遠州の七不思議
78%KAKEGAWA Vol.30 1982年9月号掲載
今年は「本当に夏が来たのかな」って感じで、もう秋です。わずかに夏を感じさせてくれたのは8月10日〜15日頃まで続いた恒例の交通渋滞くらいのもの。雨ばかり続いてさんざんな夏でした。これも自然のなせる術であって、私たち人間にはなす術もない。今回の特集「遠州の七不思議」も同様、自然のなせる術です。沈むはずのないおひつが沈んで一週間後に浮き上がってくると言う「桜ヶ池のおひつ納め」、住職が亡くなる直前・直後に石が落ちるという「大興寺の子生石」、数年に一度ある日突然山の頂上に大きな池が出来るという「池の平の水」等々、人間が作りだした人工的な物とは趣を異にします。どんなに世の中が進歩しても不思議なことっていっぱいありますよね。細かく調べれば究明できることかもしれないけど、あえてそれをする必要も無いと思います。78%が30号も続いていること自体不思議なことですから。
桜ヶ池お櫃納め
2万年前に生まれた桜ヶ池。周りは原生林で囲まれている。
秘境、桜ヶ池

浜岡町の桜ヶ池は、三方を原生林に囲まれた、山の上にある静かな池である。二万年の古い歴史を秘めた桜ヶ池は、静岡県名勝地に指定された。しかし、この池の底には大蛇が住んでいるという。

池の前には白鳥が3羽、私たちが近づいても一向にお構いなしで遊んでいる。足は地に着いたままで動こうともしない。池には大きな鯉が群れを成して泳いでいる。ここは魚も鳥も禁漁区になっているので、彼等にとっては別天地である。

ここ桜ヶ池では今や全国的に有名となった、赤飯をおひつに盛って池に沈める「おひつ納め」の行事が、毎年秋分の日に行われている。この祭りに奉仕する者は、祭典に先だって精神部屋という部屋にこもって、七昼夜もの間、外部との交渉を一切絶ち、朝夕二回、遠州灘の荒波をくぐって心身を洗い清めるという。祭典当日、十数人の若者は立ち泳ぎで池の中央に出て、持っているおひつをくるくると回しながら水中に押し込んでいく。


沈むはずのないおひつは一週間後、空になって浮いてくる。


今から800年以上の昔、神社に一個、池に一個納めたのを初めとして、古来一年も欠かしたことがないという。「戦時中も食料統制でやかましかったけどやりました。たくさんは納められなかったけど…。一番少ないときで13個、その頃には青年も減って、小学校5、6年生が引き継いでくれました。」と、池宮神社宮司の佐倉さん。現在は200〜250個のおひつを納めている。

おひつの中には4升5合位の赤飯が入っていて、納めたおひつは底なしの池に沈み、一週間ほど経って空になって浮いてくると言う。ちなみに佐倉宮司のお話によれば、同じ様にして他の池に沈めてもすぐに浮いてくる筈だという。

不思議なことに、桜ヶ池で沈めたおひつが、空になって信州の諏訪湖にも浮いたそうである。ここから、桜ヶ池と諏訪湖の底はつながっているという伝説が生まれた。そして、池の底には大蛇が住んでいて、池に沈めたおひつの赤飯を食べると言われている。


大蛇となった高僧


今から約800年以上も昔のこと、京都の比叡山に皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)上人という、世に知られた高僧がいた。上人は仏の道の奥義を究めているうちに、ある経本の中から「今から56億7000万年の末に弥勒菩薩(みろくぼさつ)という聖僧が現れてこの世を救う」と書いてあるのを見た。上人は、ぜひとも菩薩の教えを受けたいと思ったが、人の寿命では所詮無理なこと。世の中で一番の長寿は大蛇であるから、大蛇となって生きようと決心した。それから弟子を集めて、「大蛇となって住むのに最も適した地を探してくれ」と命じた。その中に上人の高弟で法然という僧がいて、桜ヶ池を見つけた後、比叡山に帰り上人に報告した所、上人はすぐに了解し、早速大蛇となって桜ヶ池にやってきた。以来、桜ヶ池には皇円阿闍梨上人が大蛇となって住んでいると言い伝えられ、恐れられるようになったということである。


底がない?!桜ヶ池


桜ヶ池の底は未だに、どのくらいの深さがあるのか判っていない。と言うのも、計ろうとすると、ことごとく不幸な出来事が起こるからだ。

その昔、横須賀城主で本多越前守は「自分の領内である桜ヶ池の深さを知らないのは恥だ。」とばかり、家来の止めるのも聞かず桜ヶ池に船を浮かべた。そして、持ってきた綱に大石を結んで綱をどんどん降ろしていったが、ついに持ってきた綱で計ることが出来なかった。そのため、明日は綱を倍の長さにして計ることにした。ところが、翌朝になると遠州灘に突然津波が襲ってきて、ほとんど全壊にちかい状態になってしまった(その時の津波によって出来たのが現在の沖之須部落である)さすがの暴君も計るのを思いとどまったということである。

そして佐倉宮司によれば「敗戦の年か明くる年に、東京大学で湖や沼の研究をしている有名な学者(吉村信吉氏)が桜ヶ池に訪れました。(その時に2万年前にできた池ということがわかった。)

その学者から『池の深さを計らせて貰いたい』と言われたので、私が『池が怒るから止めた方がいい』と言ったんだけど、お弟子さんを連れて夜にこっそりと計ってしまった。しかし、計ろうとしたんだけど、なかなか深いところは計れなかったようです。

ところが、その先生は、桜ヶ池とつながっていると言われている諏訪湖で、氷の研究調査中に、突如として氷が割れて、そのお弟子さんと先生が沈んでしまいました。お弟子さんは這い上がって助かったのですが、その先生は亡くなられました(昭和22年1月21日)。

それ以来、世の中からも一般の人達からも恐れられて、二度と池を計ろうとする人はいません。もちろん、泳ぐ人も魚を釣る人もいません。」
おひつ納めの行事(パンフレットより)
桜ヶ池池宮神社宮司の佐倉久樹氏
大興寺の子生石(墓石)
大興寺の28代も続いている歴代住職の墓石。すべて裏山より落ち出たもの。
相良町にある大興寺(だいこうじ)には600年前の開山以来、代々の住職が亡くなる直前直後に、岩の中よりまゆ型の石が生まれるという、不思議な現象があらわれている。これは現在に至る28代ずっと続いているという。この寺の裏山に、細い沢川が流れているが、その川の岸壁には、点々とコブのような突起がいくつも出ている。これが遠州七不思議のひとつに数えられている「大興寺の子生石(こうまれいし)」である。

まん丸い石なら心配無用。


大興寺の現住職は現在ご病気のため入院されているとのことでしたので、副住職よりいろいろお話しを伺ってきました。
「普通は風化作用で落ちてくるんだけど、ここの石は生まれてくるんです。我々がお母さんのお腹から生まれてくるように、住職の寿命に計らって生まれてくるんですね。専門家の地質学者によると、地表というのは、いつも収縮作用をおこしているそうです。目には見えませんが…。その作用が特にここは激しいようで、そのために岩の芯が押し出されてくるんじゃないかと言われています。非常に珍しい現象だそうです。」

「それがたまたま住職の亡くなる時と合致するんです。偶然がずっと続いているもんですから、不思議さが倍増するんですね。昔あったことではなく今も実際に出ているんです。ですから、皆さん方も納得して不思議だなあと思うんじゃないですか。住職が替わる間の途中に落ちることはありません。まん丸の石は途中で落ちますが、これは墓石はまゆ型のものと決まっていますから…、だから丸い石は落ちても心配いらないということです。(笑)」

普通一般のお墓というのは四角で稜線がある。(稜線とは多面体のとなり合った二面が交わる線のことです。)しかし、お寺の住職のお墓は卵形の球で一面体になっている。いわゆる縫い目がないということで、完全無欠というような意味を表しているそうです。そして、この一面体の縫い目のない墓石のことを無縫石(むほうせき)と呼んでいます。

「他のお寺さんでは石屋に頼んで作ってもらいますが、ここの寺では自然の石が裏山から出てきますので石屋に頼む必要がありません。しかも、ここの石はひょうたんに似ていることから縁起の良い石ともされています。石が落ちるのは亡くなる直前の時もあれば、間のいい人は亡くなった直後に落ちたこともあります。私の祖父の場合は、昭和15年に亡くなったんですが、石が落ちるのは一週間かからなかったですね。今一番出ているのは三分の二位出ていますが…。現在の住職は70才位です。医者からは後10年くらいは大丈夫だと太鼓判を押されましたが…。ここの住職はほとんど長寿ですね。」


大興寺にまつわる言い伝え


大興寺は今から600年ほど前に、大徹宗令(だいてつ-そうれい、室町時代の僧侶、曹洞宗)禅師によって開山された由緒ある有名なお寺です。ここに代々語り継がれてきた言い伝えがあります。

人徳の厚かった大徹禅師は仏の道を説くかたわら、石に関する学識も深く「那須の殺生石(せっしょうせき)の謎を解いた名僧」としても語り継がれている。

その大徹禅師は90余才の高齢で、多くの門弟に見守られ静かに大往生を遂げようとしていた。その時、「わしの身代わりとして、裏山より石が生まれるであろう。」と預言した。事実、往生直後に岩の中より、まゆ型の無縫石が生まれ落ちた。そして、弟子達はこの石を大徹和尚の身代わりとして墓石にしました。

以後、代々の住職も落下を預言して大往生したが、その通りに落下し現在に至っている。石の大きさは高さ80センチ前後、重さは100キロぐらいで、多生の大小があるが、これは住職の徳望いかんによってそれぞれ違っている。

また、子生石について、こんな言い伝えも残っています。

昔、大興寺に学徳のすぐれた名僧がいた。ところが、その和尚が病魔におそわれて明日をも知れぬ身となり、枕辺に弟子達が集まっていると、ある日小僧が飛び込んできて「和尚様大変です。石が落ちそうです。」と言った。それを聞いた和尚は、「そうか、ではその石をお前にやろう。」と言った。その後、和尚の病気は日一日と快方に向かったが、それに引き替え小僧の方は目がくぼみ、頬はやせこけて顔は青ざめ、三ヶ月後にとうとう亡くなってしまった。

墓地に並んでいる多くの墓石の中に、たった一つ形の悪いのがある。これがその時の小僧の石だと言われている。


マナーを守って下さい。


大興寺には、子生石の他に非常に珍しい、幹の四角い竹もあります。(特に加工がしてあるわけでもなく、自然に生えている)。
大興寺には子生石を見ようと、いろいろな人達がやってきます。それはそれでいいんだけど、お寺では一部の人達のマナーの悪さに困っているそうです。落書きをしたり、ゴミを捨てていったり、中には裏山で火を焚く人までいるそうです。火事にでもなったら大変な事です。もし、皆さんの中で子生石をぜひ見たいと思う方は、絶対にマナーを守って下さい。これは大興寺に限らず、どこでも同じです。
600年前に開山された龍門山大興寺
現在の住職のものらしき無縫石が三分の二ほど這い出している。

中国大陸から渡ってきたといわれる四角い竹(四方竹)

小夜の中山 夜泣石
小泉屋さんの女将さんと夜泣石
小夜の中山の夜泣石は、御存知のように国道一号線沿いの小泉屋さんの裏手にあるが、昔は旧道の久延寺というお寺の隣にあった。

焼津の浜に置き去りにされた夜泣石


明治13年に日坂の杉本権蔵さんという方が、全国で初めての有料道路の中山新道を開通させた。その後は、ほとんどの旅人がこの中山新道を通るようになったそうである。

東海道では箱根の次に難所と言われた旧道は、小箱根とも呼ばれるほど険しい山道であった。ここを通らなければ日坂の峠を越すことが出来なかったが、新しく中山新道が出来たために随分と旅が楽になったようである。

しかし、中山新道が出来たために、久延寺の前は通る人も少なくなり、お参りをしていく人も減ってしまった。そのため、久延寺の和尚は、夜泣石を浅草の観音様で見世物にして、一儲けしようと考えた。その当時であるから、牛車に載せて南の浜まで行って、そこから船で浅草まで運んだ。昔は今のように交通が発達していなかったので、何日もかかってようやく東京にたどり着いた。

ところが、東京では大変なことが起こっていたのである。小夜の中山の夜泣石が届くという事を知った東京の商人は、夜泣石が届く前に、偽の夜泣石を作って、すでに見世物にしていたのである。それらしく見せてある偽の夜泣石は大好評で、本物の夜泣石が届いても見物人は本気にしなかった位であった。

見物人が少なく当ての外れた和尚は、焼津の浜までは持ち帰ったものの、帰りの旅費もなくなってしまったため、夜泣石は焼津の浜に半年間も置き去りにされたままであった。「これではいけない。」ということで、日坂の杉本権蔵さんが焼津まで取りに行き、ようやく日坂に戻ってきたのである。そして、現在の小泉屋の裏手に置き管理していた。その後、所有権の問題で久延寺側が告訴したため、裁判沙汰となり当時だいぶ新聞を賑やかしたようであるが、結局は小泉屋が管理することで決着が付いた。

いろいろな経緯があった夜泣石も、今ではパイパスと国道一号線にはさまれてちょっと喧しいが、平穏無事な日々を送っている。


夜泣石にまつわる伝説


村にお石という婦人がいました。この婦人が姉のためにお金を借りに金谷へ行った帰り道、中山のこの丸い石のところへ通りかかると、盗賊が現れてお石を殺し、お金を強奪しました。お石はちょうど臨月でしたが、お腹を斬られた時に刃が石に当たったためお腹の子は無事でした。

生まれたばかりの赤ん坊は、声を出して叫ぶことは出来ません。そこでこの丸い石が不思議にも、赤ん坊に替わって大きな声で泣いたということです。久延寺のお坊さんがこれを聞きつけて来てみるとこの有様であった。早速母親の亡骸を始末し、その赤ん坊を寺で引き取りましたが、乳がないため水飴で育てました。(これが名物の子育飴になった)幸い子どもの肥立ちも良く、成長したので坊さんは音八と名付けて可愛がりました。

音八が成長したとき、寺の住職から母の最後を一部始終詳しく聞いた音八は、どうしても母の敵(かたき)をとらねばと決心し、刀研ぎになって大和国恩知村の研屋源五郎方に身を寄せていました。ある日、一人の旅人が「これを研いで貰いたい。」と言って、一振りの刀を差し出しました。

音八が刀を手に取ってみると、刀の先端がこぼれている。虫の知らせというのか、音八が見入っていると、男は「それは先年、山の中で女を斬ったときに、石に斬りつけたものである…。」と問わずに語りに話し出した。山の中で女を斬った…。「もしかしたら小夜の中山で孕女(はらめ)を斬ったのでは?」と音八が尋ねるままに男は「そうだ。」と答えた。この男こそはまさしく長年探し求めた、我が母親の敵であると知り、そこで首尾良く目的を遂げたということです。


「なむあみだ」で夜が明けて


重さ約300貫(約1125キロ)もあるという夜泣石はまるい石である。祀ってある石の右側の方には、弘法大師が来たときに、この石を泣き止ませようとして石に「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の文字を彫っていた所「南無阿弥陀」まで彫ったところで夜が明けた。それと同時に石が泣き止んだために「仏」を彫るのを止めたという伝説が残っている。この南無阿弥陀の文字も、年数を経ている上に、お参りに来る人達が頭を撫でていくために、かなり薄くなっている。そして、左側の石が欠けている所は、孕女が斬られた時の刀傷と言われている。
夜泣石に刃があたり石が欠けたという部分
弘法大師が夜泣石に彫ったという文字
京丸牡丹
京丸山のアカヤシオツツジ松浦さんのビデオより)
60年に一度だけ咲く幻の花

周智郡春野町気多の町から、さらに北へ40数km行った所に、標高1469mという京丸山がある。この京丸山のてっぺんには、60年に一度だけ、幻の花「京丸牡丹」が咲くと言い伝えられている。

この京丸牡丹は一説には、じゃくなげの花の群生だとか、天然記念物に指定されているヤシオツツジとも言われている。また、マタタビという植物は時期によって葉が白く変色するので、遠くで見ていると牡丹にも見えると言われている。だが、実際にはどの花のことかわからない。誰も牡丹の花を見た人がいないために、幻の花と呼ばれているのかも知れない。


秘境の村、京丸


さて、この山の谷底に京丸の村があり、昭和22〜23年頃までは3戸の家族が住んでいたそうであるが、現在では本家である藤原家一軒のみとなってしまった。林道が整備され今でこそ車で行けるようになったが、昔は気多の町より歩いて3時間以上も掛かったそうである。

人里離れた秘境の村、京丸の部落に行くには、30センチ位の道幅の険しい山道を通らなければ行くことが出来なかった。108曲がりと呼ばれる、くねくねと曲がりくねった道は、雨降りや雨の降った後には山ヒルが、足にべったりとはりくっついたという。途中の谷川には丸太が三本渡してあるだけの粗末な橋であった。村の人々は、そんな道を何時間も歩き続けて、気多の町と往き来していたのである。

しかし、子ども達の通学やら生活するのに不便なため、藤原家の分家である二軒は、昭和22〜23年頃、家族ぐるみで町に引っ越して行った。掛川市の和田で「京丸」という蕎麦店を営んでいるご主人は、この藤原家とは遠縁にあたり、京丸よりも気多の町に近いところに住んでいたが、20年ほど前に掛川に移ってきた。


「京丸」のご主人のお話


「昔から京丸には三軒しか家はありませんでした。他の村の者とは結婚してはいけないという掟(おきて)があったようだが、2、3年前に亡くなった藤原忠教(ちゅうきょう)さんの場合、今のおばあちゃんが旧熊切(現在の春野町)から嫁に来た人だから、いつの頃、そういった掟が破られたのかはわからない。」

「私も小さい頃よく遊びに行ったけど、自分の家から3時間以上もかかりました。人里離れたその村には、いろいろな歴史が隠されているようです。聞いたところによると、部屋の広さは三尺の槍(柄を加えた長さは一般的に約2.7m前後)が振り回せる広さで、天井の高さは弓が放つことが出来る高さに作ってあるとのことでした。とにかく広い部屋です。」

「そして、木を割って薄板のようにし、それに刀の先のようなもので彫ったと見られる板には、
×年×月×日 楠木正成の家臣 信濃より入り 土民となりて身をかくす 
天智天皇神にあり藤原鎌足の末孫(ばっそん)さりょう四っの家を残して京に入る
大永?年11月17日大火のため宝物焼失(大永1521年〜1528年)
百姓権兵衛
と彫ってあるのもありました。それから一年に一度だけ虫干しのために出す鉄の鏡が7面、うるしの箱に入って保存されていて、その箱の上には葉菊の紋が入っています。だから天智天皇とも所縁(ゆかり)があるような気もします。そして、二階の天井裏には、高さ30センチ位のケヤキの仏像が60体程ありました。」


京丸伝説


昔の落人は、誰も近寄らないような人里離れた山に身を隠した人も多いと聞く。京丸の山は身を隠すのに絶好の場所だったに違いない。ここで京丸伝説の一部をご紹介します。

昔、戦に敗れた武士が信濃から逃れてきて、京丸に住み着いたという。ある時、京丸の村に刀傷を負った若い侍が、やはり信濃(長野県)の方から落ち延びてきた。村長の家の前で助けを求め、手当てをしてもらうことになった。当時村長の家には牡丹姫という美しい娘がいました。いつしか、その侍と牡丹姫は恋仲になっていった。しかし、京丸には他の村の者と結婚することはできないという厳しい掟があった。
「旅の人、この村には掟があるのでの、どこかへ行って下さらぬか。村長としての私から掟を破ることはできないので…。」
侍も、村長も、牡丹姫も苦しかった。しかし、その侍は、傷が癒えると同時に、川を下って京丸の村から消えていった。その侍の後を追って出た牡丹姫は、京丸川に身を投げて死んでしまったということです。
その牡丹姫の化身が花びらとなって流れた。
牡丹姫の化身というので、京丸牡丹と言われているのかも知れません。


京丸山のアカヤシオツツジ


京丸牡丹が咲くという山に行くには、気多の町から藤原家とは反対方向に行かないと、藤原家から2〜3時間歩かなければならないはめになる。目の前に山があるのに、道も橋もないため、ずっと遠回りしないと行けないそうである。

市内の松尾町に住む松浦さんは、昨年の4月29日に、京丸牡丹ではないかと言われている「アカヤシオツツジ」をビデオに収めてこられた。ヤシオツツジは天然記念物に指定されている非常に珍しいツツジである。4月下旬に紅ヤシオが咲き、10日ほど遅れて白ヤシオが咲き乱れる。群生しているヤシオツツジを遠くから眺めていると、ちょうど大輪の牡丹の花に見えるため、京丸牡丹ではないかとも言われている。

掛川から京丸山のふもとの駐車場まで、車で約1時間40分位かかるそうです。ヤシオツツジの咲いているところは標高1496mの頂上付近である。松浦さんは重さ10kgもあるビデオを担いで、京丸山に挑んだのであるが、ともかく険しい山道は慣れない者には恐ろしい所だと言う。頂上に近づくにつれ、絶壁になっていて、道なき道を這うようにしてよじ登って行ったということであるが、それだけ頂上へ着いた時の感動も大きい。普通だと2時間40分ぐらいで着くが、慣れない道でビデオを担いで行ったために3時間半はたっぷり掛かってしまったそうである。

松浦さんは、「遠州にいて、遠州七不思議に数えられている「京丸牡丹」を見ない手はないと、10kgもあるビデオを担いで行きましたが、とにかく大変な山ですよ。だけど、頂上に登ってヤシオツツジを見た途端、疲れも吹っ飛びました。」

ヤシオツツジは岩の間から幹が出ている。ピンク色の花をつけ、逆光を浴びると透き通って見える。樹形に似合わず可憐な花を咲かせる。
山頂付近の岩場に群生するヤシオツツジ
池の平の水
突如として出現した池の平の水。6日には水深4mにもなった。(8月11日水窪町役場撮影)
6〜7年に一度現れる幻の池

磐田郡水窪(みさくぼ)町の標高880mの亀の甲山の中腹、標高650mの所にある「池の平」という窪地に、突然「幻の池」が出現し、地元の人達の話題になっている。水窪町は天竜川の上流に有り、佐久間町よりさらに北にある、人口6,500人程度の静かな山村である。ここも台風10号(豪雨と暴風で死者400人以上、7月23日に発生し8月2日渥美半島に上陸して日本海に抜けた)の影響で山崩れや道路の決壊があちこちで目立ち、各所で改修工事が行われていた。

この池の平は、遠州七不思議のひとつとして、6〜7年に一度、小笠郡浜岡町の桜ヶ池の竜神が諏訪湖へ行く際に、休憩するために池が出来るのだと昔から言い伝えられている。


今年突如現れた「幻の池」


昔は、信州方面に行くには、この山を越えなければ行くことが出来なかったため、水が湧き出ればすぐに発見できたのだけれど、飯田線が開通してからは、ほとんどこの道を通る人もなくなり、山に入る人も少なくなったために、最近の様子はわかっていないが、今回最初に見つけた人の話によれば「20年ほど前にも一度見たことがあるとのこと。」(今回はたまたま山林の下刈りに来た人達がいたので発見されたが、もしかすれば誰にも発見されずに消えていった可能性もあるわけである。)

第一発見者の林業に携わる知久(ちく)さんによれば、8月5日の麻、池の平に下刈りに来たところ、杉林の窪地からゴボゴボと水が湧き出ているのを発見し、7日に再び来てみると、すでに大池になっていたのでびっくりした。その時点では最も深い所が2m程であったが、その後も水は増え続け、9日には奥行き60m、幅40m位の楕円形の池になっており、最深部が4m以上にもなっていたということだ。

これだけの量の水が一度に湧き出てくるなんて、ちょっと信じられないが、本当の話である。池の平に近い麓に住んでいる人達の話に寄れば、水の湧き出る前にゴーゴーという夕立みたいな音がしたそうである。この池も一週間から10日間位で水が引いて、たちまちの間に消えてしまう。そのため「幻の池」と言われている。


水は透き通っていて、枯れ葉1枚浮いていない


取材に行った13日の時点では、最深部が1m程度と、だいぶ水が引けているようであった。池の平までは水窪町の街中より徒歩で2時間ほどもあるとのことで、午後3時に掛川を出た私たちは時間的にもそこまで行くことは出来なかったが、水窪町役場の方達からビデオを見せていただきました。(みなさんとっても親切でしたが78%の存在はやっぱり知られていませんでした。)

昔は、元池(もといけ)という、もっとやまの麓の方で水が溜まったそうであるが、いつの頃から、元池には溜まることがなくなり、新池(現在の池の平)に池が出来るようになったそうである。

池の平は杉の木がビッシリ生えていて、普段もじめじめしてはいるが、こんな山の中腹に池が出来るなんて考えられないと地元の人達は話している。そして6〜7年に一度という出現回数も神秘さを増しているようである。ここは、どんなに雨降りが続いても、小さな水溜まりも出来ないそうであるから、いよいよ不思議なことだ。

ビデオを見ると、水は硝子のように透き通っていて、水底が完全に見える。波風も立たないため水面はまるで鏡のようにすべてのものを映し出している。あまりにも静かで、きれいすぎるため、どこが水面なのかよ〜く見ないとわかりません。

町役場の広報担当の守屋さんは「とにかく水のきれいさにはびっくりしました。底辺の草が青々としてものすごくきれいに見えました。それにもっと不思議なのは、言い伝え通り、落ち葉やゴミがひとつも浮いていないことです。池が出来たことも不思議ですが、それ以上に感動しましたね。」
杉林だから、当然落ち葉や枯れ枝が浮いて当然だと思うんだけど、ビデオを見る限り枯れ葉1枚も見当たりませんでした。

水の温度もだいぶ冷たく、業務課の鎌倉さんは、池の中に入ってはみたものの冷たくて5分以上は入っていられなかったそうである。
この水は胃腸の妙薬になるとも言われ、守屋さんは母親から「この池の水は胃腸の薬になるし、身体にいい水だと言って、おばあちゃんから頼まれて水を汲みに行かされた。行くと何人かが列を作って汲に来ていた。」と聞かされていたという。今回も池が出来たとの噂を聞きつけて、水を汲みに来る人が後を絶たないそうである。

数日後には、この池も消えて、まるで何事もなかったように元通りの杉林に戻っていく。次はいつ現れるかわからない幻の池。
透き通った水は落ち葉も浮いていないし、水面もよく判らない。(水窪町役場撮影)
池の水はかなり冷たいそうだ。(水窪町役場撮影)
過去の幻の池の出現年
1954年(昭和29年)
1961年(昭和36年)
1968年(昭和43年)
1975年(昭和50年)8月26日
1982年(昭和57年)8月11日
水窪町役場の守屋盛明さん(左)と鎌倉俊文さん(右)
三沢の三度栗
先日の台風のため、根元付近から折れた三沢にある三度栗の古木。
折れてしまった三度栗

小笠郡菊川町の三沢という村には、一年に三度実がなるという栗の木がある。しかし、実際には1回目は食べられるが、2回目は小さくてほとんど食べられず、3回目は花だけ咲くということであるが、3回も花が咲き、2回も実がなるという不思議な栗の木である。

三度栗の木は「お弘法さま」と呼ばれる御堂の外庭に一本だけ残っていたが、残念ながら7月31日に襲った台風10号の影響で、幹の下の方でポッキリと折れてしまった。(すでに第一回目の実を付けていました。)

栗の木自体はあまり大きくないが、近所の人の話によれば、かなり年数は経っているということである。折れた木の中は空洞になっていて、哀れな姿をさらけ出していた。

他の場所にも三沢の奥には三度栗の木はかなりあったそうだが、菊川工業団地の開発で山々は削り取られ、今はもう山には無いかも知れないということである。


三度栗のいわれ


秋のある日、三沢の村に弘法大師がやってきた。村の子ども達が、山で拾ってきた栗の実をうまそうに食べていると、それを見た弘法大師は「私にもひとつくれんかのう。」と言った。子ども達は喜んで大師にその栗をわけてやった。大師は「このお礼に、この村に一年に三度、栗がなるようにしてあげよう。」と言って、子ども達の頭を撫でて村を去って行った。それから後、三沢の村には一年に三度栗の実がなるようになったとさ。
葉は萎れていたが、毬栗はまだしっかりと付いていた
遠州灘の波の音
雷三里、波七里

遠州灘の波の音は、天気の変わり目になると、遠く離れた陸地にいても、ザーッ、ザーッという音が聞こえてくる。雷三里、波七里といわれ、雷の音よりはるか遠くまで聞こえる不思議さが、遠州七不思議の中に数えられている由縁である。

台風が近かったり波の荒いときには、小笠町に近い所の菊川町内までも波の音が届くのである。夜耳を澄ますとはっきりと聞き取れる。まるで、すぐ前が海辺のように…遠州灘の天然現象と言われているが、いくつもの山を音がぶつかって乗り越えてくる。初めて耳にしたときは半信半疑であったが、実際に聞こえてくるのが何とも不思議だ。


波の音の伝説


ある日、漁夫が海に出かけていったが、どういうわけかその日は不漁でまるっきり魚がかからなかった。仕方が無いので帰ろうと最後の網を引き揚げてみると、網に中には真っ黒な怪物が入ってきた。

「こんなもんがいるから魚がかからないんだ。殺してしまえ!」と漁夫がなぐりかかった。すると怪物が、
「私は海の底の波小僧です。どうか助けて下さい。助けて下されば、天気の変わり目に海の底で太鼓をたたいて知らせてあげましょう。」と言った。

漁夫は波小僧を助けてやったので、それからは天気の変わり目や台風のときなどに波の音が聞こえるようになった。
あとがき
私たちが遠州七不思議を取材している最中に、偶然にも池の平の水が出現し貴重な写真を手に入れることが出来ました。おかげで滅多に行くチャンスのない水窪町まで行くことが出来ました。ちょっとした旅行気分です。水窪町はいいところですよ。
さて、遠州七不思議は、不思議なことに七つだけじゃないんですね。地方によって七不思議がまちまちで、まだまだいっぱいあるんです。たとえば、粟ヶ岳の「無間の鐘」、掛川城の「霧吹き井戸」、大須賀町の「清明塚」、浜松市の「竜禅寺の絵馬」、天竜市鹿島の「椎が脇淵の竜宮」などなど。しかし、その殆どは伝説的なものが多いようです。