饒御蔭参之図(ほうねんおかげまいりのず)1867年(慶応3年)
浮世絵師 歌川芳幾画。
大衆のエネルギーが爆発!
慶応3年(1867年)江戸時代最後の年に、討幕派が勝つか、幕府が盛り返すか、緊迫した政治情勢のもとで、突然、奇妙な大衆行動起こり、「ええじゃないか」踊りが大流行した。桃井かおりと泉谷しげるが主演で映画(松竹・今村昌平監督)にもなった。

男は女装、女は男装をしたり、派手な格好をして「ええじゃないか、ええじゃないか」と言いながら踊り狂い、大衆のエネルギーが爆した。騒ぎの発生については、この年の8月頃、三河地方に伊勢神宮や熱田神宮のお札が、空から舞い落ちてきた「お札降り」に端を発する。

当時の人々にしてみればこの現象は神がかり的に見え、奇跡の起こる前兆として捉えられた。しかし、「お札降り」と言っても、お札が空から降ってくるわけがなく、誰かが置いていったものだろう。実際には貧しい家には降らず、お金のありそうな家ばかりに降っていた。という事は、誰かが何かの目的で置いていったということになる。金谷ではお札のいっぱい詰まった箱を拾った人もいたという。

それでも、お札が降った家では「ありがたい」と言って、そのお札を神棚に祀り、村人達に酒食の大盤振る舞いをしたと言う。

「ええじゃないか」は、三河で発生して東海道筋に広がり、東は江戸、西は京都、大阪、四国地方まで波及していった。

もちろん、掛川周辺でも至る処で「お札降り」があった。三河から近いこともあって、江戸で11月下旬にピークを迎えているのに、掛川では8月、9月にすでに大いに盛り上がりを見せていた。
伊勢参宮 宮川の渡し」安藤広重画
お陰参り
「お札降り」はそれ以前から、60年に一度位の割合で、三重県の伊勢神宮へ参拝する「お陰参り」の時からあったと言われている。

「お陰参り」というのは、江戸時代、特定の場所で起こった爆発的な庶民の伊勢神宮参拝現象で、子は親に、妻は夫に、奉仕人は主人に内密で抜け出す者も多かったので「抜け参り」とも言い、とがめだてしない慣習だった。

「お陰参り」の道中は、歌い踊り歩き、衣裳にも趣向を凝らしたりして数十人が一団となり、時には数百人にも及んだという。60年周期ぐらいに発生しているが、なぜ60年に一度なのかはわかっていない。

1830年にも「お陰参り」が有り、その後37年後の慶応3年(1867年)に発生した「ええじゃないか」は、このお陰参りの変形、つまり臨時のものではないかと言われている。

お伊勢さんには御師(おし)と言う、伊勢講(参拝するために組織する団体)を募集したり、伊勢参りを勧めながら全国を歩く今で言うセールスマン的な人物がいた。この御師と、薩摩藩、長州藩が手を組んで「ええじゃないか」を仕組んだものではないかという見方もされている。

幕末から明治に変わる時でもあり、政治的な目論見があったという見方だ。事実、宗教に熱狂する事で、民衆の封建的支配に対する不安を発散させる役割も果たした。
伊勢参宮 宮川の渡し」安藤広重画
他人のお陰…
島田宿における、文政13年(1830年)の「お陰参り」の時は、伊勢参りの往来が頻繁になると、各宿内(町内)から次々と対応するための申し出がなされた。

お陰参りの旅人に関して、風呂をたいて振る舞いたい、休憩所を設けて湯茶の接待をしたい等々、それぞれの場所に「おかげ参ふるまい」という幟(のぼり)をたてて、並木の下でお茶を用意して接待し、駕籠(かご)まで用意して旅人の送迎にあたった。

突き出しで飯を提供し、赤飯を用意する所も出て来て、さらに旅人一人一人に一足の草鞋(わらじ)を提供する所も出た。まさに至れり尽せりの接待をしたという。

又、町内単位ではなく個人的に炊き出しをしたり、駕籠振る舞いをする所も出て来たりした。その駕籠にいたっては大変豪華なもので、日よけは緋縮緬(ひちりめん)をしつらえてあり、人足の褌(ふんどし)まで緋縮緬で揃え、襦袢(じゅばん)や半纏(はんてん)も花色の絞りで作り、もめんの布団も紬の類であったと言う。このような豪華な駕籠を用意したのは、その家にお稲荷さんのお札が降ったためであったらしい。

その後も島田宿内に次々とお札が降り、ますます熱の入ったものに進展していった。宿泊を振る舞う所もあって、お陰参りの旅人は、ほとんど無銭で旅をすることが出来、他人のお陰によるところが大なので、「お陰参り」と言われた。

しかし、1ヶ月後には幕府など取締当局は、お陰参り振る舞いも大変な失費であることを恐れて、中止させるために積極的に取締を行ったが、もちろんこうした規制で急に下火になるようなものではなかった。

この時のお陰参りには乳飲み子を抱いた女性も積極的に参加していたという。幕藩制社会における女性の地位は極めて低いものであり、自由すらなかった。

そして、この年の夏から秋にかけてこの地方の農業状態は、大雨に続く台風で大変な不作となり、年貢の減免を願う百姓たちの要求が、領主や大名たちに対し、支配体制の本質を揺るがす程に高まっていた。

不作の激しさがそうさせたというより、農村社会の構造の本質の変化に基づく当然の結果であった。つまり、この時のお陰参りは、封建社旗の変化や変質の重要な段階を示している。単に60年に一度のお祭り騒ぎというだけではない農民や大衆のあからさまな姿であった。
伊勢参宮 宮川の渡し」安藤広重画
お札が飛んできた!
遠州佐野(さや)郡久居島の塩沢勝右衛門という人は。掛川の北にある村々に突如発生した「ええじゃないか」の騒ぎの顛末を克明に記録していた。

慶応3年(1867年)8月9日に吉田(豊橋)に「お札降り」のあった翌日に、浜松でお札が降った。そこから北上して山梨、森に伝わり、8月23日に掛川藩の榑子(くれご)村にお札が降り始めて以来、平島、大和田、市井平、久居島などの村々に翌年の正月まで、半年にわたってお札が降り続いたという。

同一地域に半年もお札が降り続くというのは非常に珍しいことだったようである。初めは村人の対応も、騒ぎという程のことではなく、お札降りのあった家でお酒を献じ、村人が参拝にいく程度であった。

しかし、9月中旬に入ると、村中の若者全員が出て、氏神様の境内に集まり、白い手拭いを用意して鉢巻きをし、茜の帯も用意して腰に巻き、揃ってお札降りのあった家に押しかけるのであった。

押しかけられた家では若者達に多分の酒を与え、また餅等も与えた。さらに夕食まで出したから、酒の力も加わって夜遅くまで踊りまくって祝った。翌日には、御神酒を天王八幡宮へ献じ、それを村中の人で頂戴して、この騒ぎは一段落した。

ところが、昨夜の騒ぎの片付けをしてそれぞれの家に帰り始めたのと前後して、午前10時頃、このお札降りの騒ぎを一層エスカレートさせる出来事が起こった。

氏神の境内に、西の方から豊川稲荷のお札が飛んできて降ったという噂が広がり、噂はどんどん増幅していって、原野谷川の支流にある西之谷川に沿って開けた久居島、上島、中島、川原田、横根沢、市居平、榑子、大畑など、村々全てを巻き込んだ大規模な「おかげ騒ぎ」に発展したのであった。


半年続いたお陰騒ぎ

まず、村中の者が総出でそのお札を祀り、御神酒を献じて参拝した。久居島ではこの騒ぎの主役を、また若者達が引き受け、腰蓑を着けて集まり、身を清めた後は、磐田の見付天神の裸踊りや鬼踊りをしたという。

踊り騒ぐうちに久居島村を出て、山坂を越えて上島村の神社にも出掛けて行った。上島から帰ってからは急造の屋台まで作った。屋台を曳いた若者達は久居島下組の餅を受け取りに行った。

村中から集めた餅米を搗いて(臼に入れて杵でつく)長持ちに入れ、それを5〜6人の若者がかついで、長持唄を歌いながら行く後を、笛や太鼓を打ち鳴らす屋台が続くといった賑やかなものであった。

酒を飲んでは屋台を曳き廻し、次の部落へ餅を受け取りに行くということを繰り返していた。他の村からも続々と御神酒が届き、参拝者は次々に訪れるわで、終わるに終われない状況になっていた。

その内、中島村から使者が来て、中島の五兵衛の家に来て騒いで欲しいという申し入れがあったり、他の村から投げ餅が寄せられたり、さらには特定の人物から招きがあるなど、騒ぎを再生産する事態が次々に発生した。しかも、通常の「お札降り」とは異なったお札降りがあったと、人の噂が広まったりして、まれにみる騒ぎに発展していった。

途中、9月29日のお札降り以降、10日間ばかりお札降りはなかったと言うが、中断したのは農事に忙しかったからではないかという。その後もお札降りが続き、翌年の正月まで続いて、ようやく終わったのである。

この騒ぎの最中には、屋台や踊りなどに混じって投げ餅がしきりに行われたが、この附近は山々に囲まれていて米作地帯ではなかったから、餅米の負担だけでも大変であったと思われる。若者を始め、村中の中老、年寄、女、子どもに至るまで、まさに酒漬け、ご馳走漬けみたいな日々を送り、その付けは決して安くはなかったろう。

ほとんどの村では、お札の降った家が個々に対応していたのに、久居島を含む西之谷の村々では、村全体で対処したために、個々人の意志にかかわらず騒ぎが発展したことが、止めるに止められない状況に追い込まれた原因でもある。又、村と村の義理やつき合いが絡んでいたことも長引いた原因の一つであった。
二夜三日で終わった梅橋村
久居島の長期的「おかげ騒ぎ」と対照的なのが、梅橋村である。梅橋村には8月27日夜、秋葉街道にある秋葉山の常燈明に、富士浅間様(袋井の浅間神社)のお札が降った。

翌日早朝から村中の人が出て、降ったお札を祀る神棚を作り、酒屋や豆腐屋、魚屋などに買い出しに行く者や、あるいは餅を搗く者と、お札降りを祝う準備に忙殺された。

準備が整った後は、若者達が繰り出して、太鼓を叩きながら気勢を上げ、それから3日間、飲んだり食べたりの「おかげ騒ぎ」が始まるのであった。

しかし、この騒ぎも二夜三日経つとぴったりと終わったという。梅橋村では、特定の個人の家へのお札降りがなかったせいか、二夜三日の騒ぎの経費は村内全員で負担し合ったと言う。

そして、梅橋村附近では、久居島村付近の騒ぎが延々と続く中で、慶応3年(1867年)10月の終わり頃になると、お札降り騒ぎが全体として鎮静化していったと記されている。




早く終わらせようとした地主
上垂木村では合計11軒の家にお札が降った。その中の中山家当主が記した幕末期の日記の中で「慶応三年卯日記」というのが残されている。

上垂木村では9月7日に、徳太郎と市平の両家に初めてお札降りがあった。この時中山家の当主は、別の用件もあって使い番を出してお札降りのあったことを郡奉行に報告をさせている。

お札降りのあった家では、押しかけた村人に酒食を出して振る舞った。10日になると4軒にお札が降り、翌日にはお札降りのあった家に中山家当主も出掛けて祝った。酒を飲んで大いに気勢を上げていた所に、家人からの知らせで当家にお札が降ったことを知り、早々に引き上げ家に戻ったと言う。

中山家にもお札が降ったことを知った村人が次々に押しかけてきたので、中山家でも酒食を振る舞った。翌12日には村人が集まってお札を祀る神棚を作ったりしている所にまたまたお札が降ってきた。こうなると、押しかける村の人の数は激増する一方。酒を飲んだ人々が興奮して何が起こるかわからない不安から、集まって村人に酒を出すのは別家(分家)を会場とした。

幕末の農村は階層分化が進み、貧富の対立が激化していたために、このおかげ騒ぎを契機に爆発するのを恐れたようだ。中山家がお札降りのあった事を掛川の代官所(藩奉行)に詳細に報告していたことでもわかる。

しかも、12日に村人の手によって作られた神棚は、13日の朝には早くも片付けられていたようだと言う。一昼夜経つかたたない内に片付けられたのは、中山家がおかげ騒動の不気味さから一日も早く解放されたいという気持ちの表れではないだろうか。

上垂木村のおかげ騒動では、村人は老いも若きも酒を飲み食べ、降ったお札に群れ参拝する姿は、他の村のお札降りと何ら変わらないが、そうした騒ぎを少しでも早く終わらせようとする動きもあった事にも注目したい。

降った村と降らなかった村
さて、お札降りのなかった桑地村では桑地村の3名が中山家に立ち寄って、「桑地村へもお札を降らせて欲しいので、市平の所へ頼みに行ったが、断られてしまったので、ぜひこちらからも声を掛けてほしい」と、中山家の当主に頼み込んだと言う。

「お札降り」は一般大衆の間では、その札を撒く人も公然の秘密のように知られていたようだが、各地の村々で次々とお札降りが発生して居るのに、お札降りのない村では、八百万の神から見捨てられたのではないかという不安や焦りがあったのだろう。

降った家と降らなかった家
久居島の「おかげ騒ぎ」の中にも、お札が降った家と降らなかった家の者との間には、一種の精神的な安定と不安定がかもし出されたと言う。

お札の降った家の者が、大尾山へお札参りに行く時、札降りがあったわけでもないのに、大尾山に登る人達へ、酒一斗を買って振る舞い、同道して参拝した人もいたという。酒一斗でも特志だと言うべきなのに、さらに餅一臼を搗いて持参したという。他家にはお札が降るのに、自分の家に降らないことに不安を抱いた現れでもあろう。
コノ世直しに…
金谷の峰村では、自作の歌を高らかに合唱して踊り狂ったという。

一ットセ
人目しのんで我先に 皆さんござれよ伊勢参り コノ世直しに
二ットセ
夫婦仲よくくらすなら 神々御札が舞下る コノ世直しに
三ットセ
見事かざりし神々の 御仮屋榊でまつります コノ世直しに
四ットセ
夜昼祝うて宿々が にわかのはやしで笛太鼓 コノ世直しに
五ットセ
いつの間にやら餅を搗き お祝いするのが数しらず コノ世直しに
六ットセ
むしょうに蒔くのは銭と金 ひろうたお方もまかしぇんせ コノ世直しに
七ットセ
ならんで付込む剣菱や お神酒の施行で酔いました コノ世直しに
八ットセ
家なみ祝うてこの頃は 月日の立つのもいやとせぬ コノ世直しに
九ットセ
今年の豊年万作は 十百年にもためしなし コノ世直しに
十トセ
年寄子供も残りなく かちんや御神酒で腹鼓 コノ世直しに


この数え歌の中で、峰村の人々が「この世直し」という言葉を繰り返し唱えていたことからもわかるように、民衆の中に、世の中を変え住み良いものにしようという動きもあったことは否定できない。

しかし、久居島の勝右衛門の「お賀げ帳」には、神様仏様のお陰で賑々しく保養した、と書かれているという。結局は大多数の民衆は、世直しなどという意識は薄く、日頃の生活から抜け出たような、飲んだり食べたり、歌ったり踊ったりできる、大尽(だいじん:富豪)のような日々の方に、より魅力があったようである。

(参考資料及びご協力:掛川市史、島田市史、掛川市史編纂室)