かけがわのむかしばなし「民話伝承」
78%KAKEGAWA Vol.48 1984年3月号掲載
民話や伝説は作者が不明の場合が多く、それでも、昔話しや世間の話しとして長い間人々に受け継がれてきました。そして、遠く離れた土地の何処かに、必ずと言っていいほど似たような民話が語り継がれています。例えば、桜木に「椀貸池(わんかせいけ)」という民話が残っていますが、飛騨地方にも「椀貸せ渕」という同じ様な内容の民話が伝わっています。どうやって語り継がれたのか興味のあるところです。
おじいちゃんおばあちゃんが、寝物語に語ってくれた昔話も、今ではすっかり聞かれなくなってしまいましたが、今の子ども達に話して聞かせたらどんな反応が返ってくるでしょうか。
掛川にも、たくさんの民話や伝説が伝わっています。これらの民話を足で集めているのが「掛川歴史教室」の皆さんです。「掛川のむかし話」という冊子も編集されています。今月号では、その中から何点かを紹介させていただきます。これからも、親から子へと伝承されていくことを願いつつ…。(資料提供:掛川歴史教室)

惣ヶ谷お菊
(そうがやおきく)伝承地域:五明(上西郷)
今から三百年程前の物語である。五明村の惣ヶ谷にお菊婆さんが住んでおった。
子どももなし、爺さんとは五年前に死に別れ、それからは田畑は人に貸し、野山の葛を採り糸にして、それがたまると町の葛屋に売りに行くのが、何より楽しみだった。

ようやく春めいて、鶯が鳴き始めた頃、婆さんは久しぶりに町へ葛を売りに行っての帰り道、谷田のどん堀に子狐が落ちて必死にもがいているのを見つけ、助けて我が家へ連れてきた。

可愛がって飼っているうちに、狐はどんどん大きくなり、一年経つと大人狐になり人目につくのを心配した婆さんは、或る日、狐に向かって「若い衆に化けて見よ」と言った。

すると狐は「あっ」と言う間に、男前の立派な若衆姿になった。宇吉と名前を付け、何かと用を言いつけるが、喜んでやってくれる。
それからは、宇吉が遠くまで葛を採りにいったり、町使いもする様になった。

「惣ヶ谷のお菊さん所で良い若い衆を子に貰ったな」
「美男で働き者だげな」
と、噂はたちまち村内に広まり。町使いに行く時など、わざわざ見に来る娘達さえあった。

その一人に庄屋の三右衛門の娘お菊は、ボーっとなってふさぎ込んでしまった。
ある日娘は両親の前に手をついて宇吉と夫婦になりたいと、申し出た。両親はびっくりし「家柄が違うで駄目だ」と反対した。娘は「一緒にしてくれなければ死んでしまう」と言い出したので、両親は困り切ってお菊婆さんの処へ相談に行った。

突然の庄屋様の訪れとあって婆さんは、何事かと座敷へ通し話を聞くと、宇吉との縁談話。びっくりして返事の仕様もなく、ふと、一策を案じ。裏で薪を割っていた宇吉に、「すぐ、娘に化けてお茶を持って座敷に来ておくれ」と頼んだ。

宇吉は美しい娘に化けてお茶を持って座敷に現れた。婆さんは庄屋夫婦に向かって、
「実は宇吉には、この様な娘と許嫁(いいなずけ)でして、わしの姪(めい)でのう…」
この一言を聞いて庄屋夫婦は「いい塩梅だ」とばかり、飛んで帰り娘に言い聞かせるのでした。
娘は「わっ」と泣き出し部屋にこもってしまった。

夜になって家中が寝静まった頃を見計らい、娘のお菊、何を思うか提燈もつけず。惣ヶ谷目指してすたすたと行くではないか。その後より飼い犬の太郎がこっそり付けてくるのも知らずに…。

夜はしんしんと更けて、惣ヶ谷のみな口を落つる音がチョロチョロと聞こえるばかり。娘はお菊婆さんの家へ着くと、裏のもや入れから松葉もやを音のせぬように運んで表口と裏口に積んで火を付けた。燃えだした火を見て犬は吠え立てながら一目散に庄屋へ知らせに走って行った。

娘は「宇吉さんこっちよ〜、宇吉さんこっちよ〜」と、火の付いたもやを振りかざしながら、家を二、三回廻ったかと思うと、惣ヶ谷池の方へ向かっていき、池の堤より「宇吉つぁーん」と呼んだかと思うと「ザブーン」と飛び込んで消えてしまった。

こちら婆さんと宇吉、突然の犬の声に目を覚まし、パチパチとはぜる音にびっくりして飛び起きた拍子に、婆さんは腰が抜けてしまった。宇吉は抱きかかえて裏の戸を開けた。炎と煙がどっと入り、巻き込まれ気絶してしまった。

犬の知らせで飛び起きた三右衛門、表に出ると火の手が山の向こうに見える。
「おーい、火事だ、火事だ」と、大声で叫びながら下男を起こし、半鐘を鳴らさせた。夜中のしじまを破って、擦半鐘(すりばん:乱打で続けながら鳴らす)の音に村の人達は跳ね起き現場へ駆けていった。

翌朝、焼け跡から焼けただれた大きな狐に抱きかかえられて死んでいた婆さんの姿に村人は大騒ぎをした。いや、それよりもびっくりしたのは、三日後に惣ヶ谷池に庄屋の娘お菊の死体が浮いておった事でした。

こんな事があって一ヶ月程たった頃、誰言うこともなく、惣ヶ谷に火の玉が出る噂が広まっていた。なんでも、提燈位の赤い火の玉が消えたり一つになったり、二つになったりして池の堤に現れたと言うことだった。



惣ヶ谷の地名は現在も残っており、池は埋められて茶園になりましたが淋しい処であります。

堰口地蔵尊
(せきぐちじぞうそん)伝承地域:東山(日坂)
この地蔵は地元では「井口地蔵」とも呼ばれている。今年はこの近辺も水が不足して断水が続いている。今日も市の給水車が走り回っていた。
日坂の宿から一里ほど北の山の中、粟が岳のふもとに上大久保という部落があった。
麦や茶、芋などをつくっているが、山のふもとで大した川もなく、日照りがつづくと作物の出來が悪く、村人達は難儀していた。

「今年しゃ雨ふらんもんでさ、里芋も葱も大根も、あかく枯れてしまった。困ったもんだ。」
「おらん家じゃ天水(雨水)でくらしてるもんでさ、はあ飲み水んちいっとんなっちゃって困っちゃうやあ。」

おかぼ(陸稲)は日照りで伸びず、遠くの小ぶな川まで桶をさげて、水を汲みにいくのだが、畑まではうるおせなかった。

村人達は粟が岳の頂上に登り、天を仰いで「どうか雨を降らせてくれ!」と叫んだ。しかし、声は無限の井戸底へひびくだけで、空は青く澄み渡っている。

「こんで三ヶ月半、一滴の雨もない。お地蔵様を祀って地の神に祈るか。」と、地蔵堂を建てることにした。

「どうせ木は沢山あるで、大きいお堂を建てまいか。」
「地蔵様も人間のおとなぐらいのお姿に作っていただこ。」と等身大の地蔵様を作った。石の立派な地蔵様が出来上がった。

「どこへお立つてしようか」
「粟が岳のてんぺんはどうずら」
「それより川へ水が流れるように堰(せき)になるから、川のほとりがいいら」
「それがええ、それがええ」

上大久保の人達はみんなで堰口に地蔵を建て、お祈りした。

「どうか、わしらに水をよんどくんない」
「この谷川にいつも水を流しておくんない」

みんな地蔵の前で三日三晩火を焚いてお祈りした。
すると不思議、ぽつぽつと雨が降り始めた。

「うわぁー、雨だ、雨だー」
谷川にも水が流れはじめた。

それから後は、この谷川にはいつも冷たいよく澄んだ水がさらさらと流れている。
「何と有難いことか」人々は喜んだ。どんなに日照りが続いても谷川の水だけはきれなかった。



東山、日坂、東山口の人達は、今でも雨乞いには堰口地蔵参りをするという。

嫁っ田
(よめった)伝承地域:宮村(東山口)
嫁っ田と呼ばれているところは、日坂の八幡神社手前400m位西の道を左に折れると直ぐの処にある。石らしいものは見つからなかったが、そこには家が2、3軒建っていた。
百姓の作蔵さの田んぼは広々として一丁余りの広さがあった。働き者でがんこのおかみさんと息子の千代蔵との三人暮らしであった。千代蔵は両親とは違い心のやさしい息子であった。

父も母も毎朝陽の昇らないうちに畑にいき働いていた。農作業以外はなにも知らない夫婦であった。

或る時、鴨方(かもがた)の親るいから法事をやるので来てほしいとことずてがあったが、田植えの支度で忙しい時分だったので、一日るすをあけるのがもったいなかった。「葬式でないで、都合わるいって言うか」と、母はことわろうとした。

しかし、息子は「おっかあさ、そんなこというもんじゃないぜ。親せきじゃんか」と母をいさめた。「そんじゃあ千代蔵行っておくれでないかの。もうお前も二十才で一人前だでの」

千代蔵は父の紋付きの羽織を着て鴨方の法事に出かけた。塩井河原をすぎ、一里山で一服し鴨方に来た。はじめて来たところなのできょろきょろとあたりを見廻し、叔父の家をさがした。

ちょうど畑で麦刈をやっている親娘がいたので尋ねてみた。
「まこと、すんまへん。慶三という家をおしえてくんない」
「ああ、それならあの一本杉の家だんね」と教えてくれた娘の顔を見て驚いた。

何ときりょうがいい娘なんだろうと見とれてしまった。ぷっくらとしたうりざね顔に、かわいいくちびる。千代蔵は一目惚れしてしまった。

千代蔵がぼーっと立っているのを見て、娘の父親の大助が声をかけた。
「おい、若い衆、何してるんだね」
「ああ、すんません。見とれちゃって」
それを聞いて娘はぽーっと赤くなった。

法事が終わり、またさっきの道をとおって娘の顔を見ようとした。運良く娘一人が麦をたばねていた。
「娘さん、せいが出ますね。さっきはありがとうよ。おかげで今帰るとこだんの」
「そうですか」と娘はにっこりした。
それから毎日、千代蔵は鴨方へ行くといって出かけて行く。そわそわとして日々楽しそうである。

「おめえ、ばかにこのごろしゃれるでねえか。いい娘でもみつけたのかえ」
「うんだ。おらあいい娘みつけただ。嫁にしたいと思ってる。鴨方の大助さんとこのおみっちゃんだ。たのむぜおっかさん」
「そりゃあいいさ。だが一つ条件があるだ」
「条件?なんだ条件とは」
変わり者の母は「一日で家の前の一丁田を植えたら嫁にしてやる」
「そんなむたいな。一丁田を一日でなんて」

千代蔵は仕方なくこの話をおみつに伝えた。おみつはにっこりして「千代蔵さんのためにわたしがんばるわ」と元気よく言った。大助も「おみつは働き者だからがんばるだろうよ」と元気づけてくれた。

娘はそうは言ったものの、一日一丁植えなんて無理な話は聞いたこともないので途方にくれた。でも言い切ったので神と仏に祈りながら、次の日宮村へやってきた。

一丁田を前にして、さすがその広さに驚いた。まだ夜が明けきらないが、手さぐりで苗とりをはじめた。そして田植えにうつった。後もふりむかず汗もふかず、ただ黙々と植え続けた。

まだ一反余り残っているのに、もう夕月がかかりはじめていた。千代蔵は気が気ではなかった。「がんばれ」「がんばれ」と横の田から声援を送った。

やっと植え上がった。手も足も感じがなくなる程だった。田の畔にある大きな石にしがみついて、しばらく息をととのえていた。そっれから後、この腰掛けた石を縁定め石(えんじだめいし)と言うようになった。

近所の人達も、一日で立派に植え上がった田を見て目をみはった。

それから十日後、美しい嫁が千代蔵の家に来た。もちろん嫁はおみつだ。温厚な嫁と息子はよく働き、嫁の美しい心が姑たちに伝わり心をいれかえた。

泣き弘法
(なきこうぼう)伝承地域:神代地
神代地にある弘法堂
弘法大師像が出来て今年で333年目にあたる。大師像が法多山へ移されてからの出来事は「実際に不思議なことがいろいろ起こった」と、現在も神代地に住む人達の声。
今からおよそ千二百年も前のことであろうか、一人の雲水(修行僧)が、諸国行脚を続けながら「欠川(かけがわ)の里」の結縁寺に立ち寄ったことがありました。当時、南郷の裏山は、岩がけわしく突き出ていて、旅人の難所でもあったのです。

結縁寺から急なつづら折りの山道を下って、里に出た雲水は、のどが渇いてたまりません。そこで、一軒の民家に立ち寄り門口で念佛を唱えておりますと、おばあさんが出てきました。

「少し休んでいったらどうだね。だいぶ疲れていなさるようじゃ」
「そうさせてもらいましょう。お水を一ぱい下さらんか」
「はいはい。ほんにおいしい水をあげたいけど、この土地は水が乏しく、皆えらく難儀しておってなぁ」と言いながら水を差しだしました。老婆の話にお坊さんは哀れみのまなざしで「それは気の毒なこと。必ず私が、神に代わりこの土地に清水が湧くようにしましょう」という言葉を残してたちさりました。

不思議なことを言う坊さんだと思ったおばあさんは、そのことを村の人達に話しました。「本当に水が湧くようになるずらか」「もしかしたら、偉い坊さんかもしれん」と、村の人達は噂しあいました。

何日かして、結縁寺に住む一人のおじいさんが、おばあさんの家を訪ねて来て言いました。「あれはいつだったか、わしが野良仕事をしておったところが、坊さんが通りかかっての、しきりに杖で地面をたたいておるのじゃよ。おかしなことをするお人だと見ておると、わしを手招きして言いなさった。必ずここから清水が湧くから、そうしたら、あんたに伝えるように、とな。わしはもう何日もみているけれど、まだ何も変わったことは起きていないが、あんたも見に来なさったらどうかと思ってね」

おばあさんはびっくりして雲水が立ち寄った時の事を話しました。そして、場所を教えてもらい、毎日毎日通っていきました。

ある日、いつものようにおばあさんが行ってみると、何やら以前とは様子が違うように思えました。「あれ!これはもしかしたら…」と、少し土を掘ってみたところ、清水がじわじわと湧き出し、見る見るうちに川となっておばあさんの住む村の方へと流れていったのです。

「水だ!やっぱりあの坊さんの言われたことは本当だった」
今まで半信半疑だった村人達は大変喜びましたが、その雲水の素姓は判らないまま何年かが過ぎました。

その雲水こそ、弘法大師であることが判ったのは、それから随分あとになってからの事でした。「神に代わってこの地に清水のわくようにしましょう」とおっしゃった言葉にちなみ、地名を「神代地」とし、その流れを「神代地川」と呼びました。そして、大師の立ち寄った附近を「小字清水(こあざきよみず)」と名付けました。

弘法大師の徳の偉大さに感激した村人達は、後に名士に依頼して大師像を刻んでもらい、弘法堂を建て信仰と供養を怠らず、また藩主の命令により、弘法寺を開き、清水山弘法寺とし、藩主の祈とう所としたのでした。

その後、明治七年、その地に小学校を建てることになり、寺はなくなり大師像は法多山へ移されることになりました。今まで、何かにつけて人々に崇められ大切にされてきたのに、法多山に移ってからは訪れるひともなく、淋しい日々を送っていた大師像は、夜な夜な神代地に住む人々に「帰りたい、帰りたい」と、せがむようになり、いつのまにか「泣き弘法」といわれるようになってしまいました。

村人が一人寄り、二人寄りすると、必ずこんな噂がながれました。
「ゆんべも家の柱がゆれてな。弘法様が帰りたい…と、せがんでいるように思えるだよ」
「そうだ。オラの家も夜になると、床が何か判らない音をたておる。ちょうど弘法様の泣き声のようじゃ」
「ワシは夢を見ただよ。泣いていなさった」

いろいろな人の口から不思議な出来事が語られ、どうしても再びこの土地にお連れしなければ…という思いが人々の胸に強くなっていきました。そして、ようやく復帰の交渉が出来たのは昭和へ入ってからのことでありました。

早速、若者五人で法多山へ行き、交替で背負って神代地へお連れしたのでした。神代地に戻ってきた弘法大師像は「うれし弘法」と言われている。

かみそりギツネ
(カミソリ狐)伝承地域:北池(下西郷)
昔、むかし、北池は青ん泥が一面に浮いていて、とてもきたなく淋しいところでした。
ここに、年老いた一ぴきのいたずらぎつねが住んでいました。

このきつねのいたずらは、それはもうひどいもので、ここを通る人はどんなに気をつけても、必ず頭をつるつるに剃られてしまうのです。

ある晩、近くに住む小助という男、ふだんから自分こそは村一番のりこう者と自慢していたのですが…
「なあに、おれは絶対化かされんぞ。化かされるやつは、とろいんじゃ。きつねが出たらふんじばってやる」と、心配するみんなをあとに、意気ようようと北池へ出かけていきました。

北池のそばまでくると「殿様になれ−」と、声がします。
木のかげからそうっとのぞいてみると、きつねが北の面の青ん泥を頭からかぶっています。あれあれと思って見ているうちに、立派な殿様が出来たではありませんか。
「家来になーれ」と、また頭から青ん泥をかぶると、なんと、たくさんの家来が出来上がります。
「お篭になーれ」
「はさみ箱になーれ」
「やり持ちになーれ」
青ん泥をがぶるたびに、次から次へと出来上がります。全部そろうと、立派な大名行列になって、「下にー」「下にー」と、動き出しました。

じっとかくれていた小助は、この不思議な光景にすっかり気をとられてしまいました。その立派なこと、その面白いこと。思わずその後にくっついて、歩き出しました。

しばらく行くと、立派な門の家があって、行列はその中に入っていきます。小助もつられて入って行きました。とたんに、「こらあ、何者だ!なぜ中に入った」と、家来が大声でどなりました。
「へえ、申しわけございません。あんまり立派でおもしろいので、つい入ってしまいました」小助は一生懸命あやまりました。

「命だけは助けてやる。そのかわりこの中に入った罰だ、頭のちょんまげを剃ってやる」逃げる間もなく、つかまって、あっという間に頭を剃られ、門の外にほうり出され、気を失ってしまいました。

どのくらい時間がたったのでしょうか。
「しぅかりしろ」という声に、ふと気がついた小助が、あたりを見廻すと、もうすっかり朝。立派な門も、家も、行列もなく、北池の土手の上、一晩帰らない小助を探しに来た村人達の心配そうな顔があるばかりです。

「しまった」頭に手をやると、やっぱりきれいに剃られています。
みんなに合わせる顔がない。と、小助は恥ずかしそうに家に帰って行きました。


いつとはなしに、だれいうとなしに、このいたずらぎつねのことを「かみそりギツネ」と呼ぶようになりました。

雨ふり坊主
(あめふりぼうず)伝承地域:本郷
元の原野谷小学校の松の木は3〜4年前に松食い虫にやられて住民の手で伐られてしまった。今、この跡地は駐車場となっている。
むかし本郷の名主に小沢八太夫というなさけぶかい立派な人がおりました。

八太夫の屋敷には一本の大きなかしの木がありました。八太夫はこのかしの木が大変気に入っていて、大事に育てましたので、かしの木はぐんぐん枝葉を伸ばし、このかしの木は遠くからも良く見えたということです。かしの木がこんなに大きくなったので、八太夫の屋敷は昼間でも半分しか陽がささず、人々は日陰の館(ひかげのやかた)とも呼んでおりました。

さて、この八太夫の屋敷に一人の下働きの男がおりました。毎日水を汲んだり、まきを割ったり、庭を掃除したりするほか、この男にはもっと大事な仕事がありました。それは夜になると、広い屋敷内を火の元は大丈夫か戸締まりは忘れたところはないかと、見まわる仕事でした。

ある雨の降る夜のことでした。男は「こんな夜は何となくいやなものだ。今夜ははやいとこきり上げよう」と、ひとり言を言いながら、みのかさを着て見まわりに出かけました。

「火の用心、火の用心」男はいつものように屋敷を見まわりました。そして灯ろうの所までくると、何となく辺りが「ボッ」と明るくなっていました。おかしいなと思いながら近づいてみると、いつ誰が灯したのか、いつも自分が火を灯す灯ろうにちゃんと火が灯してありました。

男は不思議に思いながらも、なお見まわりをつづけ、その夜は少し早めに切り上げました。さて、男は日々の忙しさに追われ、その夜のことは忘れるともなしに忘れておりました。

それからひと月ほどたったある日、朝のうち晴れていた空から日暮れ近く、ポツポツ雨が降り出しました。男はいつものように、みのかさを着て屋敷を見まわり、灯ろうに火を灯そうと見ると、また誰が灯したとも知れない火が灯っておりました。

次の朝、男は早速みんなに聞いてみました。ところが誰一人雨の夜、わざわざ火を灯しに出かけた者はおりません。ますます不思議に思った男は、今度こそ誰が火を灯すか見付けてやろうと雨の降る日を待ちかまえておりました。

二週間ほどして、シトシト雨の降る夜、男はいつもより少し早目に見まわることにして、誰が火を灯しているのかたしかめようとしました。そして例の灯ろうの所までくると、何やら「ボーッ」と人影らしいものが見えました。その影はいま灯ろうに火を灯して歩き出そうとしておりました。

雨をすかしてよく見ると、何と坊様の姿をしたかわいらしい子どもです。
「この辺では見かけない子だが、はて誰だろう」
男はそっと後をつけてみることにしました。つけられているとも知らぬ小坊主は、それから家の隅々を見てまわり、大きなかしの木の所までくると「フッ」と姿が見えなくなってしまいました。

木のかげに隠れたのだろうか。男は急いで木に近づいてみましたが、あたりには人影はおろか猫の子一匹おりません。そしてその時、男はなぜか背筋がぞーっとさむくなったのでした。

翌朝、男はこの話をみんなにはなしました。この話は屋敷中に伝わり、間もなく近郷近在にまで知れ渡りました。そうしてそれは、大事に育てられたかしの木が、小坊主に姿をかえ、屋敷を守っていてくれたのだろうということになりました。

人々は誰いうともなくこれを「雨降り坊主」と呼んで、今まで以上にかしの木を大事にあつかいました。そうして、それから後八太夫の屋敷では、雨の夜の見まわりはしない様になったということです。

今この八太夫の屋敷は、元の原野谷小学校跡となっています。校庭に一本の古い形のよい松の木があります。あるいはかしの木ではなく、この松の木だったのかも知れません。むかしむかしの古いお話しです。