ヘラヒン倶楽部
78%KAKEGAWA Vol.58 1985年1月号掲載
今からおよそ60年程前、町のためになることなら家屋敷を抵当に入れ、借金をしてまでもやってのけた人々がいた。道楽三昧、したい放題のことをしてきた人達だと聞いた。生きていれば百歳前後になっているという。その名も「ヘラヒン倶楽部」。

ヘラヒン倶楽部の存在そのものが忘れ去られつつある中で、現在、地元の中町では、「ヘラヒン」という題名で新聞を発行し、その中で毎回少しずつ紹介もしている。

78%でも、善し悪しは別にして、自分達の思い通り純粋に生きてきたヘラヒン倶楽部の生の軌跡を、わかる範囲で紹介してみたいと思う。

中宿から移転してきた町
ヘラヒン倶楽部の話しに入る前に、まずは中町の歴史から…。

中町は、元々中宿という宿場町の住民が移転してきて造られた町である。旧東海道は、二瀬川から中宿を通り、仁藤村(現在の警察署辺り)、成滝へと道が続いていて、それが掛川宿となった。葛川から新町、連雀、中町の通りを抜けるようになったのは、掛川城を築く事になったからであった。「城があって城下町がないのはまずい」と、ここに町造りが始まり、それに伴って宿場も移転されたのである。

ところがこの辺りはものすごい沼地で、都市改造が始まるまでは、「三尺掘れば、まこも(イネ科の水辺に生える多年草)が出て来る。」と言われた土地である。

これは中町だけのことではなく、徳川家康が掛川城を「難攻不落の城」と言わしめた原因も、どうやらこの辺りに有りそうだ。

現在中町の渋谷理髪店の店主は、駅前周辺になぜ南西郷という地名が付いているのか、しかも、十王や城西の方にも南西郷という地名があることに、以前からずっと疑問を抱いていたと言う。

「広範囲に、しかも飛び飛びに南西郷の地名があるのはおかしい。下西郷、上西郷が北部にあるのに対して、なぜ南西郷だけが中町、連雀等を飛び越えてあんな南にあるのか。しかも、中町、連雀、西町、栄町、緑町、松尾町、大手、研屋町、紺屋町などの市街地が、すべて龍尾神社の氏子になっていることにも疑問が残ったんです。西郷にある神社の氏子ということが、不思議でたまらなかったんです。」

「それが、最近になって、関七郎さん(郷土史家)がお調べになった資料によって、一挙に謎が解けました。町も村もない時代には、この辺り一帯が、西郷という大きな郷だったんですね。この辺りは全部南西郷で、私らにしてみれば『掛川の中(市街地)に西郷があるなんてけしからん』と言う事になるんだけど、南西郷という郷の中に、掛川という宿を造っちゃったんだから、言ってみれば、こちらが侵略者な分けですよ。」と笑う。

中宿にいた住民が移って来たのだから、当然、中宿の神様であった龍尾神社の氏子であっても、何ら不思議ではない。因みに、西町でも西宿という所から移転してきたので、宿を取って西町になったそうである。
現在の中町商店街(連雀方面から)。
もとは遊郭の町
中町は昭和初期まで、遊郭の町として栄えたところでもある。通りに面して、遊郭と旅館、そして芸者の斡旋や代金精算などをする事務所の検番が軒を並べていた。

「中学生の通り道に遊郭があるのは好ましくない」と、県立掛川中学(現在の掛川西高等学校)が出来るのを境に、現在の小鷹町に移転させられた。同時に廃業に追い込まれたところも多かった。代わりに新しい商売として、掛川中学校へ通う生徒のために下宿屋も登場した。

遊郭の町だったこともあって、芸事に精通していた人も多く、NHKの浜松放送局が開局するとき、頼まれて中町の住民が長唄を披露し、電波に乗ったこともあった。
NHK浜松放送局へ出演した時の記念写真(中心にある丸い円は当時のマイクロフォン)
町のためなら借金してでも…
ヘラヒン倶楽部は、ここ中町で生まれた。中町に在存する消防団を卒業した者たちが集まり、消防を辞めた淋しさを紛らわすために作った会だろうと言われている。

今となっては調べようもないが、ただ一人ヘラヒン倶楽部が壊滅する少し前に入ったという米本氏が、唯一の生き証人である。現在ご病気で療養中とのことで、当時の模様が聞けなかったことが残念に思われる。

江戸中期以降に出来た、町人のための消防組織を町火消しと呼んだ。「い組」「ろ組」「は組」と、いろはにほへとから取って名付けていたが、江戸火消しには無かったのが「へ組」「ら組」「ひ組」「ん組」だった。これを取って「ヘラヒン」と名付けた。

社会奉仕を目的とした倶楽部であったが、野球をやったり、玉突き(ビリヤード)場を経営したり、猿を飼ったりと、当時としては奇抜なことをやって人々を驚愕させた。

一人一人を調べると、全員が道楽三昧、したい放題のことをしてきた人達だと言う。とにかく、町のためになることなら家屋敷を抵当に入れ、借金をしてでもやってしまったらしい。

ある中町の店主は、「祖父の時代がそういう感じだったので、次の世代の人達は自分の欲しか考えない人が多い。親父のために自分達がどれだけひどい目に遭ったか、ということを身をもって知っているわけです。懲りちゃってるんですね。それだから、次の代の人達の時には、何も人のためになる事をやってないんです、みんな…。」と笑う。

しかし、町のために尽くした替わりに部落意識も強く、町のことはすべてその人達が取り仕切っていたという。他から来た人間には絶対にやらせなかった、という閉鎖的な面も併せ持っていたのである。その伝統が今もって尾を引いていると言う。それをいかに打開していくかが、今後の中町を背負っていく住民に課せられた問題でもある。
野球のヘラヒン
野球が日本に伝えられたのは明治6年(1873年)頃だと言われているが、その頃は素手野球で、今のように近代スポーツ化したのは、明治23年(1890年)にボールなどの用具が改良されて以降のこと。明治、大正時代の掛川では、まだまだ珍しいスポーツであったようだ。

昭和3年(1928年)頃に掛川少年野球が、小学校の全国大会で優勝したことがある。この優勝した子ども達の親と同年代の、すなわちヘラヒン倶楽部のメンバーが若かりし頃、すでに野球をしていたということもわかった。

又、消防団の団員として活躍していた時だから、当時としてはかなり珍しかったらしい。「掛川の町では恥ずかしくて出来ない。」と、わざわざ袋井の法多山まで出かけて行き、法多山の広場で練習していたという。

昔は「火事の心配はかまどから」と言って、消防団が各家のかまどの掃除が行き届いているかどうか、検査して回った。かまどの検査が済んだ後、厄除けとして法多山にお参りに行く風習があったが、このお参りは名目で、実は野球をやるためだった。手作りのバットを作り法多山の広場で野球に興じていたのである。

当時を知っているお年寄りは、ヘラヒンと言えば「野球のヘラヒン」と呼ぶくらい、人々の間では評判になっていた。今でもヘラヒンを知る人の間で語り草になっている程である。

現在市会議員を務めている早瀬氏が当時小学校3年の時に「野球をやるのに人が足りないから、お前も一緒に来い。」と言われ、学校から帰って来ると法多山に連れて行かれたと言う。ヘラヒン倶楽部の会則の中に、運動部長という肩書きも出て来るぐらいだから、野球はそのまま続けられた様である。
中町の消防組。後方は手押しポンプ車。
ヘラヒン倶楽部の会則
当時の「倶楽部会則」には、大正12年(1923年)9月20日の日付が記されている。この日が結成された日と思われる。その時の会員は次の通り。この中には、声楽家の伊藤京子さんの父親の長谷川春七氏も入っている。

会員名簿 
・村松 茂氏・斎藤文三氏・渋谷種吉氏・石原仙太郎氏・小澤三千太氏
・大浦(七の下に七が並んで2個)助氏・松浦吉馬氏
・渡辺(身偏に寿)平氏・乗松弥作氏・中山春平氏・中山辰一氏
・松浦伝四郎氏・長谷川春七氏

第一条:本会をヘラヒン倶楽部と称す。
第二条:本会は理事二名、会計一名を置く。役員は部員の互選に依り定め任期を一カ年とす。但し再選を得る。
第三条:部員相互の親睦を図り、体育、社会奉仕を目的とす。
第四条:月一回公休日を定め、その都度団体的運動を成す。但し、春秋二回の大会を開く。
第五条:会費を月二〇銭と定め、毎月一七日に会計へ納付すべし。
第六条:病気、水害、火災及び葬礼の場合は半数以上の同意を得、金二円まで贈金す。但し、返礼に及ばず。
第七条:途中入会者は前月より納入し、本会の体面を汚す者は除名し会費を没収す。
第八条:会計は毎九月総会の席上に於いて発表す。
第九条:会則は決議に依り変更する事があるべし。
掛川公園の整備や、猿を買いに東北へ
野球だけが目的で作られた会では、もちろんない。ヘラヒン倶楽部が残した功績は多数有る。

掛川公園を掛川の名所にするために払われた努力と、すべて自前で、そのために使ったお金も大きかった。

ここに3枚の写真がある。公園を整備する前と、整備した後の写真である。整備する前は自然のままで何も手を掛けていないという感じだが、大正14年(1925年)4月3日に撮影した写真では、見事なまでに変身している。この時は、記念に「公園愛護」の石碑も建っている。

その後、掛川と大池を合併したのを記念して、大正15年(1926年)2月には石灯籠も建てられ今も残っている。整備前と整備後が比較できる様にしっかりカメラに収めているところは実に感心する。

続いて、昭和7年(1932年)3月の申年(さるどし)には、掛川公園の入口に猿用の檻も作った。最初の猿はヘラヒン倶楽部の数人がわざわざ東北まで足を運んで買いに行ったと言う。ところが、猿を連れ戻ったものの、檻が完成していなかったため猿を入れる場所がなく、倶楽部員が交替で各自の家で飼ったという。

また、この檻の裏には、倶楽部員の名前が銅板に刻まれているが、その順番を抽選で決めたというから、後腐れがない面白い発案である。
整備する前の掛川公園
整備後の掛川公園(大正14年4月)
石灯籠が建った掛川公園(大正15年2月)
掛川公園前の猿の檻には今では鳥が入っている。
借金してお伊勢参り
掛川公園の一回目の整備後には、百円という大金を借金して、伊勢神宮へ旅行に行っている。この時の服装は全員が消防服のまま。地下足袋に帽子までかぶっている姿は、今から思えばとても遠出の旅とは思えない。

掛川クリーニング店の斉藤氏は「全く色気のない連中だ」と笑うが、余程、消防に誇りを感じていたのかも知れない。

旅の宿では布団にくるまって、何やら口にくわえ、ゲームらしきことに興じている一枚の写真がある。「いい年をしたおじさんが…」と、思わず吹き出してしまうところであるが、反面、この子どもみたいな面を残している人達だったからこそ、自由にそして気ままな人生を送れたのかも知れない。

龍尾神社の前に置かれている一対の狛犬(こまいぬ)も、神社に行く途中に石で作られた手水鉢(ちょうずばち・手を洗う所)も、中町で奉納したものだ。しかもその小屋までもが、斎藤文三氏自らが建てたものだという。


ビリヤード場の経営

いつの時代にも何かをやろうと思えばお金が掛かる。ヘラヒン倶楽部がこれだけの事業をやるには、とても会費だけで賄えるものではない。

必要経費を捻出するためのものなのか、会員の道楽のためなのかはよくわからないが、玉突き(ビリヤード)場の経営にまで手を出していた。会員制みたいな形で会員を募り、会員の出資金を元に始めたものの、「会員は安く、会員以外の者は高く取る」と言ったら、会員以外はほとんど来なくなって、商売にならなかったそうである。

つま恋方式の会員制を導入するあたりは、かなり考え方は進んでいたようだが、所詮、彼等には商売は無理だったのかも知れない。
あとがき
現在の掛川は、ヘラヒン倶楽部が誕生した当時とは、街の様子や風習の多くが様変わりしている。今でも個人的に「町のためなら…」とか「人のためなら…」という人間はいるかも知れないが、そのためだけに家屋敷まで抵当に入れて大借金をする人間は見当たらない。と言うことは、「ヘラヒン」のような人達は二度と出現してこないという事なのだろうか。

「昔の方が良かった」と、昔を懐かしむ人もいれば、「今は旨いものが食べられ、欲しいものは何でも手に入る」と満足している人もいる。またその両面の意識を持っている人もいる。複雑な社会になればなるほど、物が豊かになればなるほど、個々人の物事に対する様々な興味や関心までが細かく切り刻まれて行く。このような時代と「ヘラヒン」が生きた時代と、どちらが良い時代なのかは、読者の判断におまかせしよう。