掛川が市になった頃…当時と市制30周年のいま
78%KAKEGAWA Vol.49 1984年4月号掲載
市制を祝して、掛川駅をバックに記念撮影。
掛川町から掛川市に
昭和29年1月13日、臨時町議会は満場一致で賛成した。
昭和29年(1954年)3月31日に掛川町から掛川市となり、今年の4月から1年間が市制30周年のあたる。

昭和29年1月13日の掛川町議会臨時議会に於いて、市営施行について討議され、一人の反対もなく満場一致の賛成をもって可決された。この時点では、地方自治法第八条により「人口3万人以上を有すること」と規定されていたが、その後昭和29年に改正され、基準人口は5万人に引き上げられている。

可決後、掛川町(掛川宿、下俣、十九首、仁藤、葛川、大池、結縁寺、西南郷、上内田、西山口、粟本)が曽我の各村と昭和29年3月に合併して、人口33,362人の掛川市が誕生したのである。

その後も、三笠村(倉真、西郷各村)、北小笠村(桜木、和田岡)、日坂、東山などと合併を続け、昭和32年にようやく、53,425人となり基準人口に到達した。

それから27年、人工は少しずつ増えてはいるものの、それ程大きな変化はなく、現在は約67,000人の地方都市である。

一年先は随分長く感じるのに、振り返ってみれば30年という歳月はあっという間に過ぎてしまったのではないでしょうか。それでも30年という歳月は確実に掛川を変えてきました。市街地だけではなく農村地帯も大きく変わりました。これから先の30年、50年…、掛川はどんな風に変わっていくのでしょうか。
小笠郡連合青年団の女子問題研究集会の記念写真(昭和32年6月23日撮影)
掛川公民館で行われた「掛川子どもを守る会」の創立総会。(昭和30年1月8日)
政治の移り変わり
草の根運動が盛り上がり、多数の婦人が議員に当選。
掛川町が市に施行された昭和29年当時の掛川は、教育運動、平和原水禁運動、母親大会、子どもを守る運動などの、草の根的な運動が盛んになってきた時期で、そういった空気の中で掛川町が近隣の村と合併して掛川市が誕生した。

昭和24年から25年にかけて、アメリカが朝鮮戦争をするためには平和運動をつぶさなければいけないと弾圧してきたために、全国で何万人という先進的労働者(共産主義者など左翼活動家など)が追放された。掛川や小笠郡下は特にそういった運動が活発だったこともあって弾圧を受けた人も多かったようだ。

こういった運動は、明治維新の頃に報徳舎の創立者である岡田良一郎という人が「農民の権利をもっと確立しよう」と立ち上がり、農民運動をおこなったのが土壌になっているのかもしれない。

掛川は大正時代には米騒動、昭和になってからのプロレタリア運動が全国的に評価された。また、敗戦後の初の選挙で婦人参政権が与えられた地方選挙において、小笠郡下で婦人議員が10名も当選したことにもよく現れている。この時はまだ男性が戦争からかえってこない時だったこともあって、静岡県で30名の婦人議員が当選している。人口比で30分の1しかない小笠郡下で、しかも純農村地帯で3分の1を占めたのだから、これは婦人の権利や能力を尊重する空気が強かったと言える。

それが、30年後の現在では、静岡県下でも特に保守的な所と言われ、婦人議員は一人もいなくなってしまった。それどころか立候補者すらいない。

縄ない作業
工業の移り変わり
日進月歩の工業社会、
土には還らぬ化学製品。
むしろすり作業
市制が施行される以前の掛川の工業は、葛布とともに藁工も盛んであった。藁で肥料や穀物を入れるかます(藁で編んだ袋)や縄、筵(むしろ)などを加工していた。しかし、市制が施行された昭和30年前後には、徐々に紙袋や化学製品が市場に出回り始めたあ頃で、すでに藁工の危機が叫ばれていた。それと同時に、藁工を全廃して、藁は田へ返せという声も盛んになり、昭和37〜38年頃に掛川から消えてしまった。

筵を織る動力用の機械が掛川で作られていたにもかかわらず、地元では使われずに県外で利用されていたという。掛川では農家の婦女子の手足が機械に代わる役割を果たしていた。かなり重労働のようであった。

現在の工業では、ヤマハ、NEC、資生堂、サンスイなどの企業が進出し、その殆どがオートメーション化しており、逆に機械に使われる様になってしまった。
むしろ織り作業
現在の消防署
消防の移り変わり
いつになっても抜きつ抜かれつ、
時代にあわせた消火方法。
掛川はその昔、懸川とか、欠川と呼ばれていた時代があった。これは、市街地を流れる逆川が度々氾濫し、至る処で水害が起こったために、そう呼ばれたのではないかと言われている。市制後も昭和37年と昭和57年に、市内全域にわたって大雨による浸水被害が発生した。

そして、十九首から仁藤にかけて東西に長く延びた街のため、冬季の強い西風が吹き抜けるときに、ひと度火災に見舞われると大火になりやすい街でもある。このため明治年間には4回も大火に見舞われ、一度に百戸以上が焼失している。そのため、消防に対する熱意は高く、消防組、警防団、消防団と改まる度に、強固な消防精神が培われてきた。

市制施行当時は消防署はまだなく、消防団として8分団から成り立っていた。その後、各村との合併により。昭和36年(1961年)には20分団、団員数千名となった。(現在の消防団は6分団20部制)

そして、昭和37年(1962年)4月1日から掛川城御殿を仮庁舎として掛川消防署が設置された。この時は、署長以下職員24名、消防自動車が1台だけだった。仮庁舎での冬は寒く、床へ水を撒けばそれが凍ってしまったという。

この寒い仮庁舎から現在の場所に移転したのが昭和47年12月19日であった。以後は大火と呼ばれるような火災もなく、ほとんど火元だけで近隣所への類焼は免れた。市制以来最大の火災と言えば、やはり昨年の、死者14名、負傷者27名を出したつま恋のガス爆発である。

さて、救急活動については昭和43年(1968年)1月1日から業務が開始され、初めは指揮車(赤いライトバン)を改造して後ろに担架を乗せただけの粗末なものであったが、3ヶ月後には救急自動車が購入された。

救急業務も栗真の普及と共に増え、開始したばかりの頃には年間230件くらいだったのが、毎年増え続けて、一昨年あたりから1,000件を超えた。昭和58年(1983年)は1,200件くらい。これは医療機関の休日が増えたことも原因しているという。

掛川消防署も一台の消防自動車から、現在は消防自動車4台、救急車2台と増えた。しかし、社会の発達とともに、次々と新しい物が要求されるようになる。高層建築物が増えてきた今、はしご車も必要になってきたし、交通事故や家の下敷きになった時に助ける工作車、油とか薬品などの火災の時に出動する化学消防車なども必要に迫られつつある。

「いつも、いたちごっこみたいなもので、世の中が進んでいく度に『ほしい、ほしい』といって買って貰う頃には次の物が要求されるようになる。」と消防署のある職員。これから先、どんなものが要求されていくのだろうか。
原泉小学校明ヶ島分校の生徒と先生(昭和32年)
教育施設の移り変わり
川や池からプール、木造から鉄筋、
なかなか建たぬ体育館。
掛川の小・中学校の体育館の建設は、全国的に遅れをとっているのが現状で、中学校は昭和48年(1973年)に東中学校の体育館が完成したのを皮切りに、昭和53年(1978年)の栄川中学校で完了しているものの、小学校については、ようやく昭和56年(1981年)から始まり、現在も続行中である。

建設が遅れた理由は、掛川市の予算が少ないこともあるがそれ以上に、掛川市は人口の割に面積が広く、合併、合併でいままで来たので、他の市町村と較べて公立学校が多い。

磐田市が人口約8万人で小学校が12校(分校が1校含まれている)しかないのに、6万7千人の人口の掛川市には16校もある。人口比率からみればかなり多いことになる。それらをすべて木造の校舎から鉄筋校舎に替える方を優先したために、体育館建設の方にしわ寄せがきてしまったのである。

市制とは直接関係はありませんが、掛川中学校(現在の掛川西高等学校)では、大正15年(1926年)にプールが新設され、これは全国的にも非常に早かったそうです。因みに、東京の芝公園のプール(東京で一番古いプール)は、この掛川中学校のOBの人達の働きかけで1923年に出来たものだそうです。当時、水泳部の先輩で東京へ行っていた人達が、同じく水泳部の先輩でもある掛川出身の、後に労働、建設大臣になった戸塚九一郎氏のもとに足を運び、掛け合って作られたものだと言うことです。それによって、東京で水泳の全国大会が行われるようになったのです。

話がそれましたが、小学校に初めてプールがお目見えした野は昭和28年(1953年)のことでした。掛川第一小学校で、次に翌年には掛川西中学校にも完成しました。左の写真は小学校名やいつ頃撮影されたか判りませんが、女の子のワンピースの水着やビニール製の水泳帽は懐かしい姿です。

教育施設面での大きな変化は、校舎が一部を除いてすべてが木造から鉄筋の校舎に替わったことでしょうか。





西南郷小学校の旧校舎(上)から新校舎(下)への引っ越し(昭和32年6月25日)
池で水泳を楽しむ子ども達。
プールに足を入れる懐かしい水着姿の子ども達。
当時盛んだった炭焼き風景。今はもう数件が残るだけになった。
農業の移り変わり
石油消費社会の中で、金の掛かる
機械化された農業の未来は。
市制施行当時の農業は、ほとんどが専業農家で、市内では米が農産物の7割位を占めていた。それが、政府の減反政策によって、米の生産量が減り、今ではお茶が米に取って代わった。

農業の機械化は昭和35年(1960年)位から少しずつ普及し始め、昭和39年(1964年)の東京オリンピックを境に急激に普及した。それと同時に兼業農家が増え、お茶ならお茶、イチゴならイチゴというように、効率の良い物を集中的に生産するやり方も増えてきた。

昔はどこの農家でも、牛や山羊や鶏を飼っていたり、自給自足でやっていける程度の野菜類を作っていた。牛も食肉用ではなく牛耕(牛で田や畑をたがやす)のための牛だったし、鶏は庭先で飛び回って卵を食卓に提供した。

機械化の進む中で、曽我に住む小嶋さんは、つい4〜5年前まで頑なに牛耕を続けていた。その小嶋さんも今は亡くなられて、掛川では牛耕を見ることもなくなった。野菜も農家の婦人がスーパーで買っていく姿を見るにつけ、つくづく時代の移り変わりを感じる。

しかし、最近では自給自足までとはいかないまでも。野菜作りに少しずつ復活の兆しが見えてきたという。機械化が進んで余裕の出来た農家の主婦や老人がグループを作り、少しずつ野菜を作り出している。農協が把握しているだけでも千人位はいるという。中には若い主婦もいるようである。

食糧危機が叫ばれている今、この動きは当然の流れだと思う。土地のないものは空いている土地があっても、借りることもままならず歯ぎしりをしているというのに、市内には草ぼうぼうの日当たりの良い土地が至る処にある。どんなに機械化が進もうと、農業の原点は変わらない。今のままでいくと10年後、20年後の農業に不安を感じる。

さて、近頃ではあまり見かけなくなった案山子(かかし)ですが、カラスなどを追うのにどうしているかと思ったら、太陽光を反射するキラキラ光るテープのようなものを田圃一面に張っているのだそうです。左の写真は小学校の実習で生徒達が作った案山子です。

日々の生活で暖房や炊事などで欠かせなかった炭焼きで出来る木炭。昭和29年(1954年)頃は炭焼きの最盛期であった。ところが、それから間もなく薪や炭に替わるガスや電気。石油などの普及により衰退の一途をたどることになる。昭和29年は最盛期であり、最終期の時代でもあった。原田地区だけでも炭を焼いていた家が15〜20軒あったが、今では市内でも数軒しか残っていない。

今でも焼き鳥屋、お茶屋(ほうじ茶を焙じる時に使う)、手作りせんべい、お茶を点てる時と、一部の間では頑なに使い続けている。炭の良さを本当に知っているお店なのだろう。中には鋳物屋で鋳型を乾燥させる時に使っている所もあるようだが、これは鋳型が狂わないように静かにゆっくりと乾燥させるためだそうだ。

炭火で焼いたサンマやウナギは最高に美味しいのに、ガスや電気に慣らされてしまった現代人には、もう炭は用済みとなってしまったようだ。現在も炭焼きを続けている原田の藤川太一さんは「もう少しで炭焼きの灯が消えてしまう。だから今のうちに使い方を考えておかなければ…」と言う。でも、いずれは石油危機の時代がやって来るから、その時には見直されるようになるのだろうけど、もうその時には炭を焼く人もいなくなって「時既に遅し」となってしまうのかもしれない。
曽我の中山まさたか君は沢田でしろかきの手伝い。(昭和34年)
曽我の小嶋さんは、機械を使わず最近まで牛耕をしていた。
小学校の実習で子ども達が作ったかかし。
商店街の移り変わり
地図の上に定規で線が引かれ
歩き慣れた道、今は無し。
商店街は都市計画によって様変わりしていく。現在は主に連雀・中町商店街、駅前商店街、西町商店街と分散されたが、20年位前までは連雀・中町商店街が中心だった。掛川市民が「街へ出かけてくる」と言えば、連雀や中町と決まっていた。いつも人が動いていて賑やかな通りだったと言う。

その頃の栄町(駅通り)周辺は、門倉商店(藁製品を扱っていた)や日本通運の倉庫ばかりで、人通りの少ない淋しい場所であった。それがいつの間にか、連雀・中町商店街と二分される程の商店街に発展した。これは大型スーパーの出現と、今回の都市計画で、全国的に有名となった木レンガ敷きの歩道と無電柱化や道路の拡大なども大きな要因となっている。

さて、次に掲載する写真は、昭和43年(1968年)から始まった都市計画の前に撮影された写真で、すでに閉じてしまった店、移転した店もあって時代の移り変わりを痛感する。

この頃には掛川警察署が中町にあり、シブヤ洋品店の西隣には主婦の店(スーパー)もあったが、現在は飲み屋街になっている。風情のある建物は丸金そば店。店から張り出た所で蕎を手打ちしているのが見られて評判の店だった。

今はアーケードも出來、どこの店も近代的な作りになってしまったが、こうして昔の写真を見れば、懐かしさもあるせいか、それなりに良さもあるように思う。現在の仁藤に桝忠の建物も、行く行くは都市計画で取り壊されていくのだろうけど、非常に惜しい気がする。

今年閉店になった「玉寿司」 昔の風情が漂う「丸金」
アーケードが設置される以前の「掛川信用金庫」
現在の連雀にある兵藤楽器店の東隣にあった小野田歯科医院 仕上げまで30分のクリーニング店。今はミンクスになっている。 現在も同じ場所にある兵藤楽器店
シブヤ洋品店と主婦の店 松花園。店前には懐かしいスクーターが停まっている。 ツチヤ靴店。