法被我が町
78%KAKEGAWA Vol.43 1983年10月号掲載
また今年も秋祭りの季節がやってきた。本来秋祭りは、収穫の感謝と方策を祈願する祭であり、御輿は神の威力を示して悪鬼を追い払い、翌年の豊作を祈願するためのものであった。
しかし、近年の祭りの意味は少し違ってきたような気がする。地域住民のコミュニケーションの場となっていたり、レジャー的な要素が大いに含まれている。それだけ物質面に於いては豊かになってきたということだろうか。
ともあれ、一年に一度の大祭典である。声がかれるまで大声を張り上げ、くたくたになるまで屋台を曳き廻し、大いに楽しんでもらいたいものである。ところで、毎年書いていることだけど、中学生や高校生の祭参加をぜひ許可してもらいたいものです。教師や父兄が楽しんでいて、
なぜ中高生が許されないのか不思議でもあり不当でもあります。地区によっては許可している所もあります。地区の人達全員で考えるべき事だと思うのですが…。
本来の意は半纏(はんてん)
もともと法被は武家の小者が火事場で着用していたものだそうです。丈はひざくらいで、えりは羽織と同じ様に折り返し、背中に大きく主屋の紋を入れ、すそに文様を入れていました。それが江戸時代末期頃から半纏におされ、需要が少なくなり、職人の間で仕事着として残ったそうです。辞書で調べると、現在「法被」と呼ばれているのは「半纏」にあたるようです。でも半纏では今の祭ではさまにならないですね。
祭りと法被
祭りの心意気を一番伝えてくれるのが法被である。粋に着こなしている人を見ると、胸の中がスカッとする。衣裳というのは、着る楽しみと見る楽しみを与えてくれるようだ。
最近では、ほとんどの町内が法被を揃えている。それによって「他の町内の者は入れないゾ」と、無言の拒否をされているような気もしないではないが、反面、町内の結束の固さも印象づけられる。

今年から大老(65才以上)の仲間入りをするというある人は「お祭りの時は法被を着てにゃあだめ。法被さえ着ていれば、祭の途中で用事があって出かけたときに混雑していても『ヘイッ、ごめんなさい』って言えば楽々通してもらえる。お祭りの時は法被は威力が付くから着てにゃあだめ。だから、大老になっても着るだよ。」と言っていた。また、法被を着ていないと祭りの気分が出ないとも。いくつになっても祭りはいいもののようだ。

昔は下着が無くて、法被は人絹だったために、するすると肌から滑って踊りをやる度に落ちて笑われたりもした。今では羽二重(薄くて滑らかでつやのある絹布)で揃えている所もある。

法被ひとつとってもいろいろな歴史が刻まれている。全町内を紹介できなくて残念ですが、今月号では各町内の歴史と法被の関係を調べてみました。
祭り年番
今年の祭りの年番は、紺屋町、中央一丁目、栄町、紺屋町の4町、12名の方々です。昨年は台風のために、やるやらないで、年番はかなり頭を抱えたようである。結果的には参加出来なかった町内もあったりして、年番の人達の心労は大変なものでした。脅迫電話もあったりして、祭り当日もマスコミ関係を一切拒否したような状態でしたので「今年は無事に全町内が参加して。楽しい祭りにしていきたい。」というのが今年の年番の人達の正直な気持ちです。

年番長の本田さんからひとこと

「例年、掛川の祭りに対しては伝統ということを言っていますが、今年はそれをもう少し強く打ち出したいという考えを持っています。掛川の祭りというのは、各町独立した組織を持っていますから、強制的な言い方は出来ないので、お互いの町内でいい祭りを行うための伝統を重んじてやって戴きたいと思っています。」
海が夏にさよならを告げる頃
瓦町

昔の掛川は城郭を囲むように、商業集団の住宅で町が形成されていた。瓦町も瓦職人が住んでいた町ということで、瓦町という地名がつけられた。昭和27〜28年頃に瓦を図案化した法被を揃えたが、それ以前はかんからまちに力を入れていたので、特別揃いの法被というものはなかったようだ。学生は学生服のままとか、一般の人達もまちまちの服装で祭りに参加していたようだ。

人口:172名 世帯数47世帯
中町

レンガを組んで、中という文字を図案化した法被を揃えているのは中町である。明治の末か大正時代に江戸(東京)の方に見てきたものを参考にして作られたようである。戦前まで中老は羽織袴という出で立ちであったが、「年寄りくさい」という意見が出て、現在は同じ柄を茶系統に染めた法被を着ている。なお、小さい子どもは、鎧に陣羽織を着て、桃太郎さんの格好をしている。

人口:342名 世帯数91世帯
二瀬川

48年前に町内の人達が図案を出し合って決めたという二瀬川の法被は、祭りという文字に蝶々が三羽。その蝶々の中に二瀬川の瀬という文字が入っている。蝶々の意味するものは町の「ちょう」と蝶をかけたもので、特別深い意味は無い。中山信平氏が考案したものです。さて、65才以上の人達は親和会に属し、こちらの法被は黒地の羽二重で作った立派なもの。長い間月掛けをしてつくったものだそうです。

人口:725名 世帯数194世帯
研屋町

大半が刃研ぎ師が住んでいたというのは研屋町。現在は「とんやまち」と呼んでいるが本来は「とぎやまち」が正しい。法被は屋台の車の図が配置よく並べられている。法被とは関係ないが、屋台が古く、特に彫物が傑作と言われているが、当時研屋町には予算が無くて、安く作るかわりに後世に名が残るようにという条件付きで、彫物の横に作者の高村(城西の彫師)という名前が入っている。

人口:320名 世帯数112世帯
橘町

研屋町とよく似た法被を揃えているのは橘町。町の名前は、信仰心厚い町民の総意を得て、日蓮宗の紋所である「たちばな」からつけられた。法被は葛川の角源のデザインで、屋台の車が描かれている。屋台の芯につく一番大事な部分ということと、町民の和(輪)を考えて作られた。昭和27年に300枚揃えた。それ以前は、地区だけの祭典だったため、特別に決まった法被柄というのはなかった。

人口:689名 世帯数199世帯
紺屋町

紺屋(こうや)というのは染め物という意味。染物屋が集まって出来た紺屋町には、470年程前から伝わっている「木獅子の舞い」があって、その関係で法被には大小の獅子の巻き毛が描かれている。背紋の文字はひらがなの「こん」という文字である。紺屋町には屋台の天幕にも唐獅子と牡丹の刺繍が施してあり、獅子の爪は純銀の高価なもの。作者は東京神田の竹内源次郎という人です。

人口:227名 世帯数58世帯
城北町

城北町はもともと何も無いところから10年ほど前に出来た新興住宅地である。全世帯が他から移って来た人達なので住民のコミュニケーションのためにも祭りは大切な役割を果たしてる。掛川祭りに参加するようになったのは5年位前からで、それと同時に法被を揃えた。城下町掛川のしかも城北町という地名にあやかり、掛川城をそのまま描いてある。金の鯱(しゃちほこ)は城につきものでおまけではない。

人口:1219名 世帯数343世帯
塩町

塩町は相良街道の口に有り、塩を扱っ買ったことから名付けられた。ここの法被は、短冊の中に黒地で文字が入っており、子ども、青年、中壮(中年・壮年)連で文字の書体や書いてある内容が異なっている。しかも中壮連の法被は羽二重で重みを加えている。この短冊に文字が入ってるものは、染めるのに手間が掛かり、染め屋泣かせの法被でもある。

人口:307名 世帯数73世帯
新町

昔、城下町の街道には城を守るために、敵兵が一直線に進めない様に迷路を作った。掛川城の迷路は新町から始まっており昭和初期の新道が出来るまではコの字型の道路だった。さて、昔々新町に狐が出て住民を困らせたと言う。吉綱千本桜の山車と、鼓と桜模様の法被とは大いに関係があるようだ。鼓は狐の皮で出来ており、吉綱が狐にだまされないようにと言うことで鼓を入れてある。

人口:579名 世帯数168世帯
喜町

コの字型の新町から出た所は掛川宿の東の入口で、木戸(大きな門)があったため、ここを木町と呼んでいたが、16年間の間に3回も大火があった。その後「木町」を「喜町」と変えた。この喜町の法被は昭和11年頃に、当時喜半商店の子どもが着ていた法被が青年衆の目にとまり、背に喜の文字を入れ、色を変えたのが始まり。明けがらすの絵は、喜町が掛川の東に位置していることを現している。

人口:211名 世帯数62世帯
西町

西町の法被は4〜5年前に現在の法被に変わった。以前は茶色のブロード(綿)の法被で、背中に祭という文字が入っていた。この祭の部分を奴さんのマークに変え、全体の色もグレーになった。下の格子模様は同じである。格子は2対4の割合で縦と横の線が交差している。2対4でニシ(西)という語呂合わせになる。そして、掛川ではいち早く青年衆が羽二重の法被にした。

人口:461名 世帯数125世帯
仁藤町

仁藤町では昔から4年に一度の大祭りの度ごとに同じ柄の法被を新しく染め直しているという。なぜ大獅子を出す度に法被を新調するのか。一節には、仁藤町は昔、非常に封建的な町だったために、仁藤に生まれ育ち自分の家を持っている人でないと大獅子を曳き廻せなかった。他者は入れないという強い意志が、大祭りの度に法被を染め直したのではないかと言われている。また、仁藤町は昔「二藤町」と書いた。

人口:433名 世帯数114世帯
栄町

今から20〜30年程前までは駅通りの周辺は門倉商店(藁製品を扱っていた)や日本通運の倉庫ばかりで、人通りの少ない淋しい場所であった。大正末期までは停車場通りと呼ばれていたが、昭和23年頃に将来この町が栄える様にと、住民が栄町と名付けた。27年の大祭りの時初めて屋台が出来、同時に法被も揃えた。それまでは屋台を出したくても、住民が少なく出すことが出来なかったようだ。

人口:132名 世帯数36世帯
城内

城内は読んで字の如し、掛川城の内に町が出来たので城内と呼ばれている。江戸時代には家老とか用心(主君のそばにいて出納を取り扱った人出、家老に次ぐ重職)の武家屋敷があった場所で、侍町の中心的な所だったようです。現在の公民館も昔の武器の倉庫を改造したものです。城内の法被は背紋は珍しく斜めに入っているが、どうやら特別な意味はないようです。

人口:316名 世帯数90世帯
大手町

掛川城の表玄関である大手門があったのでその附近を大手町と名付けられた。市内では一番小さな町でわずか35戸しかない。50戸でも屋台を曳くのは大変だと言われているのに、屋台の大きさは掛川一大きいが、それにもまして祭りに対する住民の心意気はそれを上回る大きさである。法被は将棋の駒の「王将」と「と金」ではなく「て金」で、合わせて「王て」=「大手」。

人口:121名 世帯数35世帯
城西

「先頭が見えてもなかなか山車が見えず」と言われるほど山車を曳くロープが長い城西は、昔は掛川城の外濠や田圃に囲まれた農村地帯であった。しかし、いつの間にか掛川で一番人口の多い町となった。掛川町は城西が発祥の地と言われ、お年寄りは城西のことを「お屋敷」と呼んでいる。昭和11年に初めて祭りに参加し、その時に現在の法被を揃えたようだ。

人口:1595名 世帯数437世帯
秋葉通り

秋葉通りは明治21年に大池村と合併したが、それ以前は新村と呼ばれていた。新村といっても歴史は古く350年ほど経っている。その後大正14年に掛川町と合併して、秋葉神社への参詣の通り道ということで秋葉通りという町が生まれた。当時、わずか30戸足らずの集落だったのが、戸数も増え、昭和52年より祭りに参加。法被には秋葉通りの「秋」の文字を背紋にし、全体に八手の葉を散らしてある。

人口:272名 世帯数77世帯
肴町

肴町は昔、魚を扱っていたことから肴町と名付けられた。小祭りの時には地名にちなんで鯛の山車飾りが使われるが、大祭りの時には山車が忠臣蔵に替わる。法被も小祭りにはグレー地に肴の背紋が入った法被を着て、大祭りには黒地に左二つ巴の紋が入った斬新なデザインの法被に替わる。他にも藍色に鯉の絵が入った法被、今年から新しく加わる法被など、それぞれが思い思いの法被を着ている。

人口:316名 世帯数81世帯
道神町

葛川に属していた道神町は21年前に独立して、祭典は旧掛川のつき合いとなった。その後5年間位祭りに参加していなかったが、子供会の要望があって16年前から参加。掛川祭りは掛川城築城後約400年以上の歴史をもつが、当時から祭りの主役は獅子であったことから、道神町では、人数も少なかったことともあり、屋台ではなく子獅子を作った。法被は一区民の発想によるもので、鈴と綱を図案化している。

人口:136名 世帯数40世帯
十九首

千年以上も前に、平将門が反乱をおこし家来共々19名が処刑され、この地に19の首を別々に埋葬したことから十九首という地名が付いた。十九首では毎年祭典の時に、神田祭りの踊りを必ず披露する。始めは特別な意味があったわけではないが、偶然にも平将門の霊が神田明神にも祀られていることがわかり、不思議な結びつきに住民は驚いたようだ。法被は昭和10年頃に作られたようである。

人口:938名 世帯数268世帯
掛川の祭りは、江戸300年m明治・大正・昭和を通じ、約400年もの長い歴史と伝統を誇っている。それが、掛川っ子の自慢の種にもなっているようだ。
戦前は大祭りの時に屋台が出て、小祭りの時には各町内から子獅子が出たそうであるが、小祭りにも屋台が出るようになってからは、子獅子もだんだん影をひそめ、最近では一部の町内でしか見られなくなった。
昔はこの子獅子によって女町と男町とにわけられた。塩町、連雀は女町、その他の町内は男町と呼ばれていた。これは獅子の母衣(ほろ)の色で区別されていた。紅白の母衣を付けていた所が女町、男町は青と白の母衣を付けていた。調べていくと400年という長い間にはいろいろな歴史が刻まれている。これからも歴史を刻みながら掛川祭りは続いていくことだろう。

(法被の写真は祭年番本部の許可により掲載されています。世帯数・人口は1983年7月1日現在の数値)