桜木をたずねて
78%KAKEGAWA Vol.62 1985年5月号掲載
桜木村
上の写真は雨桜神社の祇園祭。御輿が六所神社から雨桜村へ返る時の行列。雨桜神社の神は六所神社から嫁入りしたので、毎年7月7日には御輿は六所神社へ里帰りする。
桜木村は昭和7年(1932年)に雨桜村と垂木村が合併し出来た村である。(掛川町と合併したのは市制施行の昭和29年)それ以前、明治6年(1873年)に下垂木村と合併したという嶺村は、当時の戸数がわずか13戸、人口56人という小さな村だった。

同じ桜木でも家代村は比較的大きな村の中に含まれていたが、それでも明治22年(1889年)の戸数は142戸、人口592人であった。このような村が至る処にあり、桜木に限らず、明治元年以降、村同士が合併しながら現在の掛川市が出来上がったのである。

榛村純一掛川市長の出身地でもある桜木村は、純農村地帯でありながら、他の農村地に比べ、住民は非常に進歩的な考えを持っていた。指導者に恵まれていたということもあるが、昔は「塩の道」の沿道として栄えたこともあり、それがこの村の進歩的な考え方に大きく関わっている様である。

今のように交通や情報が発達していない時代にあっては、道路が文化の発展を担っていた部分が大きく、諸国から様々な人々が通ることによって、文化が伝播し栄えていった。そのせいか、垂木村は早くから開けていて、今もってその気風が引き継がれ、いいと思われることはどんどん受け入れる姿勢を持ち続けている。


身上もつなら上垂木
掛川近在では、お嫁さんをもらったときには、隣近所の人を招いて土人披露(どにんびろう)を行うのが習慣になっている。どこの地域でも余程の理由が無い限り、一家の長である男性が出掛けて行く。ところが、いつの頃か桜木の家代南では土人披露に関しては、どこの家からも主婦が出掛けて行くことになっている。お嫁さんを披露するのだから、これからつき合いの多くなる主婦が行くのが当然という考えからだ。

こんなふうに習慣も変わって行く。このような考え方が通用するのも、この地域の「いいと思うことはどんどん受け入れる姿勢」の現れである。

その昔、掛川近在で「奉公するなら本郷、細谷。身上もつなら上垂木」と謡われていたそうであるが、これは、世帯を持つなら上垂木が安定している、奉公するなら本郷村か細谷村が気楽でいい、という意味だそうです。

上垂木は「塩の道」の沿道として栄えていたこともあるが、農業生産高も水準より高かったこともあって、生活が豊かだったと思われる。
塩の道
市内の「塩の道」は、当時の大池村(鳥居町)から下垂木村小津根(おずね)、家代、細谷、吉岡、原川を通って森町に出た。森町から水窪に抜ければ、信濃や甲斐の国に通じていた。相良の浜でとれた塩を、海を持たない信濃や甲斐に運んだ重要な道であった。

この塩の道の途中には、火の神様である秋葉山もあり、お参りに行く人達の通行道路としても、大いに賑わったようである。ちなみに、秋葉山は、平安時代に宮殿が焼けた時に、秋葉山の神が行って火を沈めたということで、正一位秋葉神社という位の高い神社になったと言い伝えられている。

東海道を旅する旅人の中には、わざわざ遠回りをして、この秋葉山にお参りをして水窪を通り、豊橋に出た人も大勢いたという。秋葉山に行く道は何本かあったようだが、駿府近在の人達にとっては、この塩の道が一番の近道だったようである。

鳥居町の秋葉通入口には、赤い大きな鳥居が道路を跨ぐような格好で構えていたそうであるが、今は取り払われて小さな鳥居がっわずかに昔の面影を残している。但し、常夜灯だけは今も残っている。

この常夜灯というのは、今の街路灯に匹敵するもので、電気のない時代にあっては、その果たした役割も大きかった。常夜灯は秋葉山に通じる道の所々にあって、今でも数カ所はそのまま残っている。
下垂木と家代の境に現存している秋葉街道三番目の常夜灯。近くの商店を灯明商店と言った。(現在は廃業している。)
17才の戸長(村長)さん
村長制になったのは明治22年(1889年)の町村制発布の時からで、それ以前は戸長と呼ばれていた。当時は選挙などはなく、住民の間の話し合いで決められていた。

家代村の戸塚伊六氏は、17才という若さで戸長に推された。年齢にもかかわらず村のために精力的に働いた。こんな話も残っている。

村内に借金の返済に困り夜逃げ寸前の家があった。この若い戸長の提案で、何とかこの家を救済しようという相談が行われた。親戚や近所の主だった人が集まり、鍬、鎌、もみすり機、布団、むしろ、肥桶に至るまで評価して値段を付け皆で分担して買い取ることになった。実際にはそれらはそのままその家で使いながら、お金を10年なり20年の間に少しずつ返済していくという方法がとられた。

残っている資料によると、借金していた金額と、評価した品物の合計金額がピッタリと合っていたそうである。大きな事業をすることだけが政治家ではない。この辺に物の考え方と同時に政治の原点があるような気がする。


村で作った私塾
県立掛川中学校(現在の掛川西高等学校)は、明治13年(1880年)に開校されたが、「学問が盛んになると反政府運動をやって困る」と、当時の文部大臣が中学校を減らすために、明治19年(1886年)に浜松中学校と合併させてしまった。そのために掛川中学校は、明治34年(1901年)に再発足されるまでの間、廃校に追い込まれていた。

当時の雨桜村家代(現在の桜木)では、掛川中学校の廃校を反対する運動が盛んに行われたようであるが、それが叶わないとなると、「それなら自分達で中学校を作ろう」と、戸長の戸塚伊六氏他9名によって、小寧精舎(しょうねいせいしゃ)という私塾が作られた。

地元の地主から資金を集め、戸塚廉氏の家の東にある寺に、尋常小学校の卒業者を入学資格として、明治20年(1887年)7月11日に開校した。当時全国各地で私塾が出来たが、掛川では小寧精舎と掛川女紅場だけであった。

掛川女紅場というのは、明治21年(1888年)江戸から中町に来た武士の立野氏が設立したが、掛川中学校の廃校反対運動とは関係無く、芸娼妓(げいしょうぎ・遊女や芸者)の資質向上を図るためであった。この掛川女紅場は大正時代まで続いた。

さて、小寧精舎では当時まだ珍しい英語も教えたりしていた。そのせいかどうか、この頃の消防団員の法被の背中にはローマ字で文字が入っている。これほど英語が氾濫している現在でも、消防団の法被に英字が書かれていると言う話は聞いたことがない。

これはただ単に、新しい物を取り入れたわけではない。ドイツ式の保守的な憲法に押し切られていた時代にあって、英国式の憲法を作るのが目標であった人達の、言わば抵抗運動の象徴でもあった。
ローマ字で組名を染め抜いた家代消防組の法被。生存していれば現在120才になる人達が、遠州屋消火にあたるときに着ていたものだ。
お父ちゃん、本読めよ…
どこの学校にも図書館が設置されるようになってから(約20年位前)小笠教組が「どの位、子ども達が本を読んでいるか」を調査したところ、桜木小学校の子どもが、他地域に比べ、ずば抜けて本を読んでいることがわかったそうです。桜木地区の一部では、本を読むことは明治時代からすでに土壌が出来ていたと言えます。

明治40年(1907年)代には、雨桜村青年会図書館というのが作られた。図書館と言っても小さな木箱にわずかな本が並んでいるだけだったが、今ほど本が氾濫していない時代には、それだけでも貴重な物であった。木箱に入れられた本は、巡回文庫として、雨桜村の各部落を順番に回った。

大正末期から一時中断したが、戸塚廉氏が掛川第一小学校の教師をやめて村に帰ってきた昭和5年(1930年)には再び図書館が復活された。

「お父さんやお母さん、お兄さん達が本を読んでくれなくて、お前達の勉強がみてもらえなくなったんだから、一生懸命本を読んでもらえ」と、子ども達にガリ版で刷ったビラを、村中に配布させることから始まった。子ども達が「お父ちゃん、本読めよ」「お兄ちゃん、本読めよ」と、説得したことも大きく功を奏した。図書館の本を増やすために、村人達にも呼びかけて本を供出してもらったりと、中々苦労も多かったようである。

当時、農閑期になると青年の夜学(補習学校)と言うのがあって、戸塚氏がそこで教えるようになってからも、授業後「本を持ってけや」と、本を読むことを勧めた。初めは渋っていた青年達も次第に読書に夢中になっていった。なるべく堅い本はやめて、小説のような面白い本だけを置くようにしたからだ。

その頃は、日曜日の朝になると青年訓練という兵隊の訓練が行われた。青年達は、終わると軍隊の服装のまま戸塚氏の部屋に飛び込んできて、本を持って帰るようになったと言う。

その後戸塚氏は東京に行き、そのまま戦争に駆り出された。戦争が終わって故郷に帰ってみれば、村の青年達はズボンのポケットから本を覗かせていた。それがひとつの桜木青年の間の流行となっていたようで、格好良さと同時に誇りのようなものを感じていた様である。

予算がなくて本が買えないために、県立の図書館からよく借りた。ある日、安倍郡(現在の静岡市)の青年団が、桜木に視察にやってきた。館長に「静岡県で一番本を読んだのは桜木の青年だ」と言われて、なぜそういう風になったのかを聞きに来たそうである。

読者によって得た知識は、様々なところで生かされていく。いいと思うことは、直ぐに受け入れる気風は、案外こんなところにあるのかもしれない。
青年の読書を復活させるために、子ども達に村中に配布させたビラ。敗戦直後、近くの村では青年の風紀が乱れ、女子は夜の一人歩きは出来ないと言われていたが、桜木の青年達はポケットに雑誌や本を入れて歩き、毎晩のように文化集会を開き女子も多数参加した。

中央のビラには…
本を讀まう!
・新たに三十冊購入
・書庫の両面全く一新す
・宵でも夜でもウチワ片手に是非来て下さい
・通りがかったら忘れずに見て行って下さい
・蚊いぶしをドシコとたいて
・眠れぬ夏の宵を是非一冊
・遠慮無く申込んで下さい
・書名がわからねば適当に選んで上げます
雨桜村青年図書館
昭和7年(1932年)10月の雨桜村と垂木村が合併したときに、雨桜村の青年団が解団記念に作った手拭い。鍬と鎌(くわとかま)を持ち手と懐に見えるのは弁当箱ではなく「本」である。労働と学習の結合を表している。
強制労働で地下工場建設
桜木の冷地ヶ谷・飛鳥を中心に、第二次世界大戦の終戦直前に、飛行機を生産する地下工場が作られたのを知っている人も多いと思うが、この工場建設のために多くの朝鮮人が苦しんだことを知る人は少ない。

当時、中島飛行機は三菱と並ぶ大きな飛行機工場だった。終戦直前にはアメリカの攻撃が一段と激しくなり、地上の工場では危ないと、全国で地下工場の建設が始まった。

掛川では吉岡に急造りの海軍の飛行場があったために、近くの桜木村と原谷村が、砂地質で掘りやすい土地だったこともあって、地下工場建設場所として選ばれた。

その地下の穴を掘る為に、多くの朝鮮人が強制的に連れてこられ、昼夜交替で重労働を強いられた。宿舎がないために、近くの農家の鶏舎や納屋を改造して、そこに寝泊まりをした。一軒に50人位寝泊まりした所もあるというから、まさに詰め込まれたという状況である。

家代の石川弘氏は、その頃横須賀方面に行っていて、昭和19年(1944年)12月の東南海沖地震の時に一時帰って来たが、その時は建設の話しが出ている程度で、別段変わった様子もなかったが、翌年の5月に帰ってきた時は、ものすごい人でびっくりしたと言う。正確にはわからないが多分千人以上はいたのではないかということである。

8月の敗戦を迎える時には、工事を続行している最中で、一部では旋盤の機械が入って生産をしていたという。敗戦によって工事は中断されたが、昨年までそのままの状態で放置されていたとの事。現在は読売ゴルフ場に買い取られて埋まってしまった。ちなみにこの地下工場は○の中にハ(マルハ)地下工場と呼ばれていたが、なぜその名なのかはわからない。

その後、大部分の朝鮮人は帰国列車に乗って故国に帰っていったが、一部の人はそのまま留まった。しかし、敗戦で仕事は奪われ、耕す田畑を持っていない人々にとっては大変な日々であった。又、外国人ということで生活保護も受けることが出来なかった。

日本中で人種差別がはびこる中、桜木の青年達は留まった朝鮮人労働者に手をさしのべて、一緒に活動をしたという。人種の違いを乗り越えて、お互いに手をつながない限り、絶対に世界の平和は訪れない。

石川氏は「戦中、戦後に掛けて耕地整理をして作業をやりやすくし、人出のない時も作業能率を上げて増産しました。人出がないために、共同炊事や共同託児所を作ったりして、全国から注目された先進的な村です。終戦後も戸塚廉氏を指導者として、農民組合運動、青年運動、文化運動と、いつも民主的な面で、先頭を切っていく村でした。文化運動なんかも、東京や名古屋から学者を呼んだりして…。『青春に悔いなし』という映画がありましたが、本当にそんな気持ちでやってきました。」と、この村桜木に生まれ育ったことを誇りに思っていることが、全身から伝わってきた。
「季節保育所」
戦時中以外にも昭和25年(1950年)から茶摘み時期に桜木村の希望者の子どもを預かる季節保育園が始まった。多いときには50人位の子どもを預かり、遊家と家代の2カ所に開いたが、昭和52年(1977年)責任者の体力的な理由で終わった。