Uターンした若者たち
78%KAKEGAWA Vol.51 1984年6月号掲載

青い鳥はどこに?
田中貞守さん(菊川町半済・23才)
田中さんは二人兄弟の長男。今年の3月に大学を卒業して、静岡に本社のある企業に就職し、たまたま掛川の支店に配属となったが、「自分は長男だから家に帰らなければならないという義務感は全く感じていなかった」と。きっぱりと言う。ではなぜ地元に戻ってきたのか…。

「大学を決めるときに、県内の大学に入って親元から通ったんじゃ面白くないし、外の空気を吸いたいと言うか、一人暮らしに憧れていた面もあったので、どうせ出るなら『花の東京』に行くのもいいんじゃないかと思って、それで東京に決めました。学生時代の4年間というのは、一番いろんなことをしたい時代だし、そういう刺激に対して応えてくれる面を東京は持っている。でも、自分の思っていた夢いっぱいの東京と、現実の東京というのは、ある面では一致するし、一致しない面もあったわけですよね。住宅、物価、交通問題とかを考えた場合、困難な問題がいろいろあって、長く住む所ではないなって思った。地元は生まれ育った所だから、そこの風習とか考え方が自分自身の身についてることもあるし、住み慣れた所で一生を送る方が自分に合っているような気がしたもんですから、結果的に戻ってきました。」

しかし、地元に帰ってきたことによって不安も残る。ここ静岡は、気候が温暖で気質ものんびりしているから刺激が少ない。現在の田中さんはまだ就職したばかりなので、生活の中で仕事が一番ウエイトを占めているため、今のところ刺激というのは仕事に関しての事になるだろう。だけど、仕事に慣れて一段落した時に、それ以外の事を見出していかないと、結局は「ずるずると平々凡々の生活を送るだけ」ということになりかねない。

田中さんが高校へ通っていた頃の掛川は、一言で言うと「暗〜い」イメージが強かったそうだが、最近は少しずつだけれど活気が出てきたような気がすると言う。それでも、長年続いてきた風習とか考え方は、時を経て蓄積されてきたものだから、直ぐには変わらないだろう。

「でも、一部の人達が半分趣味、半分義務みたいな感じで、いろんなことをやっていてくれるので、それが段々芽が出て、花が咲くか、枯れるかはわからないけど、長い目で見れば、だんだん変わってくると思いますよ。」

しかし、現状に満足している(?)人達が掛川を動かしている中で、不満を持っている若者が、いかに掛川を変えていくのかで、掛川市の未来は決まる。青い鳥症候群の若者が増えつつある今、今後、ますます無気力な若者が増えていくだろう。手遅れにならない内に、しっかりとした基板を作り上げておかなければならない。

最後に、青い鳥症候群について聞いてみました。
「青い鳥症候群って、確かに自分でもある程度は持っていると思う。飽きっぽいというか、いろんな物が青い鳥に一瞬は見えるんだけど、実際につかまえてみると青い鳥じゃなかったっていうのは、人間なら誰しも持っていると思う。だけど、実際には何が青い鳥なのかわかんないと思いますよ。つかまえてみて青い鳥だったとしても、もしかしたら他に青い鳥がいるかもしれないし、青い鳥の羽がいつか羽の色が変わって、黒い鳥になっちゃうかもしれないし、それは分かんないと思いますよ。」

チルチルとミチルの「青い鳥」では、幸福の青い鳥を探しに出かけるが、結局は自分の家に帰ってきて青い鳥を見つけ、幸福というのは、自分の身近な所にあるのだということを教えてくれる。やっぱり「花の東京」ではなく、生まれ育った故郷にこそ、青い鳥がいるのかもしれない。

一人暮らしで思い出すのは、母の手料理
榛村栄里子さん(掛川市上垂木・22才)
榛村さんは4人兄妹の末っ子で、やはり今年の3月に名古屋から掛川にUターンしてきた。簿記の学校に2年間通って、そのまま名古屋のコンピュータ関係の会社に就職が決まった。

初めは学校へ行く2年間だけを予定していたが、いざ就職となると、地方では自分の希望する職種が見つからないのではないかと思い、そのまま名古屋で就職した。ところが、最近になって勤めている会社が不景気になってきたことと、お嫁に行くまでは家にいた方がいいんじゃないかという理由で掛川に戻ってきた。

榛村さんの場合は、遮二無二に帰ってきたかったわけではなく、(この先を考えながら)ただなんとなく帰ってきてしまった。

お勤めするようになってからの2年間は、アパートでの一人暮らし。やはり、夜になると故郷を思い出して淋しくなることもあったが、名古屋にいれば車も必要ないし、少し行けばデパートやスーパーがいっぱい有って、便利この上ない。なにより束縛されなかったことが一番楽しかったと言う。

その反面、誰にも束縛されないから、ずるずると遊んでしまう。給料も今よりずっと高かったが、アパートの家賃、水道光熱費、食費などを差し引けば、手元にはいくらも残らなかった。

「掛川を離れていて、掛川がいいなあって思った事は、しきたりかな?四季によっていろんな行事があるでしょ。お赤飯を炊いたり、お餅をついたりとかって…。そんなもので四季の変化というか、移り変わりを感じさせてくれるんだけど、一人でいるとそういうことはないから…。だから都会にいるといいなあって思うけど、いざ、地方に帰ってくると、逆に、しきたりなんかがうるさいなあって感じます。それに、こっちはアパート代がかからない代わりに交通の便が悪くて、どうしても車が必要になる。結局、金銭面ではどちらも同じ様なもの。親元から通ってるということで、多少なりとも貯金できるんじゃないかとも思うけど…。」と語る。

一人暮らしというのは、食の面でどうしても手抜き料理になってしまう。アパートの部屋で、一人インスタントラーメンを食べていれば、思い出されるのは母親が作ってくれた温かい手料理…なんでしょうね。



まだ、戻りたくなかった
戸塚なみ子さん(掛川市下垂木・23才)
次女だけど、お姉さんが嫁いでしまったために、行く行くは家を継ぐことになるという戸塚さんは、高校卒業後、名古屋の看護学校に進学して3年間を名古屋で過ごした。家を出るにあたっては、3年間の約束で出たが、まだ親元に帰る気にならなくて、浜松医大に就職した。しばらく寮生活の後に、友人と二人でアパートを借りて生活。2年後に、掛川市民病院が移転して新しくなったのを機に掛川へ戻ってきた。
掛川に戻ってきた理由は、やはり家を継ぐということが一番大きな要因となっている。

「多分、これからは一生掛川に居る身だと思うんですよね。名古屋の人達と自分とは性格的に合わなくて、向こうで働く気持ちにはならなかった。だけど、掛川にそのまま戻ってくる気持ちもなかったので、家から近い浜松に就職しました。やはり、親の監視下から離れて、自分で独立してやってみたかったんです。それと、新しいきれいな所で働きたいという気持ちもあって、前の掛川市民病院は暗いイメージだったので、二の足を踏んだということもあります。でも、結局は独立したと言っても、独りではいられなかった。自分自身、すごく寂しがり屋の所があるくせに、意地を張って家を出た部分もある。だけど、その時は家に帰りたいとは思わなかった。」

戸塚さんの場合は、これから一生、家に縛られる(?)立場にあるから、前出の榛村さんのように「お嫁に行く前位までには家に居たい」という気持ちは薄い。できることなら、結婚する前までは、家を出ていて親の監視下から離れてみたかったのだろう。今は、戸塚さんの仕事が大変だからと、家事全般は親がすべてやってくれている。その点では助かるけど、やはり束縛される面があって、不満も残ると言う。

「看護婦の仕事は、夜勤もあったりして、自分なりの生活ペースがあるのに、家出は食事も一緒にとらなければダメだと言われたり…。」

都会には刺激がある。遊ぶ所もいっぱい有って、気が沈んだ時にはそういう所に行って気晴らしにもなる。それだけで気分が晴れるみたいな所もあるけど、その時だけの楽しさで終わってしまう。都会もそれなりに良い面と悪い面を持ち合わせているのである。






女性にとっての地方とは
遠藤りえ子さん(掛川市宮脇・24才)
一人っ子の遠藤さんは、小学校4年生の時に岐阜県の高山から引っ越してきたせいか、掛川で生まれ育った人達から比べるとシビア(厳しいく容赦のない)な目で掛川を見つめているような気がする。。

「親と一緒にいるのがいやだったということと、幼馴染みがいてっていうこともないし、掛川が特別良かったということもなかったので、東京に行ったんだけど、両親から『とにかく帰ってこい』って言われて帰ってきました。自分ではまだ帰りたくなかったですね。地方の良さって余り感じない。家へ帰ってきたから、掃除や洗濯、炊事をやらなくて済むから、それが良いと言えば良い。後は嫌なことしか目に付かないから…。うるさいと言うか、人のうわさ話ししかしないし…。みんな結婚するのが早くて、結婚するともう何もしようとしない。結婚するともうお仕舞いっていう人が多いでしょ。女の人がもっと頑張ればいいんだけど…。東京なんかだと、27才、28才でも、まだ独身の人がいっぱいいて、いろんなことを勉強して私たちに教えてくれます。こっちでは誰も教えてくれないし、こっちから言ってもわかろうともしない。まだ一ヶ月だけど、もう、どうでもいいやっていう気になっちゃった。」

同性に対する見方は厳しい。私も同感です。掛川には「すごい女性だな」と尊敬できる様な人が少ないように思う。これは、やはり男性が女性に対して偏見を持っているからではないでしょうか。「女性は家庭を守っていればいい」というものの考え方が、女性をそう仕向けているのかもしれない。だから、女性が何かをやろうとしたら、都会に行かざるを得ない状況にあるのは非常に残念なことだと思う。でも、そんな中でも、ごく少数ながら頑張っている女性もいます。お互いに頑張りましょう。

遠藤さんが、学生時代も含めて、6年間東京で学んだことが、実を結ぶようにならなければ、本当に地方の時代が来るとは思えない。

遠藤さんのUターンは、一人っ子で将来的には親の面倒を見なければならないという使命感からだろうか。東京が余程肌に合っていたのか、楽しくて仕方がなかったようだ。

「掛川は夜の7時位になると(中心の商店街などが)真っ暗になっちゃって、遊ぶ所がない。東京だと24時間営業の店がいっぱいあって、いつでも買い物が出来たりして、時間的な感覚が全然ないですね。」と、ちょっぴり掛川が物足りない様子。でも、また東京に引っ越して暮らすつもりは無いようだ。




卒業したら帰ってこいよ
大場和弘さん(掛川市吉岡・20才)
大場さんは、東京で新聞配達をしながらコンピュータの専門学校に通っていたが、1年で挫折。今年の4月に掛川に戻ってきて、今は静岡の自動車整備士の専門学校に通っている。4人兄妹の末っ子である。

「学校が2年だったので、2年間行くつもりで行ったんだけど1年で戻って来ちゃった。自分の場合、弱かったから、新聞配達と学校の両立が続かなくて帰ってきた。それに、東京にはどうしてもなじめなくて、掛川に戻りたいという気持ちが強かったんですね。二度と東京に住む気にはなれない。やはり、将来も住むには、この近辺がいいですね。」

大場さんが東京に行った理由は、高校が普通高校だったために、専門的なことを身につけてから就職した方が将来的に有利と考えからである。コンピュータなら将来的にも有望な業種だし、就職にも有利と考えてのことであるが、やはり、コンピュータの知識が全く無くて、興味本位で入ったから、(専門分野の勉強や講義に)ついて行けない部分があったようだ。

地元掛川に帰ってきてホッとしたという。将来的なことを考えれば、早いところ見切りをつけたことが良い結果を生むこともある。だが、大場さんの場合には挫折という言葉は当てはまらないかもしれない。今も週3回のアルバイトをしながら静岡の学校へ通学している。努力家の勤労学生でもある。

東京では新聞店で寝泊まりしていたから、夏の朝は午前3時、冬の朝でも午前4時には起こされる。学校から帰ってくれば夕刊の配達が待っている。食事以外のことはすべて自分でしなければならない。見知らぬ都会で友だちだけが心の拠り所だったという。

大場さんだけではなく、地方出身者にとって東京での生活は、干渉されないかわりに、常に孤独がつきまとう。

「友だちが居たから1年はもったけど、もし居なかったら1年はもたなかったと思う。」と当時を振り返った。
そして今は、掛川から出て行った友だちに「卒業したら帰ってこいよ」と言い続けている。

隣は何をする人ぞ…
溝垣みどりさん(掛川市上垂木・23才)
教員の試験を受けて落ちたために、現在は掛川に戻って、来年に向けての勉強をしているという溝垣さん。3人兄妹の末っ子。

「できれば県内で就職したいと思っていますが、来年も県内がだめで、東京で就職が決まれば東京に行くかも知れません。」しかし、東京で暮らすつもりはないと言う。もちろん、結婚するとか、家族が東京へ引っ越すとかになったら別ですが…。

溝垣さんにとって東京とは…
「服装なんかにしても、東京だとどんな格好しててもおかしくないと言うか…。自分が似合うと思えばそれでいい。極端なことを言えば、浮浪者みたいな格好してても平気で街を歩けるみたいなところがあるし、街のド真ん中で少しバカなことやっても平気だし…。自分の生き方に対しても誰も干渉しないから、好きなように生きられる。だけど、逆にこちらが頼りたい時に頼れないから淋しいですね。隣にどういう人が住んでいるかもわからないから、病気をしても誰も気づいてくれないんです。病気をしたときなんか、ものすごく不安になります。それから、こっち(掛川)へ来て思うことは、ファッションについて言えば、みんな同じ格好をしている。個性が無いと言うか、流行だって言えば全員がそれを着だしちゃう。向こうは自分なりのセンスというか、ファッションを作っています。」

「こっちに居たときは、自分が正しいと思っていた事は、みんなも正しいと思っていたというか、自分自身がごく平均的な考えを持っていると信じていた。でも、向こうへ行ったら、いろいろな考えを持っている人がいっぱい居るんです。算数の答えは一つだけど、物の見方、考え方は一つではないということがわかりました。」

東京と言っても、所詮は地方出身者の集まりである。その人達が東京で個性ある人達だったとしても、地方に帰ってくればその個性がなくなってしまうのは何故か。
東京という所は、誰にも干渉されないから自由に生きられる。しかし、地方人はそれを100%生かすことをしないで、50%の自由を楽しみ、あとの50%は地方特有の性格を残して生活している。そして、地方に帰ってくれば、その50%の地方人気質から徐々にまた元に戻っていくのである。せっかく都会で自分なりの個性、あるいは生き方を見つけたのなら、地方に戻っても持続させてもらいたいものであるのだが。



もう一人の自分を持ち続けていきたい
高橋 宏さん(掛川市富部・22才)
「東京は健康に悪い。人が住むには適していない」という高橋さんは、今年3月に大学を卒業して掛川に帰ってきた。本来は完全に東京で人生を送るつもりだったが、こちらで自分の生き方を考えてみたいという。また出て行く可能性もある。現在の所はまだ無職で、家の書道の仕事を、書道の先生として手伝っている。2人兄弟の次男。

「東京は芸術にしろ、学問にしろ、仕事にしろ、そべてのエネルギーが充満している。若くてエネルギーのある奴が、一発何かやってやろうと燃えている。そういう所で一緒になって何かをやってみたい。地位とか、お金が欲しいということは考えてないけど、向こうには同じ様な志を持った人間がいっぱいいるから、そう言う中でやっていきたいと言うか、ぶつかり合う様な出会いに惹かれますね。だけど、こっちにいると、そういう志が薄れてくる部分もあって、自分でも恐ろしい。」

「向こうに居るときにも『帰ったらきっと、ふんわかしちゃって、気持ちよくなっちゃって…』という様な恐ろしさがあった。でも、こっちに来ちゃったんだけど、そういう危機感を持つ、もう一人の自分を持ち続けていたいと思う。『君も必ずそうなる』と、第三者から言われるのがくやしいから、常に自分自身に対して、鋭い矛先をつきつけていきたい。それが、こっちで生活する間の勝負だと思うね。」

今は、精神的にも肉体的にも、どこへ行っても大丈夫なように整えておく準備期間だと言う。その間に気持ちが変わって、必ずしも出て行くとは限らないけれど、やはり、いつでも出られる様に身軽にしておきたいのだそうです。地方は健康にもいいし、精神的にもゆっくり自分を見つめられる。そして、居心地もいい。ただし、高橋さんにとっては、その居心地の良さが、ぎゃくに危機感が無いからいやだと言う。

「僕は、田舎に居る方が違和感がある。」と言うが、居心地の良さも、その人の生き方によって、良い面にもなり悪い要素にもなりうる。束縛されない、干渉されないなどの自由さも同じである。だけど自分の生き方は、しっかるした意志さえ持っていれば、都会にいても地方にいても同じ様な気がする。高橋さんも、最近になってそれに気づいたと言う。

「最近になぅて気がついたんだけど、都会と田舎が全く違う世界だと思うけど、よおく上から眺めてみれば、結局は同じ地続きで、日本の中にあるし、日本というのも、地球儀のなかでは繋がっている。そう言う感覚でいけば、どこに居ても同じだと思う。自分という『個』があって、もう一つは世界がある。。都市と田舎では無く、自分対世界だと思う。それに気がついたから、安心して掛川に戻れたということもある。」

八分通り出来上がった都会よりも、ゼロからの出発の田舎の方が、もっともっとやり甲斐があると思うのですが。Uターンしてきたなら、都会で学んだことを地元で生かしてみたらどうでしょうか。

給料の差?ありますね
青島玲子さん(掛川市宮脇・24才)
臨床検査技師(医師の指示に従って、患者の血液や尿、便、脳波などを検査する医療技術者)になるために埼玉の学校に行ったという青島さんは、3人兄妹の末っ子。埼玉の学校を卒業後、東京に就職し、3年間の勤務を終えて、今年掛川に戻ってきた。

「卒業後そのまま東京で働いたのは、もう少し家を出ていたかったし、東京の方が良い病院がありますからね。医学的にもレベルが高いし、自分の勉強が出来るところに魅力を感じました。初めから、向こうにずっと居る気はありませんでしたけど、独りで暮らしたということで、生活していくために必要なことをいろいろ学びましたね。給料の差ですか?やはりだいぶあります。だけど物価が高いのでそれなりに大変でした。でも、やっぱり向こうの方がよかったかな?」

青島さんから見ても、静岡県人は他の県の人達に比べて、Uターン現象が多いという。東北地方のの人達だと「寒いから帰るのがいやだ」とか、「帰っても自分の行きたい会社が無い」というのがある。その点、静岡県は(気候や企業の立地などで)地方にしては条件がいい。

こんな厳しい評価をしたある若い人がいる。
「静岡県人には、何かやろうという覇気(進んで物事に取り組もうとする気持ちや打ち勝とうとする意気込み)がない。静岡に帰れば暖かい布団と、暖かい食事と、静かな環境が用意されているから、18年間の自分の人生の中で、その良さにどっぷりつかっている所がある。」

正にその通りかもしれない。昔のように「故郷に錦を飾る」などという大志を抱いて出て行く人は、知る限り殆ど居なくなってしまった。全国的に見ても、静岡県出身者で著名人は少ないという。平凡で安定した生活を望む人が多くなったのだろうか。



先のことを考えると不安になってやめた
岡本英二さん(大東町中方・24才)
6年前に都会に憧れて、一生を送るつもりで名古屋に行ったという岡本さん。その後、転勤であっちこっちに飛ばされた。

岡本さんの場合は、スーパーに勤めていた。そのスーパーでは若い人の入れ替わりが激しく、その犠牲になったと言っても過言では無い。

「僕らみたいに独身で寮に入っている者は、融通が利くと思われているのか、人が居なくなると、そこにポンポン飛ばされた。かなり転勤が多くて、先のことを考えると不安になったし、また、スーパーの休日が平日だったこともあって辞めました。若かったので、遊ぶことに関しては満足しましたね。青春時代の一番いい時を過ごせましたから。これからは、こっちで頑張るつもり。」

こちらにきてからは、また一からやり直し。最初からいた同級生とは、年だけは同じだけれど、賃金や仕事の面でかなり開きがあったそうだ。しかし、これからの人生の方が、よっぽど長い。4年や5年の開きなら、努力次第で直ぐに縮めることも出来るはず。







都会を意識しない街づくりを
山崎 浩さん(掛川市吉岡・24才)
山崎さんは、どっちが片手間かわからないけど、アルバイトをしながら大学に通い、去年の4月に東京から帰ってきた。4人姉弟の末っ子。ファッション関係の仕事もしたいと思ったが、友だちから「帰ってこいよ」って言われたり、地元に貢献できるような仕事の方がやり甲斐があると思って、現在は市の職員として頑張っている。

「東京は月並みな言い方だけど…余り干渉されないし、なんていうか、あの賑やかさがいいという面もある。ザワザワしていて活気がありますよね。向こうにはいろんな職業があるし、都会に集中しちゃっているという感じ。大手企業なんかは殆ど東京に本社があるから、やり甲斐はありますよね。だけど、僕は地元に貢献できる仕事につきたかったので帰ってきました。今は、どういう風にしていきたいか、具体的な考えは出てないけど、やはり掛川は掛川独自の良さを出していくことが大切で、あまり都会を意識する必要はないと思う。取りあえず、市は借金を返していくことから始めてもらいたいですね。街自体に力をつけなければ、結局は弱いところを国からのお金に頼ることになり、国の言いなりになりかねない。市長は市長なりに街を良くして、企業を誘致しようとしてるんだけど…。どちらにしても、街自体が財政力をつけなければ駄目だと思いますよ。」

都会を意識しても、所詮掛川は都会にはなりきれない。中途半端でアンバランスな街が出来上がるだけのように思う。掛川の魅力を引き出した街づくり、若者が「俺たちもいっちょう、やってやろうじゃないか」と思わせるような街づくりをしてもらいたいのに、Uターンしてきた若者も、なぜか意気消沈している。「こっちには刺激が無さすぎる」と、新しい街づくりの市側の意欲が、若者には少しも伝わっていない。なぜだろうか?それは、街づくりの計画が、知らない所(市民の意見を聞かずに且つ知らせずに)でどんどん進められて、若者の意見が全く取り入れられていないからだ。









田舎暮らしにどっぷりつかりたい
鈴木光弘さん(大東町高瀬・25才)
「長男が家を継ぐという風習は田舎ほど強い」という鈴木さんも3人兄弟の長男である。鈴木さん自身も、そういう中で育ってきたので、掛川を出て行く時も、何年後かには必ず帰ってくるつもりで居た。

帰って来た以上は、のんびりした田舎暮らしにどっぷりつかりたいという。将来は実家の農業と勤めを両立させて行かなければならない。

田と畑をあわせて一町歩位あるといから、機械化が進んだとはいえ農作業も大変である。それに、長男の場合は、転勤のある会社には行けないなどの制約もあって、自分の希望する会社に就けないということもままある。

鈴木さんは、2年間京都のコンピュータの専門学校に行って、そのまま名古屋の商社に就職し、3年間勤めた。名古屋なら静岡から近いし、こっちだと、自分の思うような仕事も無かった。それに、もう少し家を離れて遊びたかったというのが主な理由だ。

「都会は見栄を張って生きているというか、自分の生活レベルよりも高いところで生活しているようで、無理が感じられた。でも、夜遅くまで遊べるし、いつまでも若さを失わない感じだけど、こっちへ来たら、なんか急に年をとったみたいですね。それに、しばらくは面白く無くて、帰った当時はボケーとしていました。だけど、これからはのんびりした人生を送りたいというか、ある程度は裕福な暮らしをしたいと思っています。」

まだ若いので、今は遊びに夢中で、家の仕事を手伝う暇が無いようで、農業は結婚して欲が出てからということでしょうか。

あとがき
最近、全国的にUターン現象が目立ち始めたと言われている。長男の場合は大学に行くために出て行く人が多く、その殆どは卒業すると同時にUターンして地元の企業に就職する。次男、三男や女性となると、そのまま都会に住み着く人も多かったが、最近ではUターン組も増えつつある。

初めから帰ってくるつもりで出ていった人、都会に失望して地方の良さを見出して帰ってくる人、特別に深い意味もなく帰ってくる人、家庭の事情で帰ってくる人、人それぞれに違うだろうが、地方の良さが見直されつつあるのも事実である。今では、企業も地方にどんどん進出してきて、働く気持ちさえあれば「働くところが無い」なんてこともこの辺では無くなった。

ところが、昔のように「修行するために」とか「故郷に錦を飾る」というような、志を持っての上京は少なくなっている。進学率が高くなっている今、技術より学問が先行しすぎている気がする。そのために女子なんかも、事務職を希望する人が多くて、職安に溢れている。

地方に帰ってきて、大学などで学んだことがどれだけ活かせるかを知っておくことも大切なことだ。「みんなが進学するから」、「先生があそこへ行けと言ったから」ではなく、自分の将来をよく見極め、周囲に流されること無く進路を決めて欲しい。

このようなUターン現象と同時に、若者の「青い鳥症候群」も目立ち始めた。飽きっぽく、幸せの青い鳥を求め、もっと良いところが有るのではないかと職場を点々とする現象である。高校を卒業して就職の決まった人が「行きたくもないけんが、行かにゃあしょんないもんで行くだけ…すぐに辞めるかもしれん」とか「楽な仕事をして給料を沢山くれる所に移りたい、「今の若い人はすぐに辞めてしまう。中には一日来ただけで次の日には来なくなってしまった人もいる」こんな言葉を耳にする度にショックを受ける。

若者のUターン現象は、この青い鳥症候群とは関係無いのだろうか。それとももっと別の所からきているのだろうか。

今回取材した中では、青い鳥症候群は感じられなかった。若者のUターン現象の最も大きな要因は、やはり、進学率が高くなってきていることが挙げられる。全国の若者が地元から出ていって帰ってこなくなったら大変な事になる。Uターン現象も、元を正せば進学率が高くなったからと言うに過ぎないように感じられる。

「故郷は遠きにありて想うもの…」

故郷には、親兄弟、友がいる。幼い頃の思い出がいっぱい詰まっている山や川がある。永遠に忘れることの出来ない所です。帰って来てください、故郷を思い出したら…。