路線バスのゆくえ
78%KAKEGAWA Vol.56 1984年11月号掲載
女性にもてたバスの運転手
掛川の路線バスの歴史は、大正12年(1923年)頃には人力車と共に10人前後が乗れる乗合自動車が走っていたので、この頃より人力車から乗合自動車に代わってきたと思われる。

「静岡市では、明治39年(1906年)8月に初めて運行されたが、当時は燃料が粗悪で、強い悪臭を放つ排気ガスをまき散らしながら走ったので、沿道の住民にきらわれたり、採算が取れないようになって、わずか1年半で廃業。その後、燃料、内燃機関共に著しく改善されたものが出て、大正11年(1922年)に宮寺商会が市内バス(静岡)を開業してから、次々に新しい業者が開業した」(静岡鉄道創立50周年記念誌より)とあるので、掛川も路線バスが走り始めたのはおよそ大正11〜12年頃だろう。

昭和に入ってからは、バス事業も急速に開けていった。この頃の運転手は、スマートな制服でどこにいっても、なかなかもてたそうです。また、規則も緩く、停留所のないところでもお客が手を挙げればどこでも停まってくれた。そんな時運転手は料金をいくらもらって良いのかわからないので、客の方で適当に払うのをそのままもらっていたという。まったくのんきな商売だったようだ。

静岡鉄道に自動車部が出来て暫くしてから、当時の自動車部の部長がそのことに気がついて、車掌を採用し、切符による運賃収受で車内販売をするようになった。これが昭和5年(1930年)のことである。これ以降、今日のような路線バスの営業形態が出来上がったのである。

戦時中のバスは全て木炭ガス発生炉を取り付けた代燃車に替わり、熱効率が非常に悪かったために、運転手は絶えず車から降りては木炭や薪などの代用燃料を補給しなければならず、運転中の苦労は言語に絶するものがあったという。それに、戦時中に不足していたのは燃料や資材物資だけでなく、運転手もまた不足していた。戦争により召集されたり、軍事工場への徴用で、運転手が次々に引き抜かれていったからである。
大正12年頃の乗合自動車(掛川駅前
バスの斜陽化と共にワンマンカーに
現在では、路線バスには必ずいた車掌も合理化の一環で、ワンマンカーが導入されてからは、昭和40年代の後半にはすっかり姿を消してしまった。路線バスの車掌やバスガイドは。私達女性の憧れの職業でした。紺の制服に紺の帽子をちょこんと斜めにかぶり、切符やお金を入れるバックを腰から提げて、「次は○○、次は○○でございます。お降りの方はございませんか?」と、マイク片手に笑顔を振りまく姿はとても素敵に見えたものです。

ワンマンカーが導入されて何十年も経つと「バスの車掌?何それ、そんな職業あるの?」って言われそうですが、「やっぱりあの頃の路線バスはよかった。」と、つくづく思うのです。

♪若い希望も夢もある ♪ビルの街から山の手へ ♪紺の制服身につけて ♪私は東京のバスガール ♪発車オーライ ♪明るく明るく走るのよ〜
うら覚えで正確かどうかわかりませんが、ふっとこんな歌を思い出してしまいました。

小さい頃にバスの窓から見た風景の中で、特に記憶に残っているものといえば、道路に沿って建っている家が、舗装されていないため軒並み砂埃で真っ白になっていたことと、緑一面の田圃の風景…。運転免許を取って以来、路線バスと言うより、バスそのものからすっかり遠ざかってしまった今も、あの砂埃で真っ白になっていた家々は、はっきり思い出すことが出来る。

それにしても、ワンマンカーになる以前までは、通勤や通学の行き帰りの時間帯には、満員で、座るどころかぎゅうぎゅう詰めても乗り切れなくて、次のバスを待たされたことも度々あったが、最近のバスを見ると、一番混雑する時間帯でも立っている人はほとんど見受けない。
昭和29年(1954年)当時のボンネットバスと車掌。
特に売上げ成績の悪い掛川市
掛川の乗合自動車は、秋葉自動車、掛川自動車商会、掛川タクシーのバス部門で運行されていたが、秋葉自動車が昭和10年(1935年)1月に、掛川自動車商会が昭和12年(1937年)4月に、掛川タクシーが昭和18年(1943年)10月に、それぞれ現在の静岡鉄道に買収され合併した。

静岡鉄道は他社との合併を続けながら、電鉄自動車、駿遠自動車、静岡乗合自動車、静岡鉄道と名称をかえた。改称をする度に大きくなり、県内でも有数な会社へと成長していった。

しかし、隆盛を誇っていた路線バスも、一家に一台どころか、2台も3台も自家用車を持つようになって以来、乗客が段々と減り、苦しい時代を迎えることになってしまった。

特に掛川市の場合は面積が広く、街の中に民家が集中し、あとは広い地域に分散しているため運行の面で非常に効率が悪い。郊外は不便なところが多いので、なおさら自家用車を持つようになって、益々バスの利用者が減るということを繰り返している。静岡鉄道の営業所がある中でも、掛川市は特に営業成績の悪い地域に入るそうである。空気だけを運んでいる様なバスもかなりあるので、そういう路線については、「今後は徐々に検討していくつもりだ」と言う。

自家用車を利用している私達にはバスは余り利用しないが、学生やお年寄り、そして車を運転しない人達には、路線バスはなくてはならない足であるわけです。利用者は現在が底ではなく、まだ下降線を辿っているということですから、今後、廃線になる路線も相当出て来る思う。どうしたら存続できるのでしょうか…。

静岡鉄道掛川営業所の杉田所長は、「やはり、皆さんに利用していただくことでしょうね。どうしようもなくなった、廃線をしなくてはならない事態になった場合に、いらないということなら別ですが、廃線は困るということであれば、若干の面倒を見ていただかないと…。公共事業の性格が強いといっても、やはり生活はありますので…。いろんな面でご援助いただきたいと思います。」

やはり、より多くの市民が利用することが一番望ましいのですが、一度車の味を覚えたマイカー族にはちょっと無理かな?という気もしてくる。でも、田舎の方の路線バスの終点場所を散策してみると、いわくや因縁(ゆかり)のある場所が多いそうですから、埋もれた歴史を見つける旅もおもしろそうです。休日を利用して市内歴史探訪の日帰り旅なんていかがですか?
目的地まで直行できるタクシー、バス停にしか止まらない路線バス。今後の課題はいかに。(掛川駅前のタクシー乗り場とバス乗り場)
原の谷線・居尻線(静岡鉄道)
郵便受けの並んでいる停留所もある

いこいの広場や加茂荘の菖蒲園に行く場合は「原の谷線」に乗る。終点が「丹間」になっているが、居尻線との合流地点にもなっているので、ここで乗り換えれば、原野谷ダムや泉にも行くことが出来る。また、加茂荘の菖蒲園が開園する5月中旬から6月にかけての期間中は、一時間に1本位の割合で直通バスが運行される。

法泉寺温泉や原野谷ダムに行く場合は「居尻線」の「泉」行きに乗る。居尻からは、やっとバスが通れる位の細い道になる。終点の「泉」まで行くと集落があるが、途中の「居尻」、「笠掛」、「泉」までの間には民家が点在しほんの数軒しか見えない。

しかし、山間の小さな畑の中で、2、3人の子どもが犬と戯れていたり川で遊んでいる姿を見つけると、何故かホッとする。そして、山を背にした民家の細い煙突から、白い煙が立ち上る風景は、まことにのどかで風情がある。

「泉」手前の「笠掛」停留所の中には郵便受けが4っ並んでいた。民家が点在しているために、郵便配達などが楽になるようにと一カ所にまとめてあるのだろうか。こんな所にも心配りや、人々の信頼関係がうかがえる。

「笠掛」から「泉」の停留所までは2.1キロメートルもの距離がある。バス停としては長い距離である。その間は民家がないのだろうか。終点の「泉」に着くと集落が開ける。終点のバス停になっている店のおばさんに「何でここに集落が出来たのか」と尋ねると、「わしゃあ、そんなこと知らん」と軽くいなされてしまった。

橋の欄干の親柱にもたれかかる丹間停留所。
笠掛停留所の左側には半鐘が吊されていた。
笠掛停留所の中に郵便受けが4個並んでいる。
笠掛と泉の間にある市民の森と報徳の森の案内看板。林道散策が楽しめるらしい。
居尻線終点の泉停留所は雑貨店の横にある。
倉真線(静岡鉄道)
鶏まで出て来る古城の伝説

倉真温泉の松葉の滝へ行くには掛川倉真線を利用するが、残念ながら松葉の滝まではバスが行ってないので、「倉真温泉」停留所から歩いて行くことになる。ピクニックやハイキングには最高のコースだ。

さて、点在する温泉旅館のほぼ中間にある終点の「倉真温泉」の停留所からさらに進みながら歩いて行くと、松葉新トンネルがあって、トンネルを抜けて約250m位で橋があり、橋を越えてすぐ右側に松葉城跡に行く道ががある。少し険しいが15分ぐらい山道を登ると城跡の碑があります。有名な城跡ばかりでなく、こんな小さな古城跡を訪ねるのも楽しいものである。

戦国時代の初め、掛川の地は今川氏の支配下にあって、今川氏の勢力が弱まると同時に、松葉城は孤立した状態になったという。松葉城主の河合宗忠は、松葉城攻防戦の時、家老の裏切りによって全滅の悲運にあったとも伝えられている。

城主・宗忠は、戦に負けて城に火を掛けられると、家族を引き連れて真砂という所に逃げた。そして、宗忠は騎馬にて淵に身を投じたという。この淵を御前淵と言い、姫が身を投げた淵を姫淵と呼んでいるそうだ。そして、鶏を沈めた淵を鶏淵と呼んでいるが、なぜ鶏が出て来るのか解らないが、今でも鶏の鳴き声が聞こえてくるそうです。(本当かな?)
倉真線の終点「倉真温泉」停留所。
桜木線(静岡鉄道)
ばかにならない定期代

停留所の前が商店になっていて、バスを待つ間の溜まり場になっている風景をよく見かける。バス会社でもバス停を設置するに当たって、一般の家の前では承諾が得にくかったことから、ほとんどの場合、商店にバス停の設置をお願いした。商店も人が集まるというメリットがあったので快く引き受けてくれた。

乗降客が多いバス停では、切符の販売委託もお願いしていたが、最近では売れなくなってきたことと、店を閉める所も出て来て、切符の販売をしている所も少なくなってきている。

桜木線の終点「坂下」停留所も、すぐ前が商店だ。停留所は道を隔てた広場にあるが、待合室はない。以前はあったが大分前に強い風で倒れてしまったという。もっとも、待合室は自転車置き場になっていたので、利用客はこの店の前にあるベンチに座って待っていた。しかし、店の売上げにはあまりつながらないそうだ。

坂下停留所の利用客も、今は小学生とお年寄りが大半を占めている。中・高校生になると殆どが自転車通学になる。定期代もばかにならない(掛川駅までの定期代は約1万円ぐらい)し、何と言っても自転車の方が時間が自由になるからだ。小学生の小さい子どもでも、待ち時間が1時間以上有ると、4キロ以上もある道のりを歩いて帰ってくる子もいるという。

ただでさえ乗降客の少ない路線バス。これ以上運行本数を増やすことは不可能だろう。本数が少ないから利用客は他の手段を考え出す。ますます乗客が減る。お客が減れば運賃が上がる…。そして、採算ベースに乗るかが問題になってくる。
桜木線の終点「坂下」停留所
坂下停留所のすぐ前の商店
廃線が決まった金谷-掛川線(大井川鉄道)
金谷に本社を持つ大井川鉄道は、大正14年(1925年)に設立され、昭和3年(1928年)になって路線バスの営業認可が下りた。金谷ー掛川線の路線バスが走り出したのは、それから6年後の昭和9年(1934年)になってからのことである。

そしてその20年後の昭和29年(1954年)10月から、粟本線と東山線が運行を始め、地域住民の重要な足として大切な役割を果たしてきた。しかし、現在では廃線の危機にさらされている。大井川鉄道側から「全くの赤字路線であるため、来年の3月31日をもって廃線をしたい」という申し入れが掛川市にあった。

路線バスでも、生活路線として認められている路線については、国や県からの補助金制度が適用されることになっている。ところが、金谷ー掛川線については、対象外となっているために、赤字はもろに大井川鉄道に降りかかってくる。昭和58年(1983年)度の赤字が2,500万円、今年度は3,500万円の赤字を見込んでいるという。

こうなると、掛川市でも手の打ちようがなく、通園・通学のための足としてマイクロバスを1台購入して、今年の10月1日から生徒達の足を確保することになった。そのため、この路線については来年の3月で廃線することに決まった。住民のバスでの足は完全に絶ち切られたわけである。


生活路線の粟本線と東山線

乗車する人が平均して5名以上でなければ生活路線としての価値がないと見なされ補助制度から外されてしまう。現在粟本線は5.1人、東山線は3.5人となっている。粟本線はかろうじて適用範囲に入ってはいるものの、利用者は年々減少傾向にあるので、いつ適用範囲から外れるかわからない。

東山線については、東山と日坂の住民が回数券を一括購入して、すれすれの5.1人までもっていって、ようやく確保することが出来たのである。これとても。地区住民が負担しきれなくなったらお仕舞いだ。しかも、会社側は国や県からの補助があっても、まだ赤字から抜け出せないでいる。

さらに、大井川鉄道では、2年のローテーションで行われる運賃の値上げを前回は「今が限度、これ以上の値上げはできない」として、見合わせた。(ただし、他のバス会社と競合する地域については運賃を調整したところもある)

どうしたら廃線を免れるのか。やはり、住民が利用することしかない。乗車人数が平均15人以上なら、収支がとんとんになるそうです。「一世帯につき、月に2人乗車」ができれば、生活路線を存続させることが出来るという。一家族で月にたったの2人が利用すれば解消されるなら、大切な住民の足である路線バスの存続のためにぜひ利用してもらいたいと思います。
東山線の日坂から東山へ行く途中にある「葛巻橋」停留所。
「葛巻橋」の次にある「椎林」停留所。
東山線の終点「東山」停留所。
粟本線(大井川鉄道)
水垂の「筋違橋」停留所で、小さな図書館を見つけた。名付けてバス待ち文庫」。とてもいい響きの呼び名だ。停留所の中には、粟本公民館所蔵の童話や伝記、漫画本などが約50冊〜60冊の書籍が置かれている。

停留所内で読むだけで持ち帰ることは出来ないが、あのバスを待つ間の手持ち無沙汰は、確実に解消されるだろう。こんなアイデアを考えた人に拍手を送りたい。ただ、せっかくのバス待ち文庫も、利用する側の良識いかんによっては、ゴミ捨て場と化してしまう。ご多分にもれず、このバス停の文庫も、ページを開きっきぱなしだったり、いまにも表紙がちぎれそうな本が、あっちこっちに雑然と置かれている。他人の物だからこそ大切にするという、相互信頼の心を忘れてはいないだろうか。


粟本線の「筋違橋」停留所内にはバス待ち文庫がある。
東山線(大井川鉄道)
東山線の終点である「東山」停留所に、ちょうどバスが着いた。降りてくるのは小学生と中学生、そして数人の高校生。殆どが学校帰りの学生で占められている。まるで学生専用バスみたいだ。しかし、通勤・通学の時間帯以外は閑散としている。

バスの発着所近くのお店の人に聞いてみたれ、路線バスが走り始めた頃には、座りきれない程の人が利用したと言う。ところが、最近では学生以外に利用する人は、せいぜい一日に2〜3人。お年寄りが市内の病院に行くときに利用する位だ。

最終バスが夜7時頃だから、勤め人にとってはどうしても無理がある。残業やつき合いなどで遅くなる場合が多々あるからだ。乗る人がいないから終車が7時なのか、バスの本数が少ないから乗らないのか…。やっぱり前者でしょうね。

さて、小学生の子ども達は、ここから4キロもある日坂宿にある日坂小学校まで通っている。バスから降りてきた小学生に、バスが廃線になったらどうするかを聞いてみた。

「自転車かスクールバスになるんじゃないかな。でも、自転車だと僕らみたいな高学年は良いとしても、低学年の人達は困るんじゃないかなあ。だけど、公立の学校だから、ちゃんと考えてくれると思う。」と、まことにしっかりした返事。大人達の多くの悩みをよそに、子ども達は至ってのんびりしたものだ。

それにしても、子ども達にとってバス通学は、とても楽しいものらしい。特に初めの頃は、毎日遠足気分を味わっていたみたいだ。
バスから降りる小中学生たち。(東山停留所)
東山停留所前はバスの回転が出来る広場になっている。右側が停留所。左奥にはトイレが設置されていた。
あとがき
昔は至る処で軽便鉄道が走っていたという。路線バスに押されて徐々に消えていったが、今度は自家用車に押されて路線バスが消えて行きかねない状況にある。今も軽便鉄道を懐かしむ人々がいるように、路線バスもまた、そういう運命を背負っているのだろうか。ひくまの出版の「懐かしの軽便物語」の編集後記には、「軽便のみちは、今なお人間の道であり、その思い出を持ちつづけている人々の心も、その表情もまさしく人間的であった。軽便への郷愁は自然性への郷愁なのだ。」と書いてあった。

自然性への郷愁と共に、そこには必ず人々の生活がある。軽便鉄道も路線バスも生活を運ぶ大切な足であることに変わりはない。路線バスの替わりがマイカーだとしたら、車を運転できない人にとっての足はどうなるのか。一部の人にとっては不便この上ない。公共の性質をもっている交通機関の重要性を揉もう一度見直してみたくて今回の特集を組んでみました。