秋の夜長、ある人生の一頁をめくる。
78%KAKEGAWA Vol.31 1982年10月号掲載
インドに惹かれた人生
上のタイトル写真は当時掲載ではなく後日作成したもの
一度行ったら2〜3ヶ月ぶらぶらと

誰でも一人旅に憧れる時がある。ふらっとどこか遠くに出かけて、自由な旅を楽しんでみたいと思う。だけど、会社のこと、家族のこと、お金のことなどを考えると、つい思いとどまってしまう。
ここに登場する鈴木さんは20才の頃からインドに惹かれ、24〜25才の時、ついにその夢を果たしたのである。それから今日まで、合計6回もインドへ行っている。滞在期間は2〜3ヶ月。勤め先はその都度休みをとったり、辞めたりした。気ままな一人旅。自分の足の向くまま、気の向くまま。他の国には目もくれない。行きたくなればお金を貯めて、す〜っと行ってしまう。誠に羨ましい限りである。


最初から自然にとけ込めた


何故インドなのか?当人は「あまりそういうことは考えたことないけど、強いて言えば、インドの古代美術、文化、仏教に惹かれて行くのかな?物価も安いし…。」と言う。また禅宗とかヒンズー教にも非常に興味があるとも言う。禅宗には神も仏もでてこない。いかにして悟りを開くかを説いてくれるからだ。

「お釈迦様は王子様で、金もあれば女にも不自由しなかった。物質的にはとても恵まれていたんだけど、若い頃やはり僕らと同じ様に、世の中がおもしろくなかったんですね。29才の時に出家したから、今の僕らと同じくらいの年齢だったんだけど、考えていることは僕らととても似ている所があるんです。そんなところから仏教に惹かれたのかも知れません。」

「こんな話があるんです。ある日、息子を亡くした母親が『家の息子を生きかえらせてくれ』とお釈迦様に頼み込んだ時、お釈迦様は『だめだ、どうしてもと言うなら、この村中を探して、死者を一人も出していない家から釜戸の灰をもらってこい。』と言いました。母親は必死に探したがついに見つからなかった。」

「当たり前ですよね。古代インドにはニューファミリーみたいな核家族はないから…。その時お釈迦様は『人間は誰でもいつか死ぬ。それは当然なことだ』って言うんです。すごく合理的な思想を持っているんです。そんなところにすごく興味がありました。」

よく他の国へ行くと、文化の違いでカルチャーショックを受ける人がいるんだけど、鈴木さんの場合は初めからすっと飛び込んでいけたようだ。逆に、成田から羽田に帰ってくる時とても嫌な気持ちになるそうである。「一時は無性に永住したいと思ったけど、やはり家族のことを考えると無理ですね。諦めました。」余程インドが性に合っているみたいだ。

ヒッピーに金を持ち逃げされた


「最初は英語も知らないし不安でした。2ヶ月目に途中から一緒に旅をしたフランス人のヒッピーの二人に金をかっぱられちゃった。だけど金が無くなって旅している時が一番楽しかったような気がする。それから一ヶ月位は持っている物を売りながら食いつなぎました。昼はしかたないので2〜3円のトウモロコシをかじったり、宿も安宿ばかり…。(インドの宿は安い所なら日本円で1泊30〜50円)もともと少ない荷物が、帰りにはますます軽くなってしまいました。(笑)」

「インドの宿は本当に粗末です。木の枠に、中は麻で編んだベッドだけ。あとはローソクか停電ばかりしている裸電球一つです。食べ物も粗末だし…。だけど物価が安いので2〜3ヶ月いても、いくらもお金が掛からないんです。」

旅に出て一番恐ろしいのはやっぱり病気である。特にインドの方には原因不明の病気が多く、ある日突然に高熱が出る。40度位の熱が3〜4日も続けば、やせこけて顔形がまるっきり変わってしまうと言う。鈴木さんも下痢はしょっちゅうしていたそうだ。だけど、本人はあまり気にしない性格のようで「熱も時々出るけど、意外に熱には強いから…」と至って平気な顔で言う。しかし、そんな鈴木さんにも貴重(?)な体験談がある。


帰国後、おそろしい体験と不思議な体験


6回目のインド旅行の時、知り合いのインド人から「仏像を買わないか」とすすめられた。それは、小さいけれどとてもきれいな仏像であった。鈴木さんはそれを値切って買い、日本に持ち帰った。家に帰った翌日はとても元気で、冬だったけど下着1枚に軽くジャンパーをはおったくらいの薄着で過ごしていた。ところが、その翌日、コタツに入っていたら急に寒気がして、身体がガタガタと震えだした。びっくりして熱を測ったら、40度近い高熱が出ていた。

それからずっと熱は続いた。寝ながらいろいろ考えていると、ふとインド人の言った言葉を思い出した。「これを俺に売った奴(インド人)も、仏像を手に入れた途端、かなり高熱が出て半年間くらい動けなかったと言っていました。俺の所へ来たときは、ようやく這い出してきたような状態でしたので、この高熱はこの仏像と何か関係があるのかなあと思いました。」と、鈴木さん。

熱がなかなか下がらないので、ついに一週間後に入院。しかし、入院はしたものの、病院でも原因がわからない。毎日、身体のそこら中から採血されるだけで、薬もくれないし、注射もしてくれない。毎日血を採られるばかりだったので、看護婦さんに「あんた家に持ち帰って(俺の血を)飲んでんの?」なんて冗談も出たぐらいである。

頭はガンガンするし、熱も下がらない。だんだん不安になつてくる。そんな時友人が、○○の存在を教えてくれた。鈴木さんは病院を抜け出し其処へ行った。

「不思議ですね、そこにいったらすっと身体が楽になるんです。手をちょっと前に出されると身体が引っ張られていくんです。何かが憑いているとか何とか言われました。今までそういうのは全然信じていなかったんだけど、行くとすごく楽になるんです(中略)相手の言う質問に自然に答えるんですね、当たっていればうなずくというように。こちらは何も判らないんだけど自然に身体が動くんです。そして、その夜は40度を超す高熱が出ましたが、その翌日からすっかり熱が下がっていました。それから2日後に退院できました。今でも不思議でしかたがないですね。その仏像も東京の友人にあげてしまいました。」

鈴木さんは、お金や物に執着心がないようで、持ち帰った仏像などはほとんど人にあげてしまって、自分の所にはなにも無いそうである。普通なら、これはあそこのお土産、これはあそこで…など、記念として飾っておくのだが…。そういう物質的なもの以外にインドには静起算が求めている何かがありそうだ。インドに惹かれて10余年。これからも金と事情が許せば、何度でも行ってみたいという。
鈴木昭三さん(掛川市肴町)
オートバイ人生ここにあり
車庫の中はオートバイでぎっしり。
菊川町西方にお住まいの成瀬己巳男さんは現在53才。小学校の校長先生である。バイクが好きで、25才の時からずっと愛用している。バイクの魅力に惹かれて28年というわけである。現在所有しているのは、S34年型のメグロZ7をはじめサイドカー2台を含む計6台。バイクは食べ物と同じで、味わってみなければその良さはわからない。いろいろ乗りこなしてきた成瀬さんにとって、現在手元に残っている物は一番味が良かったに違いない。

バイクは人間のように言葉を交わす必要も無いし、気を遣わなくていいから、孤独になりたいときには最高にいい乗り物だと言う。四輪車には囲いがあるから冬は寒さから守ってくれるし、雨が降ろうが風が吹こうがあまり関係無い。しかし、大げさに言えば、バイクは自然との闘いである。冬はとてつもなく寒く、雨が降れば濡れ、風はまともに受けるが、バイクを本当に愛する者は、そこがいいのだと言う。見知らぬ土地に行く…。見知らぬライダーがVサインを送る。(これはライダー仲間のあいさつ)お互いに気が合えばバイクの話をしながら、ホットな交流を楽しむ。若い人達とも気軽に話せるひと時である。

成瀬さんはJMC(日本メグロクラブ)JSC(日本サイドカー連盟)にも所属し、毎年何回か行われる合同ツーリングにも出かけて行く。ただし、仕事の関係上(責任上と言った方が正しいかも)休日をとることが出来ないため、みんなより遅れて出て行き途中で合流する。そして帰りは他の人達が泊まってくるのを尻目にそのまま直行で帰ってくるという強硬なスケジュールをこなしている。次の日にはいつもと同じ様に出勤し仕事をこなす。好きな事をやる替わりに仕事の方も決して怠ることをしない。


通りがかりのおまわりさんが先生


成瀬さんは昭和29年の25才の時に軽二輪免許を取得した。当時の軽二輪免許というのは、制限速度が40km/hまで。菊川町のある農機具屋から、ロケットというバイクを借りて練習した。その当時は今と違い、無免許で練習をしていても、おまわりさんがやってきて「早く試験に行けよ!」と言われた程度で、本当にのんびりしていたと言う。

免許取得後の翌年に、念願のホンダドリームS28年型(146cc)の中古を手に入れることが出来た。当時は中古でも高く一般市民にはなかなか買える代物ではなかったようである。「自分の給料が一万何千円の時代でした。ホンダドリームが新車で16万円位していましたからとても新車なんぞ買えませんでした。中古が精一杯で、それでもこれを買うために随分生活を切り詰めたものですよ。本当にやっとこさ買ったという感じです。」

昭和33年にはこのホンダドリームで、京都や奈良の法隆寺まで往復700kmの道程を約30時間かけて走った。東海道はまだ舗装されてなく、でこぼこ道を埃まらけになって走ったそうである。

昭和36年にはホンダドリームSA型(S32年型)の中古を購入。このバイクの後ろに奥さんを乗せ、西へ東へとツーリング。夜中に伊良湖や箱根、豊橋、岡崎へと遠出した。今みたいに道路が舗装されていなかったので後ろに乗っているのも楽ではなさそうだ。それに、性能も今みたいに良くないので故障はしょっちゅう。だから、現在でも修理はお手の物。ライトが切れた時には懐中電灯をくくりつけて走ったこともあるそうだ。

昭和38年に、ついに念願だった自動二輪の免許を取得した。当時の自動二輪の免許取得は難しく、今の大型二輪免許に匹敵する。「一回の試験で一割が受かるかどうかでした。三回目に取れましたが、早い方でしたよ。」昔は今のように自動車学校に通わずに、直接試験を受けたので、なかなか一度でパスする人は少なかったようだ。成瀬さんが早く受かった裏には、何を隠そうこんなエピソードが隠されていた。

「試験に使われているのはメグロ(メーカー名)でした。メグロなんて乗ったことありませんでしたから困りましたね。メグロは足で操作するクラッチとブレーキが反対についていましたから…。当時、警察の白バイがメグロでしたので、日坂で白バイを止めて『メグロという車はどうなっているんですか?試験場で乗せられて困っているんだけど…』と言ったら、そのおまわりさんが『わしの後をついていらっしゃい』と言って、掛川の二瀬川にある交番に連れていってくれました。そこにはメグロが3台置いてあって、そこで教えてくれました。助かりましたねえ。」これも昔だからあり得たことで、今ではとても考えられない。


バイクは自分の分身


昭和40年、ホンダドリームCP77(305cc)の新車を購入。「ところが、このバイクに乗って長野県のあたりを走っているとき、メグロのバイクを見かけたんです。メグロは坂に強くてスタッ、スタッと、余裕で走って行くんです。ところがホンダときたら、ガッシャン、ガッシャン、ワーワーふかさないと登っていかない。それを見てメグロがどうしても欲しくなりましてね。ちょうどその頃、メグロのW1(ダブワン)のシングルキャブが出たので、ホンダドリームCP77と引き替えに買いました。ところが、買ったのはいいがどうも調子が悪くて、行きはよいよい、帰りは動くかどうかわからないという代物でした。昭和45年にはこのダブワンを出して、カワサキ250メグロSGと交換しました。」

そして、昭和46年にはメグロZ7を購入。S34年式だからすでに12年も経っている中古だった。現在所有しているメグロZ7は同型の2台目である。成瀬さんにとってはこのメグロZ7は一番のお気に入り。もう相当に古い年式なので値段があってないようなもの。「いくらでも出すから売ってくれ」とよく言われるが、今のところ手放す気は全く無いと言う。

最近はバイクに乗る回数も少なくなり、可愛がったり、磨いたりということもなかなか出来なくなったけれど、それぞれのバイクには、常に自分の分身としての想い出を持っているそうである。


サイドカーは乗り心地満点


メグロZ7はスタッスタッと走る感じで、ゆとりがある。ちょうど馬に乗った感じだという。これに乗るときは、ゆっくりと犬の散歩にでも出かけるような気分で乗る。サイドカーは奥さんと一緒に出かけるときに乗るとか、ダブワンはなりふり構わずに乗る時とか、という具合にその時の状況や状態によって乗りわけている。

メグロZ7の後にもいろいろ買い換えて、現在所有しているのが、メグロS8(S39年式)、カワサキ250メグロSG(S45年式)、ホンダCD250(S44年式・ビンガムサイドカー付)、メグロZ7(S34年式)、カワサキWIII(S49年式)、ドニエブルMT10(S55年式・サイドカー付)、の6台。それに売って欲しいと頼まれているホンダT500や廃車のバイクで車庫の中はぎっしり。

これだけのバイクを管理するだけでも大変である。サイドカーのドニエブル以外は年式もかなり古く、古い車は車検が一年に一回。保険も全ての車にかけてある。そしてこの6台のバイク以外に3台の乗用車も所有している。成瀬さんはお酒を飲まないし、他に何も道楽はないというものの随分お金の掛かる道楽である。生活も切り詰め全てを車に注ぎ込んでいる。

これは余程奥さんの理解がないとできない。奥さんは「やはりあまりいい気持ちはしませんでした。遠くへも行きますから危ないですしね。でも、私が自動車だとすぐ酔ってしまうんです。サイドカーだと酔わないんですね。だからサイドカーに乗せてもらって岡崎や箱根の方に連れて行ってもらいました。恐いと思った事はありません。この頃では孫が『おじいちゃん乗ろうよ』と言ってせがんでいます。」と結構奥さんの方も楽しんでいるようだ。サイドカーならぐっすりと眠り込んでしまうそうである。


乗る暇が無くて…ショボ〜ン


成瀬さんのサイドカーは、アメリカ製のビンガムと、ソ連製のドニエブルの2台である。昭和49年にビンガムを購入して、ホンダCD250に取り付けた。こちらは直線の所なら奥さんを隣に乗せて、高速道路で100km/hのスピードで走っても平気。ところがドニエプルの方は、安定はいいがスピードを出す車ではない。せいぜい80km/h位のマイペースで走るのがいいそうである。サイドカーで一番気をつけなければいけないことは、カーブを曲がるときだそうだ。

ソ連製のサイドカー・ドニエブルは、今年の2月に購入したばかり。朝一番で大阪まで出かけて行き、猛吹雪の中を帰ってきた。「普通なら風邪をひくけど、私は平気でした。翌日はちゃんと仕事に出かけていきましたから。ドニエブルは、車体部品が古い物と新しい物が一緒になっていて…。オートバイなんかは国産は品質が良すぎますね。ハーレーなんか新車で買うもんじゃないっていいます。違うサイズのバルブが付いていたり、油がもれたりするんです。だからハーレーなんか2〜3年乗って、さんざん直したのを買った方がいいそうです。ドニエブルは新車で買うと本体共で130万円位します。私のは中古ですがね、でもこれはサイドカーとしては決して高い方ではありません…。」と成瀬さん。

サイドカーは隣に乗っているだけでも楽しそうである。奥さんがうらやましい。時々、写真を撮らせてくれとか、音を聞かせて欲しい、と言ってくる人がいる。その時、自分でも眺めながら「お〜あるな!またいつか乗ろう。」と考えると楽しくなるという。しかし、その暇が無くて乗れないので、いつもはショボ〜ンとしているそうである。
ビンガムサイドカー付きのホンダCD250に乗る成瀬さん
BMWのオートバイのメーター部分

これがうわさのメグロS8(昭和39年式)
児童文学にかける人生
清水真砂子さんとご主人の菅沼純一さん(掛川市水垂の書斎にて)
静大での卒論が今の仕事のきっかけ

清水真砂子さんは現在、青山学院女子短期大学の講師を務める側ら児童文学の翻訳や評論家として活躍されている。週の内3日間は東京で暮らして、後の4日間は掛川の自宅で翻訳や評論の仕事をしている。

翻訳の仕事を始めたのは、今から15年前の26才の時。アニタ・ヒューエット作の『大きいゾウと小さいゾウ』が処女作である。最近出した『夜が明けるまで』はサンケイ児童出版文化賞を受賞している。評論の方では、児童文学者協会の新人賞(『石井桃子論』明治書院・1974年)も受賞しているが、本人曰く「自分がもらうなんて思ってもいなかったから、へぇ〜と思っただけですね。別にぶっているとかじゃなくって、結局評論というのは結果に対してのものだから…。ただ、仕事に対する責任だけは感じました。あまりいい加減なことは出来なくなりましたね。」

「本というのはおもしろいんですよ。最初の頃は、本が出来て嬉しいのは30分です。後はすごく気になりだしちゃって…。あそこは違ってなかったか、誤訳はなかったかって…。今は30分もないですね。5分か10分手に取ってみて、あっ、出来たなって感じです。」

「でも、この頃つくづく思うんですけど、ある絵描きさんが、仕事っていうのはうんちみたいな物だなっておっしゃってたけど、、私も同じ事を考えていました。排泄物だからそれに対してどうこう言ってくれるのは、言われないよりいいかもしれないけど、言われる段階の時、自分は次に行っているわけでしょ。次の仕事を必死にやっている時だから、過去のことを言われてもどうってことないですね。うんちのことを評価されても、うんちはうんちだからどうしょうもないって感じかしら…(笑)」


辞書にない!だからメキシコまで調べに行ってしまった


翻訳の仕事は、原作者の思いをどこまで伝えるかが、大切な要点になる。清水真砂子さんは児童文学を訳していても、子どもということは全く意識しないと言う。子どもが対象だからわかりやすく訳そうなどと思わないから、その点での苦労はない。しかし、原作者の気持ちをどこまで伝えるかに気をつかう。

翻訳というのは、語学が達者なだけではできない。例えば、一つの作品を5人の人が訳したならば、それぞれに違う味を持った5っの作品が出来上がってしまう。ことばの表現力の違いや訳し方によって、極端に言えば悲しい物語でも翻訳者によって明るい物語になってしまうこともあり得るのである。さらに、いろいろな専門用語や様々な固有の名前も出て来る。

「家族関係を表す言葉とか人間関係を表す言葉が、日本と海外では全く違いますから、その辺が苦労します。岩波書店の編集担当者の方から電話が来まして、彼女もとってもいい作品を訳したんだけど、おもしろいことを言っていました。『音痴が楽譜を見るようなものだ』って…。」

「それくらいトンチンカンなことをやるかも知れないけど、知らないから…。知っている人にとっては何でも無いことでも、知らない人は全く知らないわけだから、その辺は恐いですね。原作には専門用語も出て来れば、作者が勝手に作りだした名前も出てきますから。」

清水さんにとっての代表作は、アーシュラ・ル・ダウィン作の『ゲド戦記I〜IIII』が挙げられる。この作品は清水さんご自身にとっても、とても好きな作品でこれを心ゆくまで訳せたら、後は何もいらないと思った程打ち込んだ作品である。しかし、、ゲド戦記の場合、作者の両親が文化人類学者だったため、その影響が強く、専門用語が頻繁に出て来る。それともう一つは、作者が勝手に、植物とか動物の名前を作りだしてしまっているために、わからない所が多い。

しかし、それが辞書に載っていないからといって、全てが空想のものとは限らない。もしかしたら、実在の物かもしれないのである。これはその地に生きる作者自身にしかわからないことである。

「世界は広いですからねぇ、だから、どこまでが空想で、どこまでが作者の作りだしたことばで、どこまでが実在のことばかわからなくて苦労しました。でも、どうしても確かめたくてわざわざメキシコまで行ってきました。でも、結局わからないところもありました。」

翻訳はたいへんな仕事である。タウン誌も場合はわからないことがあれば直ぐに身近な所で調べることができる。にもかかわらず、日時に追われているから、ついわからないままにしてしまう事がよくあるが、これは期日に追われるものの宿命である。(なんて、言い訳したりして…。)


「生きる素晴らしさ」「楽しさ」を感じさせる作品を訳していきたい。


ゲド戦記は『影との戦い(ゲド戦記I)』と『こわれた腕環(ゲド戦記II)』,『さいはての島へ(ゲド戦記III)』がある。児童文学というものの、子どもよりも大人の人達により多く読まれている。特に若い人達の間でかなり広く読まれているそうである。

先日、ある小学生の読者から「今まで読んだ中で最高だったし、これから二度とこういう本は見られないだろう」という手紙が岩波書店に届き、気を良くしている清水さんである。

「児童文学の場合、生きているのがこんなにも素晴らしいことか、ということを感じさせてくれるものだったり、楽しい物もあるでしょ。楽しくて楽しくて、一週間も十日も浮き浮きさせてくれるものだったら、飛びついてやります。2〜3年騒がれて消えてしまう本もあるでしょ。だから、この作品が10年持つか、持たないかが判断の基準になります。私自身が自分の中にいいものがあった時に、その作品によって発見されたり壊されたりすることが理想です。そういうものが無い限り訳しません。」

清水さんは、常に自分の中に確固たり信念を持っている。これからもいい本をたくさん訳していきたいそうであるが、「自分の生き方を確かめるには、評論が一番です。一種の創作ですからね。これからは、出来るだけ評論の方に力を入れていこうと思っています。」ということである。


ご主人から…


「一つ家に落ち着いて暮らしたのは20年振りですね。結婚する前の2年位前までは、ずっとあっちこっちを廻っていました。」というご主人は「生きる」のが仕事だそうです。初めてお目にかかったのに、理想的な夫婦像を見たようで、もの凄い感動を受けました。今度は是非ご主人を取材させていただこうと思っています。清水さんの影の協力者であるご主人からの一言。「いい人ですね。小さくならずに世界と勝負してほしいですね。掛川の町にいて、一歩も外に出なくてもいいから、世界に通用することをやってもらいたいですね。どこの国に持っていっても、なるほどと言われるようなことを…。」
これからは翻訳よりも評論の方に力を入れていきたいと語る清水真砂子さん。
大きいゾウと小さいゾウ 」アニタ・ヒューエット作/大日本図書1968年
「夜が明けるまで」 マヤ・ヴォイチェホフスカ作/岩波少年文庫1980年
「影との戦い」ゲド戦記I アーシュラ・ル・ダウィン作/岩波書店 1976年
「こわれた腕環」ゲド戦記II アーシュラ・ル・ダウィン作/岩波書店 1976年
「さいはての島へ」ゲド戦記III アーシュラ・ル・ダウィン作/岩波書店 1977年
龍華院に暮らし、文化財を守る。
掛川市城内にある龍華院
龍華院(りゅうげいん)は掛川の古城跡地にあり、ここは日本全国でも珍しい御霊屋(おたまや)が建立されている。しかし、この龍華院も4年8ヶ月前(1978年2月)までは荒れ果てた廃寺であった。(御霊屋は徳川三代目将軍家光公の霊碑を祀るため掛川藩主北条氏重により1656年に建立されたもの。1818年に焼失、1822年に遠江掛川藩主〈掛川城主〉太田資始〈すけとも〉により再建された。)

この龍華院の代々の住職はみな高僧で、掛川城主の祈願所となっていたために、檀家を持つことは許されず、普通のお寺のように葬儀一切を行うことを禁じられていた。住職でさえも亡くなった場合は他の寺に埋葬された。普通のお寺は檀家から寄付や葬儀によって賄われているので、檀家のないのは龍華院にとって致命的であった。

寺は荒れ果てる一方であった。最後の住職であった実徳住職は、性に関する秘物を集めて陳列し、拝観料を取ったり売ったりしたために、エロ寺という異名までつけられた。今でも「エロ寺はどこだ」と尋ねてくる人がいるという。その実徳住職も昭和51年(1976年)10月に病死してしまい、それ以来住職がいないまま荒れるに任せていた。

忽然とやってきた海野住職


近所の人も近づけないほど荒れ果てた廃寺に、忽然とやってきたのが、現住職の海野栄久さんである。海野住職は静岡市井川の大日院というお寺で生まれた。生家である大日院の御堂には、毎年将軍に献上するお茶が格納されていたという由緒あるお寺である。海野住職は京都の大学院の博士課程を修了後、各山社で修行をつんだ。その後、現実社会の経験を積むために小学校の教員をしたり、名古屋刑務所の事務官をしていたとう経歴の持ち主である。

名古屋刑務所の事務官をしているときに、ある人からこの寺の話を聞かされた。掛川市が買収するとか不動産会社が買収して分譲するとか、心ない企みを聞いて、見るに見かねた海野さんは「掛川にとってこんな素晴らしい所は、絶対に残さなければだめだ。」といって、ついに自分自身が荒れ果てた龍華院へやってきた。4年8ヶ月前を振り返って海野住職は語る。

「初めて調査に来たとき、ともかく使えるような建物はなにも無かった。ジャングルか密林のような所で、まるで自分の墓が朽ち果てているのを見たような気がした。市役所と目と鼻の先で、しかも街の中心部にあるのにも関わらず、こんな事をしておくようでは掛川の街もしれていると思いましたね。文化財、史跡関係は言うに及ばず、全ての面でダメだと思いました。正直言って義憤を覚えました。この辺の人達は『この程度なら京都や奈良に行けばいくらでもあるよ』というような考え方を持っているんだから、文化や文化財は育ちませんよ。京都や奈良にはたしかにいい文化財がいくらでもあります。だけど地方には地方のいい文化財があるんです。」


ここだけは自然がいっぱいの市民の解放区にしたい。


海野住職の闘いが始まった。たった一人でこの廃寺にやってきて、その日から雑木の伐採に取り組む。並みの体力では続かない。来る前は虫歯一本ない強靱な歯は自慢の種であった。ところが4年半経った今、疲労と怪我で歯はガタガタになったという。
「忙しかったり、疲れたりすると寝るのが煩わしくなるときがあります。ここに来て初めて味わった経験ですね。」

先日の台風の影響で、ここも災害の波がやってきた。木が倒れ、崖も崩れた。しかし、自分がやらなければ誰もやってくれない。近所の人の手を借り、崩れた山の土を除き、木を切り倒す。ちょっとやそっとでは片づきそうにもない。しばらくは台風の後片付けが続きそうである。

海野住職は今、掛川市の文化財の再建に全力をあげて尽くしている。にもかかわらず、心もとない人達の妨害やいやがらせに頭を痛めている。

「自分の持ち物だとしても、死んでまで墓場に持っていく訳にはいかない。だから、みんなが本当に掛川の文化財を見直してくれて、郷土の尊い遺産を大事にしてくれたらと思います。檀家がないから金もないし、何もない所だけれど、畑があったり、草が生えていたり、あるいは春になればセリが出たりと、そういう自然の場所を作っていきたいと思う。郊外に行けばそういう所はいっぱい有るけど、この街中に一カ所くらいそういう所が有ってもいいんじゃないかと思って頑張っています。」

「掛川公園みたいに人工的に造った様な所は、私には出来ないけれど、イヤですね。この寺の境内で、バーベキューをやろうが、カラオケ大会をやろうがいいじゃないか…。掛川市民の憩いの場として使ってもらえれば満足ですよ。掛川市立幼稚園の園児とは4年来のお付き合いです。2〜3ヶ月に一度、先生に連れられやってきて、秋なら芋掘り、春ならジャガイモというように、楽しんでもらっていますよ。」

「市の行政の人達には上辺だけの言葉じゃなく、将来をもう少し真剣に考えてほしいと思います。生涯学習の街なんて言っているけど、表面に見えるところだけで騒いでいて、肝心なことは何もしていない。文化財でさえこれですからねえ。今こうして、行政が無関心でいながら、もし私がここを、レジャーセンターにしたりパチンコ屋でも作ってごらんなさい。あんな静かないい所にあんなもの作って、不届きな坊主だって言われるのが落ちですからね。(笑)私はここを自然のままで残しておきたいと、いつも思っているんですが、どうもそういうことは判ってもらえないようですね。」


貴重な文化財がぞくぞくと出現。


海野住職は、埃や煤にまみれている御霊屋や龍華院を掃除している間に、徳川家康の画像(肖像画)を始め、歴代将軍の画像を発見した。「家康のこんな表情のいい画像はおそらくどこにもないだろう」と言うほど気品の有る立派な作品だそうだ。そして、8才で若死にした七代将軍家継の画像は、まだあどけなさが残っている貴重な物だと言う。その他にもいろいろ貴重な物が発見された。海野住職は何時の日か自分が今まで集めたものと合わせて、資料館を作りたいと言う。

さて、龍華院の歴代住職のお墓も海野住職によって発見されたことを忘れてならない。

お盆が近くなったので歴代住職の供養をしなければならないと、書付きの「遠州佐野郡掛川領長谷村」を頼りに土地の人々に尋ね廻った。ようやく探し出した所が春光院であった。雑木を伐採していくと、次々と姿を現し、27基の墓石が発見されたのである。

海野住職が龍華院に来るにあたっては、まず住むところから始めなければならなかった。残っている建物はとても人の住めるような所ではなかった。家の中は草ぼうぼうで、家と言っても残っているのは骨組みだけで、雨露を凌ぐことも出来ない。知人と一緒に家を建てた。昼は汗まみれになって働き、食事の支度、掃除、洗濯と全てを一人でこなす。大変な事である。掛川市民がやらなかったことを、真剣に取り組んでいるのである。

海野住職は純粋な性格のために、思っていることはすぐに口に出してしまう。それが誤解される原因なのかもしれないが、これを機に、掛川市民も、もっと文化財について考えを改めてもらいたいものである。
手前は春光院から移し替えた歴代住職の27基の墓石