生掛川自立劇団「新生」を振り返って
78%KAKEGAWA Vol.41 1983年8月号掲載
今月号は、昭和21年から23年まで、自立劇団「新生」という素人の劇団を作って文化活動を行った当時の劇団員の人達の話を聞いてみました。
素人劇団ながらも県のコンクールで優秀賞をもらい、娯楽の少なかった当時の人々に笑いと涙を与えてくれた。戦争に負けて心身共に疲れ切っていた人々は、ある時は共鳴し、感動し、またある時は笑いで苦しい生活のことを忘れようとし、劇団「新生」が演じる劇に惜しみない拍手を送り続けた。
本番中に突然人がいなくなったり、舞台の上で本気でケンカになったり、途中で電気が消えたりと、今では考えられないようなハプニングや失敗談、苦労話は数え切れない。
現在、テレビや映画で活躍されている伊東四朗さんもここから生まれたと言ってもいい。その伊東四朗さんのお兄さんの伊藤祥蔵さんのお宅で、当時の写真を見せて頂いたのをきっかけに、今月号の特集となりました。
たった一人から発足
日本が戦争に負けてまもなく、掛川に掛川第一青年連盟と掛川第二青年連盟というふたつの青年連盟が出来た。第一青年連盟は兵藤さんという方が会長となり、スポーツ・音楽・絵画・演劇とさまざまな班が作られていった。自立劇団{新生」はこの第一青年連盟に所属し、演劇班として活動していました。
最初、演劇班の部員は伊藤さんただ一人。当時を振り返って、文化部長をしていた大浦さんは
「青年連盟の文化部長になって、いろんな部を作ったわけです。僕は絵画部だったんですがね。その頃は主に風刺漫画を描いていたんだけど、絵画部のメンバーの一人から『十王町に伊藤という演劇の上手い人がいるで、演劇班を作ったらどうか』という話があって、初めて彼と会ったわけです。そうしたら直ぐに話に乗ってくれて演劇班を作ったんだけど、一人しかいないもんだから、それじゃあみんなして手伝おうということになって、絵画部がほとんど演劇班に入っちゃったんです。」
それが昭和21年のこと。
伊藤さんはもともと役者になりたくて戦時中も軍隊の慰問などでさんざん経験を積んでいた程だから、喜んで応じたそうである。
こうして、劇団「新生」の前身である掛川第一青年連盟演劇班が誕生したわけである。しかし、青年連盟も活動を開始したのはいいが、結局はまとまらず、次々と解散していき、最後に残ったのは演劇班だけであった。そして、青年連盟が解散した後、名前を劇団「新生」と改め本格的な活動が始まった。


薪をもらったお礼に丹下左膳を上演

当時の掛川町民(新町から大池の間が掛川町だった)にとっては、薪も非常に貴重品で「掛川公園の木を切って薪にするか」という話が出た位切迫した事態になっていた。そこで青年連盟の人達が請け負って、東山に泊まり込みで薪を集めに行ったのである。

ちょうどその頃演劇班が出来、薪をもらったお礼に演劇を上演することになった。何も返す物がなかったからである。熊切さんは「僕は芝居の記憶はなんにもないんだけど、そこで子ども達が野球をやっててねえ。まだ20才だったもんで、高村さんとやらしてくれってやったわけ。その時のボールは今のゴムボールと違って、中に石ころを詰めた布のボールだった。それを僕らが打っちゃって竹藪の中に入っちゃってなくなっちゃったわけ。子どもらは一生懸命竹藪に入って探しているんだけど、こっちは芝居が始まるって言うんで、そっちへ行っちゃった。その中の子どもが今、同じ職場に入ってきて『おらん、大事にしていたボールを芝居やりにきた衆がなくしちゃった』って言うもんで、『そりゃあ、俺だ』って大笑いしたことがある。その頃は金が無い、物が無い時代で、大事にしてた物をなくしちゃって、校長に叱られたって言ってました。」と笑う。同じ職場に入ってくるなんて、縁は異な物ですねえ。

さて、二回目に東山に行った時は、東山のお祭りの時で「丹下左膳」を上演して色を添えた。その時に、上演間近になっても、かつらや衣裳が届かなくて「丹下左膳を現代劇にして洋服でやろう」「丹下左膳を洋服でやったら見られたもんじゃない」と、もめにもめたが、間際になってようたく到着して一件落着。しかし、今度は本番中に電気が消えて、提灯を並べて上演したりとハプニング続きだったようである。
昔を懐かしむ「新生」のメンバー。
左から熊切章一さん、大浦健一さん、川出茂市さん、伊藤祥蔵さん、杉本吉司さん。
「丹下左膳」の一幕。洋服で演じていたらどうなっていたのでしょうか?
券が売れなくて{写真代払えるだろうか」悲愴感が漂っています。
初公演は掛川座で
短刀がない、それならば「ご飯しゃもじでエイ!」

さて、丹下左膳が出たついでに、これにまつわる裏話を…。劇団{新生」に生まれ変わって、初めて演じたのが掛川座での「丹下左膳・百万両の壺」。日本は戦争に負けたので、当時芝居等やる時は必ず進駐軍の許可を必要とした。「封建的なものはいけません」「チャンバラをやってはいけません」で、脚本を書くにもひと苦労。だから、新生で演じる丹下左膳の脚本では、一切刃を抜いていないことになっている。抜くことがあっても刃を抜いて、構えて、笑って幕となる。でも、許可をもらっちゃえばこっちのもの。当時は、映画でもチャンバラができなかったから、やると受ける。だから乗ってくるとついついやってしまう。

新生が演じた丹下左膳は、小説と出て来る人物は同じだけどあら筋は全く違うコメディタッチで描かれている。
この頃は掛川座も観客席はまだ畳敷きであった。公演当日は、芝居が始まる前までメンバー全員がイシバシヤの角の所で切符(入場券)を売ったが、なかなか売れない。昼の部はパラパラとお客がいる程度で、メンバーは意気消沈。ところが、夕飯を食べ終わって入口を見ると、掛川座から現在の掛信本店の所までずらりと並んでいる。昼間見た客が「おもしろいぞ!」と声を掛けたらしい。一階、二階とも超満員。立ち見まで出て、舞台の上から見ると、人の波が揺れていたと言う。それからのメンバーは大張切り。上の写真は昼の部が終わって写真屋に撮って貰った記念写真です。
「みんな、なんにも笑っちゃあいないの。悲愴な顔をしている。券が売れないもんだから、まるで財布落としたような顔をしているでしょ。写真代が払えるかどうかの瀬戸際だもの、アハハ…。」と伊藤さん。

さて、丹下左膳の中に柳生の侍がパアッと二人出てきて「その壺をよこせ」と言う場面がある。そこで、屑屋の鼓の與吉(つつみのよきち)が合口(短刀)をパッと出す予定であった。ところが、與吉を演じている人が合口を持って出なかったので、さあ大変。伊藤さんは丹下左膳の役だったので、舞台の袖から片目片腕姿でそれを見ていた。そこへ與吉役の人が飛び込んできて、伊藤さんだけに聞こえるように「合口、合口」と言う。伊藤さんは片目で片腕も縛り付けて居るから方向感覚がおかしく、そこいら中にぶつかったり転んだりしながらようやく楽屋にたどり着いて合口を持ってきたところには時すでに遅し。彼は「きさまなんかこれでいい!」と、ご飯しゃもじでサーッとやったそうである。柳生の一刀流の使い手に向かって、しゃもじで斬ろうというのだから傑作である。

普段裏方をしている人が舞台に出るとなると、せりふを覚えるのに一苦労。田島さんという方は丹下左膳の中で易者になって出演した。易の本に見立てて台本を前に置いておいた。「ハブダラカ、ハブダラカ、ハゲダラケ、ハゲダラケ、ステテンテン。はい解りました。貴女のお探しの御仁は、片眼片腕の…」と、台本を読んでいく。ところが、当人は良い気分で「只今より占って…」と、台本をペラペラとめくってしまったため次のせりふがどこから書いてあるのか解らなくなってしまった。そうすると占なわれている方が「え〜と、貴女のお探しの御仁は…ここよ」なんて教えてくれる。観客の解らないところではいろんなハプニングが起きていたのである。
喜劇「丹下左膳」は、当時の人々に笑いを与えた。
ハプニングはアドリブで誤魔化す
舞台の上から突如として狸が消えた
まだ、新生になる前の演劇班だった頃のことである。現在の掛川西高校で「化け方を知らない狸」を上演したことがある。
当時の学校には舞台が無いため、教壇を繋ぎ合わせて舞台を作った。その時大浦さんが猿回しの役をやって、猿を一匹乗せて舞台に出てきた。(狸が猿回しに化けたという設定)「江戸というところは良いところだなあ」と言ったところで、突如として乗っていた教壇が崩れ、ストーンと下に落ちてしまった。タイミングが抜群に良かったのか、観客は「あれっ、狸が消えちゃった!」と大いに受けたそうである。
やっとのことで這い上がってきた大浦さんは「江戸という所は恐いところだ」と名ゼリフ。(這い上がってくるときに一生懸命考えたんでしょうねぇ。)

ピストルがならない!
「醜い天使」の時には、杉本さんは裏方として大いに活躍するはずだった。この事件さえ無ければ…
「伊藤君が悪い役でね。悪い奴、アハハ…。その伊藤君が田林君をピストルで撃つ時に、僕がローソクを立てた下でかんしゃく玉を叩いていたわけ。初めはうまくいってたのね。ところが、伊藤君がピストルを構えたので叩こうと思ったら横を叩いちゃってねぇ。その拍子にローソクが倒れちゃって…。暗いもんだからいくら叩いてもかんしゃく玉に当たらなくて困ってねぇ。そうしたら、伊藤君が落ち着いているからねぇ。とっさに『お前なんかピストルで撃つのはもったいない』って、田林君の持っている短刀を奪って殺したんだけど、見ているお客さんはそういう筋だと思って観ていましたよ。僕の方はおかげで、後々までみんなに冷やかされましたよ。」

伊藤さんにその時の感想を聞いてみると、かなり冷や汗ものだったようである。「こうやってピストルを構えているんだけど、鳴らないんだよ、ずっと…。カッチン、カッチンっていう音が遙か彼方の方から聞こえてくるだけで…。こりゃあまずいなあって思って、すぐ誤魔化したんだけど、あの頃みんな誤魔化すのがうまかったんだよね。悠々と誤魔化していたもんね。」と、このように「新生」のメンバーはプロ以上の根性と演技力を持っていたようです。静岡県のアマチュア劇団コンクールに出て、優秀賞をもらったのもうなずける。
最後に飾った栄光
アマチュア劇団コンクール
昭和23年12月12日に行われたアマチュア劇団コンクールに出たときは「裸の点描・玄界灘を渡る」を披露した。舞台装置はごく簡単な物であった。物の無い時代でもあり、運搬する自家用車も無いので、必要な物を担いで電車で静岡まで行った。絵の具は青一色しか無く、舞台背景の絵は静岡に着いてから描いた。元々絵画部のメンバーだからその辺はお手の物。

朝鮮半島から引き揚げてくる引き揚げ船の甲板の上の物語だったから、舞台は始めから終わりまで甲板の上。状況が朝になったり、昼になったり、夜になったり変化するだけ。だから、杉本さんが担いでいったタイヤ一本が、大いに雰囲気を盛り上げてくれた。

その時、熊切さんと芸者役伊藤さんの妹さんが都合で出られなかったため、やむを得ず一番実のある場面をカットしてしまった。だから完璧な劇にはならなかったが、それでも他のグループよりずば抜けて良かったという。

観客の中に混って観ていた杉本さんは、「観ているお客さんが結構泣いているんですね。裸の点描には身につまされることがいっぱいあるんですよ。」と言う。そして、観ているお客さんの一人が楽屋に来て怒鳴って言った。「俺は今まで泣いたことのない人間だ。その俺を泣かせやがった。あいつを呼んで来い!」そして伊藤さんが呼び出された。

こうして人々に深い感銘を残したまま劇団「新生」はこの舞台を最後に幕を閉じた。世の中がだんだん変わってきたことと、メンバーがそれぞれ生きていくための手段を選ぶ時期が来たからだと言う。
「なんだってこんなことになっちまったんだよ」
「負けたからだよ、みな戦争のせいだよ」
当時の時代背景を演じた「裸の点描」
男と子どもを連れた女の会話
貧しくとも心に余裕が…
自宅の障子まで小道具に化けた
その頃は一般大衆には着る物も無く食べるものも無かった。だけど、精神的には今よりも余裕があったと言う。時代の移り変わりと共に人々の生活はぜいたくになり、その生活を守るために、返って生活に追われていく。

自営業の手伝いをしていたメンバーは「今から芝居の練習がある」「準備をするから」と言っては途中で抜け出し、ほとんど仕事らしい仕事をしていなかったと言う。大浦さんなどは、自分の家の店先に舞台装置を作ってしまったために、一ヶ月間は開店休業のような状態であったと言う。それでも何とか生活できたということは、苦しいながらものんびりしていたということだろうか。あくせく働いてお金を残すことだけが人生ではないが、貧しくとも心に余裕が持てるような生活を送れたら最高である。

さて、劇団「新生」は素人劇団だから掛川座の公演以外は全て無料奉仕。公演先で出してくれる野菜などのお土産だけが楽しみであったと言う。

食べるものと言えば、当時、杉本さんのお宅が小運搬業(馬で荷物を運ぶ)を営んでいたので、馬の飼料に使っている豆が唯一のおやつとなった。その豆を狙って大勢のメンバーが六畳一間の部屋に集まってくる。大勢集まると座る場所も無いくらいであったが、そこで演劇の練習をし、小道具も作った。そういうことに夢中になることで空腹が癒やされたとも言う。

ぜいたくな楽しみ?
掛川座で公演したときの売上げと皆で毎月積み立てているわずかばかりのお金で、絵の具を買い、紙を買い、道具を揃えた。道具係の大浦さんの自宅の障子までが小道具に化けた。かぼちゃが必要になれば荒縄で編んでその上に紙を貼って色を付けていく。芝居だけでなく、そういうことにかけても抜群のセンスを持ったメンバーが大勢いる。特に大浦さんが作ったミイラは傑作中の傑作。自宅の二階に上げておいたら子ども達が恐くて行けなかったという位である。そして、スリラー劇「谷の影」を上演中に、何も恐くない場面で観客が「キャーッ!」という悲鳴を上げた。どうしたのかなぁと思って見ると、舞台の袖に置いてあったミイラがひとりでにスーッと倒れた。それほど旨く出来ていたと言う。

何も無いところから自分達で工夫しながらいろいろな道具を作っていく。考えてみればこんな贅沢な楽しみは無い。テレビを買い、新車を買い…そのために生活に追われている現代社会の方がおかしいのかも知れない。当時は車を待っている人はごく一部だったから、遠くてもリヤカーに小道具を積み込んで、それを引いていく。帰りは月の光に照らされながら、みんなで歌を唄いながら帰ってきたと言う。今、歌を唄いながら歩くといったらせいぜい一杯機嫌で次の飲み屋に行く時ぐらいだろう。百メートル先に行くにも車を使う人も多い。どちらが自然かは、言うまでもない。

またやろうと言ったら、もう一度やってみたい
大勢いるメンバーの中で無理矢理引っ張り出された人も多い。人手が足りなくなると、友人や兄弟と、手近な所から強引に団員にしてしまう。杉本さんのお宅では兄妹はもちろん母親まで手伝わされたと言う。今日、都合で遅れてきた川出さんもその一人。初めて出演したのが東山口の薪でお礼に行った時。釣り人に釣られたカッパの役で、皿が乾いて「水、水、水…。」と言う役だったそうで、今でもカッパさんと呼ばれています。次に出演したのが丹下左膳で、柳生の一刀流の使い手仲間。前髪垂らした美少年の役だったが、すでに相手が倒れて死んでいるのにも関わらず、上からぎゅうぎゅう刺したから、下で「痛い、痛い」と言っていた。とんだ三枚目を演じてしまった。今ではすべて良き思い出だという。

久しぶりに顔を合わせた昔の仲間は、いつまでも話が尽きない。顔が生き生きしている。「お互いに年は取ったけど『またやろう』と言ったらぜひやってみたい。」と言う。苦しかった時代のことも、過ぎ去ってみれば懐かしく、よき時代だったと言うことになる。
スリラー劇「谷の影」右手に見えるのがミイラ。舞台にある小道具はすべて手造りです。
掛川座で上演された研究会発表作品「命ある限り」の一幕。
「丹下左膳」の脚本より
伊藤祥蔵さんの弟、伊東四朗さん
初舞台は浮浪児の役
テレビや映画などで活躍中の西町出身の伊東四朗さん(本名は伊藤輝男さん)も、げきだん「新生」とは深い関わりを持っている。いつもお兄さんの祥蔵さんに付いて、芝居を観たり、舞台の袖でライトをあてたりしていた。

丹下左膳の時は、チョビ安役で出る予定だったが「出るのはイヤだ」と拒否。当時はかなり照れ屋だったようで、舞台に出るよりも観ていたり裏方として手伝っている方が好きだったようである。しかし、「青空画伯」の時にはお兄さんから無理矢理勧められて、浮浪児役で出演した。

舞台に出ても直ぐお客さんにお尻を向けちゃうので、お兄さんから「おまえ、前を向いてしゃべれ」って、よく注意されていたそうだ。ゼリフを覚えるのは人一倍早く、他の人のセリフまで全部覚えてしまう。だから、相手役の人が間違えようものなら「それ、違うよ」って言って、返事をしなかった。だからお祭りの時には皆から鼻の頭を真っ赤に染められ、泣いていたこともあったようだ。

それがどこでどう間違えたか、いつの間にか本物の役者になってしまった。父親の反対を押し切ってまでも役者の道にのめり込んでいったのは、お兄さんの影響が多分にあったようだ。

てんぷくトリオの誕生
東京の市ヶ谷高校を卒業後、普通のサラリーマンを目指して就職試験を5社も受けた。ところが面接で5社全て落っこちてしまった。不運だったのかそれともハッピーだったのか…。

お金がなくても暇を持て余していた伊東さんは、毎日毎日新宿のフランス座というストリップ劇場の一番前の席でかぶりつき。ストリップよりも間に行う石井均さんらが行うコントに目を輝かせて見ていた。そんな時、楽屋からお呼びが掛かった。そうこうしているうちに楽屋に自由に出入りが出来るようになり、人が足りないときにはコントの中で通行人役として出るようになった。

1958年(昭和33年)にコメディアンの石井均さんが一座を持つ事になり、団員を集めていたのをきっかけに一座に弟子入りした。始めは父親の援助を受けていた伊東さんも二十歳の時に父親が亡くなり、初めて仕事らしい仕事をやることとなったのである。その仕事というのは早稲田大学や東京大学で生協職員としてパンや牛乳を売ることだった。「ジャンパーでは学園の雰囲気がこわれる」と、学生服を着て売店に立ったら、これがバッチリ決まって「本校の感心なアルバイト学生」と思い込まれてしまったそうです。

こんなエピソードもある。当時、石井一座にも学生服で出入りしていたので、今は亡き三波伸介(1982年没)さんから「キミ、苦学をしながら演劇研究とはエライね。どこの大学に通っているの?」と聞かれた。「早稲田です」「へえ、感心だね」「東大にも通っています」「えっ!早稲田の他に東大にも。ますますエライッ」と言ったとか。

さて、石井一座が四年で解散した後は、三波伸介さんと戸塚睦夫さんと三人で「ぐうたらトリオ」を組んだ。さっぱり売れなくて毎日毎日キャバレー巡り。その後、名前を「てんぷくトリオ」と改め、三波伸介さんの「びっくりしたな、もう」という言葉が流行語となって一躍有名になったのである。そして、1973年(昭和48年)に戸塚睦夫さんが亡くなったためトリオは解散、現在に至っています。

昔の「新生」のメンバーは一様に「四朗さんを見ていると、そのまま伊藤君(お兄さん)を見ているようだ。特にてんぷくトリオの時代のアドリブなどは、その影響が特に強かった。」と言う。お兄さんあっての伊東四朗さんも、プロになるに従って、独自の演技を生み出し、今では押しも押されもしない役者である。
「父帰る」(菊池寛の戯曲)掛川座にて上演
「ドモ又の死」(有島武郎の戯曲)掛川座にて上演
青春よ、もう一度甦れ!
伊東四朗さんという役者を生み出したと言っても過言ではない劇団「新生」。本日集まっていただいた、熊切さん、大浦さん、川出さん、伊藤さん、杉本さんにとっては、生涯忘れることのない良き思い出として深く心の中に残り続けていくことでしょう。「こうして、昔を懐かしむことができるのも『新生』のおかげ。」話すほどに熱が入ってくるのでした。最後には「もう一度やってみたい。」という話しになり、全員が賛成。

最近は、文化活動だけを見てもますます周りの人達の反応が鈍くなってきたみたいに感じる。10年位前だったら、アマチュアのコンサートでさえ300人から400人の人が集まった。ところが最近では100人集めるのに一苦労する。これでは、なにかをやるのにやる気がなくなるのも無理はない。現代社会の発達は人々の目的までも知らないうちに奪っていってしまうようだ。

今も昔も、若者の気持ちや考えていることは同じだと思う。常に「何かをやりたい」と思いつつも、いつの間にか年を取って出来なくなってしまう。実行に移していくいくのは、ほんの一部の人達だけである。あとで後悔しないように、しっかりとした目標を見つけて、悔いの無い一生を送りたいものである。