祭りと台風、雨のち曇り。
78%KAKEGAWA Vol.32 1982年11月号掲載
今年の掛川市の祭典は、3年に一度行われる大祭りにもかかわらず、9月12日の台風18号による災害で、市内は喧々囂々の状態であった。「絶対にやるべきだ!」と言う人、「こんな時にやるのはおかしい!」と言う人、「こんな時だからこそ景気づけにやってほしい」と言う人など、様々な意見が出て、街は祭りパニックのような状態であった。

仁藤の大獅子についても仁藤区で結論を出す前に新聞で中止の報道をされて、議論の末やめざるを得ない状況に追い込まれた。仁藤町の青年の中には泣いて悔しがる人も出たとか。仁藤の祭り参加全面中止が決まった後は、残念会(というより無念会)を開く程のショックを受けたようである。年番のお宅には脅迫電話や抗議の電話がひっきりなし。自然災害の責任まで背負わされていい迷惑である。(問い合わせくらいならともかく、脅迫電話や抗議の電話などもってのほかだと思う…。)

祭りをやった方がいのか、やらない方がいいのか、掛川生まれではない私には結論が出せないが、市内の若い人達の話を聞いていると、お祭りをやれない苦痛の方が大きいみたいである。
和田岡地区 10月2日・3日
小高神社は雨乞いの神様

和田岡地区(吉岡・高田・各和・つくしの)は、幸いにも台風による被害も少なく。問題なく例年通り10月の第一土曜・日曜に行われた。

住民たちは一時、我を忘れて祭り気分に浸っていた。しかし、あいにく初日の日は午後から雨が降り出し最悪の状態となった。祭りに雨は大敵である。和田岡地区は、毎年五明と祭りの日が同じだから、昨年を除いてほとんど雨にたたられていることになる。

五明の小高神社は雨乞いの神様である。そのためかどうか、毎年祭典の初日には必ずと言っていいほど、雨が降るか、どんよりと曇っていると言われている。昨年はどういうわけかこのジンクスが破られ、秋晴れの再興の祭り日和であったが、今年はまたもや雨が降った。

時折強く降る雨にもかかわらず、祭りは続行された。「雨なんかくそくらえっ!」とばかりに、子どもたちは法被の上に合羽を着込んでの参加。(さどかし蒸れて暑いだろうなぁ)しかし、屋台が濡れては大変!そこで屋台にも合羽?(ビニールを被せてある)を着せ込んでの祭りと相成った。(屋台が合羽着ているのを初めて見た。笑ったら怒られるかな?)子どもたちは「雨が降って頭にくる!」とぶつぶつ言いながらも、威勢の良い声を張り上げていた。


祭り囃子が七つもある吉岡


和田岡地区の祭りの歴史では、吉岡が一番古く、天保時代(150年ほど前)から続いているといわれている。一番新しいのが言うまでもなく最近出来たつくしの団地である。

吉岡には35才までの人達が中心となっている「厚友団」という組織が有り、祭りはこの厚友団の人達が中心となって運営され、次の世代へと受け継がれている。

ところが、一時引き継ぐ若い人達がいなくなって、祭りが中断したことがある。「なんとか盛り上げていかにゃあいかん!」ということで、中老の人達も仲間入りして再び復活した。10年位前のことである。しかし、一番エネルギーのある高校生は、ここでも参加出来ないことになっている。

吉岡の祭りの最大の特徴は、祭り囃子が七つあることである。常に祭に密着して演奏される楽曲で、「幕下」「越後獅子」「流し」「三つ流し」「ひちもんめ」「舞鶴」「菊の舞」の七つのお囃子が祭りの状況に応じて演奏される。
屋台も雨宿りです。
つくしの団地は手造り屋台で大はりきり!
祭りが進むにつれて雨も一段と強くなってきた。
ちょっと休憩。「お酒がいっぱいあるねぇ」
原谷地区 10月2日・3日
高校生も祭りに参加できる原谷地区

10月3日夕方5時頃、原谷の本郷通りを歩いていると、化粧をして法被を着た中学生や高校生の姿が目立った。ここでは堂々と祭りに参加できるようである。それは、地元の人達が各学校にお願いして、祭りの参加を許可してもらってあるからだ。

ある中学の役員をしているという方は「中学や高校を卒業していけば、その後社会人となって祭りに参加するようになるでしょう。だから、小さな時から祭りの輪の中に入っていくことも必要です。学生そのものも、進学の問題だとか必要以上の規制を受けたりと、いろんな問題を抱えているわけですから、そういう意味からもどこかで気分的に発散させてあげる場所も必要なんです。だから、我々は発散させる場所を作りましょう。ただし、やるべきことは一生懸命やってもらいましょうという観点から、参加をすすめています。

屋台を曳いている時の子どもたちの目の輝きを見て下さい。我々の所は本当に過疎地だけど、でもそれなりに盛り上がっていますよ。」と話してくれた。


高校生たちの感想は…


祭りに参加している高校生たちに、高校生の祭り参加禁止について聞いてみた。

A君「そういうことを言ゆもんで、余計に反発して悪いことをやるじゃん。」
B君「学校はうるさすぎる。」
C君「いかん、いかんちゅうもんで余計やるじゃん。やれっちゅうや、やるしかないじゃん。だもんでどっちにしろやるしかないじゃん。」(全員爆笑)
D君「地元の人たちは、やれっ、やれっ!って言う。小さい頃からずっと参加してきたのに今更やめられない!」

そして、祭典委員長も「結局ねぇ、周りでいろいろ規制するよりも、地元の屋台は昔からこうして引き継がれてきたんだとか、引き方を覚えたりしながらだんだん輪を大きくしていくことを覚えていってもらいたいですね。そのかわり、参加出来るのは地元の中学高校生に限っています。高校生と言ってもどこの家でも同じ祭りに親が出てきているわけですから…。」

高校生たちはまだ、ヨチヨチ歩きの時から祭りに馴染み参加してきたのである。家族や隣のおじさんおばさんが祭りに興じているのに、未だに高校生だけが疎外されるのかわからない。誰も居ない家の中で何をしろというのだろうか。まさか、あの祭りの騒々しい音の中で勉強をしていろというのでもあるまい。

さて、原谷地区も台風による被害はなく、街中のように中止しようという話は全く出なかった。むしろ、台風の被害がなかったことで、「神さまに感謝しなければならん」という意気込みで住民全員が大張切り。

「これもみんな神さまがお救いしてくれたんだと、こういう考え方をすれば、当然お祭りはやるべきである。」という考え方からである。


新聞配達をしたお金で作られた屋台


本郷西の現在の屋台は昭和9年に作られたものである。それ以前の屋台はいつ頃作られたものかは定かで無いという。昭和初期のことであるから屋台一台作るにも大変だったようである。現在使われて居る屋台は、当時の青年衆が新聞配達などをしながら貯めたお金を共同で出し合って作られた。祭りのためなら「エンヤコラ!」である。

祭りは「神さまがどうのこうの」以前に、地域住民の親交を深めるために、大いに役立っているようだ。
本郷の祭り夜の部の出発です。
俺っち高校生。祭りに積極的に大・参・加!
掛川大祭 10月9日〜11日
今年の掛川大祭は3日間とも時々小雨が降るという天候で、どうも今年は水に縁があるというか、雨に悩まされる年の様である。台風による水害のため、仁藤の大獅子をはじめ、喜町、道神町、旭町、二瀬川町の5町の参加が果たせず、なんとも淋しい大祭りではあったが、それでも街は大いに活気づいていた。

どういうわけか、あの笛と太鼓の音は人々の心を「無」の状態に引きずり込んでくれるのである。お囃子の笛と太鼓が鳴り出した途端に恥も外聞もなく、声がかれる程の掛け声を出し始めるのである。一年分の欲求不満を吐き出しているのかもしれない。

しかし、祭りの終わった後の静けさは、何とも気が抜けたような変な気持ちになる。夜の9時を過ぎると、道路を埋め尽くしていた人々は、一瞬の間にどこかへ消えてしまう。そして、祭りの後に残された物は道路の屋台の傷と散乱したゴミだけである。


あ〜した、雨にな〜れ


市内でも、相当被害の大きかった新町も祭りに参加。急遽、祭典の間際に決まったそうである。ただし、市内側隣町の喜町と仁藤が参加しなかったので、中心部には出て行かないで、町内を練り歩いただけに留まった。それでも若者たちは、十分満足したようである。

新町に住んでいるA君は祭り後に編集室にやってきて「疲れた、声が出やへん。だけどお祭りできてよかったやあ。街の方へこれなかったのがちょっとつまらなんだけど…。」とニコニコ顔で、それだけを報告に来て帰って行った。

葛川のある小学生は、10日の日に大祭りを見ての帰り道、悔しさの余り「あ〜した、雨にな〜れ!」と靴を飛ばしていたそうである。

子どもたちにとって、祭りは正月と同じだ。一年に何度かの楽しみの日である。台風の来る前までは、祭りの日を楽しみに笛や太鼓の練習をしていたのに…。突如としてその楽しみが奪われてしまったのだから、悔しがるのも無理はない。ましてや、他の町内ではドンドコ、ドンドコやっているのだから、悔しさが二重に押し寄せてくるのである。自然も罪づくりだ。

でも、今年の大祭りは終わった。来年は、今年の分までう〜んと楽しめばいい。


ごくろうさまでした


何と言っても今年の大祭りで一番大変だったのは大祭り年番の人達であったろう。台風18号のおかげで、祭りをやるか否か、賛否両論の間に挟まれて、だいぶ頭を悩まされたようである。大祭り当日、年番の人達の心境を聞いてみたら「複雑な心境です、正直言って疲れました。」との事でした。

そんな中でも「お祭りをやってくれて、ありがとうございました。」という御礼の電話も何本かあって、年番の人達にとっては唯一の励ましになったようである。


年番長より


「いろいろありましたけど、理解してくれている人は理解してくれてるし、実際に被害を受けられた方たちの心境もわかります。本当に大変だったと思うし、ああいう状態の中ではいろいろ言いたくもなると思いますよ。ですから、僕自身としては、いつまでもこだわりたくないので、今はとにかく、祭りが無事に終わってくれることだけを願っています。来年、再来年、その次の年と、お祭りはずっと続くわけですから、その時には今年の分まで盛大にやってもらえれば、それで何も言うことはありません。」(本当にごくろうさまでした。)
皆さんよ〜く御存知のかんからまちの獅子です。この後2頭の雄獅子が1頭の雌獅子の愛を求めて争う舞があります。獅子の世界にも三角関係はあったのだ!ちなみに獅子の中は全員男性でした。(瓦町)
祭りなんかどうでもいいのだ、俺は眠る!(瓦町)
祭り見物だって法被を着るのがれいぎでちゅ。
わたち桃太郎侍…じゃなかった、桃太郎です。これから鬼の征伐ならず、綱引きにいきます〜。(中町)
手前の子、男の子かな?視線を感じてる?
(城北)
若い者には負けられぬ。「元気を出して、それっやれ!やれ、やれ、やれ…。」(緑町)
「祭りだよ、よいとこ小鷹町
屋台ばやしや おどり子や
祭り太鼓の いさみはだ
テケ テケ テケ おせわしな
テケ テケ テケ おせわしな
大きい山 小さい山 みだれ山
オ ソレ ソレ ソレ オ ソレナ」

見て下さい、この気持ちよさそうな歌いっぷり。声といい、酔い具合といい最高の雰囲気でした。スピーカーの大音量での声の割れ具合もよかったな〜ぁ。(小鷹町)
この真剣なまなざし。でも重いんですよね意外に。(瓦町) 10日午後4時頃の駅通りは電柱も取れてすっきり。人影はまばら。
鉄火がはじまる寸前の時「○○ちゃん、ケンカ、ケンカが始まるよぉ負けても知らんに〜。」(栄町) かんからまちのお通りだっ!。(瓦町)
主婦だって年に一度の息抜きです。(西町) 高校生?祭り参加禁止で高処の見物としゃれています。「ちくしょう!私らも出たいね」と言ったかどうか定かではありません。
名文句浮かばず。(中央3丁目) 若い女性がいっぱい!(西町)
昔は「下に!下に!」と掛け声を掛けながらの大名行列でした。昭和11年を最後に行われなくなり、昭和36年以降は奴さんだけが復活して大祭りの時だけお目見えします。(西町) アラレちゃんのお面を見て頂戴!
ひょっとこ踊り。手つきと仕草が気に入りました。踊っているのは子どもです。(下西郷) 肝心要の一番力を要する手木のところを担当するのは、どこも何故か年配者が多い。(西町)
ちょっと一休み。「う〜ん、うまい!」
(連雀)
子ども屋台をおばあさん一人で押していました。
(紺屋町)
吉原雀というよりも、おしゃべり雀という感じ。
(連雀)
複雑な心境の祭典本部。無理矢理(?)買わされた「大祭パンフレット」は1冊500円。売上金は台風で被害を受けられたお宅に届けられます。
中学生に街頭インタビュー

……今日は祭りに参加しないの?
少年A「夜から出る。夜でないとおもしろくない!」
少年B「夜も8時過ぎでないと…まだ晩げじゃん。」
……水害で出られない人はいる?
少年A「こいつらん家、水害でもぐっちゃった。」
……祭りは参加しないの?
少年C「どっかへまぎれて出る。」
……水害で出られないことについてどう思う?
少年A「悲しいな、屋台でないもんな。」
水害に遭った本人「祭りって気がしやあへん。絶対やってもらいたかった。」
11日の最終日の夜9時半頃、一番最後になった神明町の屋台。各所のスピーカーから「神明町の屋台、早く戻りなさい!スピードを上げて早く戻りなさい!」という声が流れる。
その度に青年衆は掛け声を掛けながら屋台を右へ左へと蛇行させながら進む。
すかさずスピーカーから「交通のじゃまになります。真っ直ぐに歩きなさい。早く行きなさい。」
そんなことは一向におかまいなしの青年衆。そのやりとりが実に面白かった。(写真はその時のではなく他の日の神明町の屋台)