日坂をたずねて
78%KAKEGAWA Vol.55 1984年10月号掲載
開墾に汗した人々
「大井川、駿河と遠江の境なり。又、あの世この世のさきあを見るほどの大河なり。」(東海道名所記より)

大井川は徳川幕府の防衛のために、簡単に川越ができないように、船も橋も渡してはならない川と定められていた。旅人は、川越人足の肩車か蓮台(2本の棒に板を渡し人や荷物などをそのまま乗せたり、篭を乗せてたりして4人でかついだ。)、または、馬越えによって川を渡ったが、「人は足を打たれ、水におぼれて死する者多し」と言われた程の難所だった。

この川越人足の賃金は、水の深さによって差があり、法外な賃金を要求されることもあったようだ。しかし、雨が降り続いて水かさが増えれば川留めとなり、両岸にある島田宿や金谷宿は、旅人でごった返した。

明治に入ってからは、300年もの間日本を支配していた徳川家も、江戸城から静岡の駿府城に移された。駿府城への移転に伴って、旧幕臣たちも江戸を引き払ったが、その内の300名ほどが、牧之原台地の開墾に乗り出した。さらに、新政府が大井川の船渡しを許可したために、たちまち職を失った川越人足たちも、牧之原や小夜中山、御林にやってきて開墾に汗を流したという。それが今では日本一の牧之原茶園となっている。
小夜鹿地区の茶園
日本初の有料道路
現在98才(明治20年・1887年生まれ)になる杉本良氏の祖父の杉本権蔵氏もまた、仕事を失った75名の川越人足を引き受けて、御林(おはやし)に入植したひとりである。この御林は旧幕府の御用林のことで、金谷宿と日坂宿の中間に位置している。

今でこそ、国道一号線やそのバイパスも通り、何の不便さも感じないが、当時、金谷宿から小夜の中山へ向かう旧道は、箱根や鈴鹿とともに三大難所といわれた険しい山道であった。道もなかったという御林を開墾するのは、並大抵のことではなかっただろう。

また、杉本権蔵氏は日本で最初に有料道路を作った人の一人でもあります。杉本権蔵、伏見忠左衛門、伏見忠右衛門の三氏によって、国からの助成金7,000円と自己資金25,100円をかけて、小夜の中山を切り開き明治13年(1880年)5月に有料道路の中山新道が完成した。

その後件が道路を引き取るまでの26年間、工事費を回収するため通行料金を徴収した。当時はむろん車のない時代だったので、通行は歩行者、荷車、牛馬であった。しかし、明治22年(1889年)4月に鉄道が敷かれたために、通行料は年々減少した。経営が困難になったため、国に無償提供を申し出たが聞いてもらえず、時の山田静岡県知事が千円を寄付して引き取ったという。これが後の国道一号線の基礎となり、当時の測量技術は高く評価されたとのことです。

この中山新道は、金谷町の菊川(菊川町の菊川ではありません)という所から、日坂の味の関食堂を下り、元友信木材の西側、国道一号線と旧東海道の分かれ目あたりまでの約6.7キロメートルでした。

道銭場(今で言う料金所)は、初めの頃は二カ所あったそうですが、石原久保長者橋付近にあった道銭場は間もなく廃止になり、最後まで残った金谷の道銭場は、現在金谷町の文化財に指定され、今もその面影を残しています。そして、道銭場からは、昔のままの道がわずかながらも続いている。細くて暗い道である。昔の旅人達はどんな思いでこの道を通ったのだろう。

この有料道路は、最終的にはかなりの赤字を背負うことになったようだが、その間までは、中山新道のおかげで、大勢の旅人や荷運びなど、また近くの住民が、険しい峠越えをしないで済むようになったのである。

この道銭場は、掛川から来て小夜の中山トンネルを抜けてすぐの所にある。子育て飴でおなじみの小泉屋と仲田屋を超えたところに信号があり、バイパスと国道一号線の分かれ道を、国道一号線方向の左に曲がり、さらに100m程行った所の細い道を右にまがるとすぐの所である。



余談になりますが、杉本良氏からお聞きしたいくつかの話の中から、面白い話を書きます。歴史には残っていない実話です。
杉本良氏と奥様
金谷町菊川の仲田家の前が道銭場(料金所)だった。
中山新道の金谷側の入口
日本初の有料道路中山新道だが今は整備はされていない。
威張っていただけの旧幕臣   ●杉本良氏のお話しより
いろいろな資料を紐解くと、牧之原台地は旧幕臣たちが汗を流して開墾したおかげで、今は日本一の茶園にまで発達したと語り継がれている。しかし、実際には江戸を引き払って開墾に来た幕臣の300名のうち、残ったのは30名くらい。最終的には10名位だったそうです。しかも、侍達は威張っているだけで、何も出来なかったのが実態だったようです。

もともと。農業などやったことのない人達だったので、お茶もそうですが農作物も近くの農家の人達がおこなったと言うことだったのです。

米の値段も、一升(※)の量がどれくらいなのかも解らず、ただ机に向かって威張っているだけ。そんなわけで、農家は年貢を誤魔化すのも分けなくできたようです。

農家の人々が年貢米を持っていくと、「そこへ置いていけ」と言う。すると。俵にいっぱい詰めて持って来た米を、半分だけあけて、残りの半分を持って帰ってしまう…。

こんな話もある。農家の人々が「米が高い、高い。」と言うと老中だったほどの人物たちも「最近、物の値段が高くなってござる」と一人が言うと、もう一人は、「ああ、さようか。一両で三升ですからなあ。」と言ったとか。
一両(※)でどれだけの米が買えるのかも知らなかった、という実際の笑い話。そんなわけで、結局は生活苦から旧幕臣は散り散りにこの地から去って行ったようです。
杉本良氏の自宅。正面は開墾当時そのままの茶部屋。
※米一升は約1.5〜1.6kg
※この時代の一両は今の感覚で4千円から1万円前後。当時の米の値段は一俵(60kg)で1円にも満たなかった。
旧幕臣の殴り込み      ●杉本良氏のお話しより
牧之原を開墾するにあたって、先頭に立っていた元幕臣の関口隆吉(せきぐちたかよし)氏は、二町歩四方のとてつもなく大きな屋敷を(菊川町内田)作り、その敷地内には牢屋まで作って住んでいたそうです。その関口氏も明治5年(1987年)頃には、山形県の県令(現在の県知事。以下県知事)となって牧之原を後にした。

明治維新後、士族の反政府運動が盛んに行われた。長州(山口県)でも起き、その当時の県知事ではその反乱を収めきれなかった。そこで千円札にも登場している伊藤博文氏がわざわざ関口氏に「長州の県知事になってくれ」と頼みに来て、関口氏が長州の県知事になり萩で起きた明治9年(1876年)の「萩の乱」を政府軍を指揮して見事収めたということです。

その後、長州(山口県)と薩摩(鹿児島県)で内戦とも言うべき西南戦争が起こった。この西南戦争は明治10年(1877年)に西郷隆盛らが中心となって、明治維新政府に対して反乱を起こしたもので、不平士族の最大で且つ最後の反乱であった。

この時、静岡には薩摩出身の人が県知事を務めていた。ところが明治14年(1881年)頃に内国勧業博覧会が開催され、その時に牧之原で茶園を作っていた旧幕臣たちが、「静岡県のお茶も出してくれ、自分達が揉んだお茶を出して欲しい。」と県知事(大迫貞清氏)に頼み込んだが、聞き入れてもらえなかった。

それに怒こった旧幕臣たちは、佐々木小次郎のごとく、刀をしょって県知事のところへ殴り込みに行ったそうだ。県知事は裏口から命からがら逃げ出して助かったそうである。この県知事は「静岡県というところはやっかいな所だ。徳川の家来が威張ってしょうがない。」と、言ったとか。

そこで、またまた関口氏の登場。県令から数えて3代目の県知事に就任。明治17年(1984年)9月のことでした。(1886年から県令から県知事と呼ぶようになった。県知事としては初代になる。)その後、1889年に退任するまで県内の治山治水の事業に力を注いだ。
旅人のために作られた村
旅人で賑わった宿場
東海道五十三次の宿場町として栄えた日坂は、その昔は西坂と呼ばれていた。中山峠の坂の西にあったからだと言われている。東海道(江戸と京の間)に五十三の駅制が敷かれ、日坂宿も宿駅として定められたが、当時の中山峠付近には一軒の家もなかったそうです。

旅をする者にとって、休むところもなく不便だということで、幕府が移住者を募って村づくりを始めた。移住者には土地、屋敷、当面の生活に必要な食糧を与え、永代年貢なし、無税という特典まで付けたということです。

そのため、移住者が集まり、農耕者だけでなく旅人のための茶店も開かれ、家を改造して宿泊させる家も出来たりして、次第に中山峠付近も活気づいてきた。
旧東海道の通りは、今も宿場の面影を残し、約130年も前に建てられた川坂屋という屋号の旅籠屋(はたごや)も残っている。当時、東海道を仕事で往復する、江戸の棟梁によって建てられたもので、当時としては材料や造作など全てに田舎離れした立派な建物だったようです。

川坂屋の裏庭にあった茶室は、国道一号線がど真ん中を突っ切ってしまったため、道路をはさんで反対側に移されてしまった。茶室の床柱は掛川城の殿様が小郡から拝領したという由緒あるもの。染井ツツジの大木らしいが、何百年という年月を経た現在も立派な風格を備えている。

日坂宿には、33軒の宿屋と、幕府や公用人などの専用宿泊所となった本陣や脇本陣、そして、宿屋以外にも泊まれるようにしていた郷泊という家もあった。大井川の川止めなどでいっぱいの時には、700〜800人の旅人で賑わったそうです。

当時は、宿場以外は宿泊所を設けてはいけないことになっていたので、宿泊客がいっぱいで泊まれなかった人は、急いで次の宿場まで行かなければならなかった。
文人や絵師も訪れた小夜の中山
小夜の中山は非常に険しいやまであったが、その分眺めが良く、文人や絵師なども多数訪れ、歌に詠まれたり、物語の劇化にもなり、文学的に残されたものが多数有る。

しかし、夜になると人通りはパッタリ途絶えてしまう。うっそうたる森林の中にはたとえ道があっても恐くて入っていけない程だったという。しかも、山賊やら、ごまのはい(旅人を装って人をだまして金品をかすめとる盗人)といわれるような悪人が、出たり入ったりして旅人を苦しめた。そんなわけで、日坂宿には、陽が沈む前から大勢の旅人達がわらじを脱いだ。
中央の電柱が掛川市と金谷町の境になる。
取り残された中山、さびれた日坂宿
東海道五十三次の宿場は、現在の鉄道の駅のような役割を果たしていたので、東海道線の駅も、宿場町を基本に作られた。そのため多くの場合、宿場町として栄えたところに鉄道の駅が作られている。

島田駅は島田宿、金谷駅は金谷宿、掛川駅は掛川宿というふうに。ところが袋井宿や磐田宿、日坂宿は、鉄道が出来る時に地元住民が反対したために、宿から外れた田圃の中に鉄道駅が作られた。

日坂の住民は、「あんな恐いものが通ったら、女子どもが危ない。」と反対した。ところが、東海道本線の鉄道工事が始まると同時に、大勢の住民は家を引き払って、菊川町の堀之内(菊川駅がある)や掛川方面に、生活の道を求めて移住していったのです。

東海道線開通を境に、旅人は途絶え、どんどん取り残された中山と、さびれていった日坂宿の様子を謳った皮肉な歌も流行った。

「世も末で 夜泣きの石は泣きもせず 峠の茶屋は まるでひる泣き」
山賊やら盗賊が旅人を苦しめた旧東海道。
窮すれば通ず…
孕石から生まれた子どもを育てたと言われる久延寺。
それまでの日坂住民は、駕籠かき、馬子、宿屋、売り店と、どれをとっても旅人相手の仕事に従事していた。耕地がないので農業も出来ない。困り果てた住民は、葛布とお茶に活路を見出した。

山に行けば葛はたくさんある。それに、葛布業者も華々しく成長している時期でもあったからだ。そして葛布業者もいつしか10軒以上も出来、その中で葛から糸を紡ぐ人、糸から機を織る人が次々に増え、日坂を通ると、どこの家からも機を織る音が聞こえてくると言われるまでになった。

お茶でも、今は全国茶品評会で、数々の賞を受けるまでになった。「窮すれば通ず」で、たとえ生活に行き詰まっても、様々な努力で何らかの活路を見出していくものである。
旅人が休んだ涼み松。眺めは抜群!
命なりけり…
小夜の中山には、さまざまな伝説が残っている。特に夜泣石の伝説は、今更説明するまでもない位、掛川では有名な話しである。この伝説からも、日坂は昔、盗賊が出て恐ろしい峠であったことが覗われる。

しかし、東海道の三大難所と言われたというが、箱根などに比べたら、まだまだ楽な方であったに違いない。東海道はできるだけ平坦な道を選んで作られていたが、どうしても山を越えなければならない場所も何カ所かあった。外灯のないうっそうとした山道は、どこでも気持ちの良いものではない。

小夜の中山へ上る道は、今はハイキングコースともなっている。道は整備されているし、木は切り払われて明るくなっているので、険しい峠という想像はつきにくい。

途中に、松尾芭蕉も眺めの素晴らしさに溜息をついて一句詠んだと言う場所には「涼み松」という大きな松の木がある。この松の木は、暑い日には旅人が照りつける太陽をさけて涼んだ場所でもある。

そのすぐそばに、孕石(はらみいし)と、石から生まれた子どもを観音様がとりあげたという小さな池もある。久延寺の方に進むと、今も宿場時代の面影を残す、子育て飴を売っている「扇屋」がある。その先には、石から生まれた子どもを育てたという久延寺が建っている。その久延寺には宝物ととして大事に保存されている茶釜もある。村ではこれを「分福茶釜」と呼んでいるそうだ。

わらじに脚絆姿の旅人を思い浮かべながら歩いてみるのも楽しいもの。最後に西行法師が詠んだ歌を…

「年たけて またこゆべしと思いきや 命なりけり 小夜の中山」
250年以上も前に建てられたという扇屋の店先。
夜泣き石の伝説で有名な孕石。