この道一筋
Vol.24 1982年3月号掲載
人間は物を生み出すことが好きだ。文明の発達とともに多くの物が生まれ改良され、これで限界だろうと思っていると、とてつもない物が出現したりする。
いくら機械化が進んでも、人間の手を経なければ出来ない物や味わいの出ない物も多い。
掛川でも、その道一筋に生きている人達が身近にいる。すべて長い経験がものをいう人達の職場特集をじっくりと味わってください。
 文:やなせかずこ 
ハタノ靴店(城西)
手縫いの革靴は、もうしまいじゃよ。


薄暗い作業場で、コツコツと叩く音がする。もちろん靴を修繕している音である。畑野高次さん(86才)は、15才の時に豊橋に丁稚奉公に出て以来71年間という長い間、靴職人一筋に生きてきた。着物姿に前垂れを掛け、懸命に修理している姿は昔の面影をそのまま偲ばせてくれる。その顔には長い長い歴史が刻まれている。カメラを向けると「こんな感じでいいかのう」とポーズをとってくれた。

豊橋で修行を終えた後、神戸、静岡と全国を転々として腕を磨いたという。そのためか、職人という自信が言葉と身体からにじみでている。

職人気質は時代遅れと言わんばかりの世の中で、受け入れられなくなった本物の職人が次々とやめていく。そんな中で畑野さんは「俺は靴を作ることしか知らん」と頑なに靴店を守り続けてきたが、86才という高齢と、材料が入らなくなったことを理由に1年ちょっと前に、手縫いの靴作りをやめてしまった。

今は頼まれた靴の修繕をしながら、のんびりと余生を送っている。昔取った杵柄で、どんな難しい修繕でもやりこなす。「昔の靴から比べれば、今の靴なんか問題じゃない。皮だ皮だといってもほとんど合成皮革が多くて、ただ貼り付けてあるだけ、縫製を見ればカタン糸(木綿糸の一種)が使ってある。あれじゃあ、すぐに切れるわけだ。今の時代はそれでいいのかも知れんがね。わたしらの時代には、足の寸法をとって、皮の断裁から縫製まで全部手でやったから、丈夫で足にぴったりくる。」

「糸だって羽二重(絹)の糸を使ったから、手入れさえしていれば10年はもつ。まあ、履く量にもよるがね。今でも10年前の靴を修理に持ってくる人がいる。アメリカでも今、手縫いの靴を作っている人は一人しかいないそうだ、日本じゃ知らんがね。」と言って淋しそうに笑った。


米一俵の値段と靴一足の値段がほぼ同じ時もあった。


25才の時、掛川の現在の場所に初めて自分の店が持てた。当時、掛川で靴を履いている人は少なかった。それでもすべてが手作りの靴だったので、何とか生活を営んでいくことが出来た。それから何年か経つと、中学校でも靴を履く規則が出来て、にわかに忙しくなる。女学生も羽織袴姿で靴を履いていた時代がある。その当時を回想して、「あの方がいいね。魅力がある。今じゃ駄目だ、カラスがそこらあ飛び回ってるような格好して…。(セーラー服のこと)アッハッハ…。」

村長さんも校長先生も、み〜んな羽織袴に靴履きというスタイル。そういえば坂本竜馬も羽織袴に短銃持って、下は靴を履いていたという話があった。草履よりも機能性に富んでいたからであろう。

手作りの靴は底の部分の縫い付けが二重に施してある。(だから皮が破れてきても、底の部分が剥がれてくるなんてことは殆ど無い)すべてが手縫いであったから、一足の靴を作るのに一日半から二日位の日数がかかったという。今みたいに8時間労働ではないから大変な作業である。

さらに、大正5年〜6年(1916年〜1917年)の時には、一足5円か6円位の価格で売っていた。(もちろん全てが利益ではない。材料費が高いのである。)米一俵と同じくらいの値段であったから、所詮庶民には遠い存在であったに違いない。


仕事を覚えるために、苦しくても年季奉公をした。


話をしている間も畑野のおじいさんさんは手を休めないで、最近出回っている女性用のブーツのかかとのゴムを貼り替えている。高齢のため、電灯のひもを引っ張るのにもおぼつかなかった手が、靴を触っている時には確実に動いている。その動きは決して早くはない。しかし、正確にひとつひとつ仕上げていく。その手はナイフでゴムを切り、ノミで削り、ボンドで貼り付けてその上から釘を打ち付けていく。的確に動き無駄がない。

昔の職人は、みんな年季奉公をしながら仕事を覚えた。辛くても、苦しくても途中でやめることはできない。年数が経たないうちにやめていくと、親がお金を出して残りの年数を買わされた。途中でやめられると店が損をするという考えが強かったからだ。そして、途中から靴職人に転向するときには、保証金を払って食費を出して教えてもらったそうである。店にとっては技術を教えてやるんだからという考えがあった。

「今じゃあお金を払ってまでいく人はいやへん。仕事が出来てもできんでも、工場へ行きゃあ金をくれるもんだで…。」楽でいいかもしれないが、会社を辞めたときにやることがない。畑野のおじいさんは「おかげでこの年になっても、こうやって仕事を続けていける。張り合いがあっていいや。」と言った。


皮靴の手入れ方法


靴を長持ちさせるコツは、常にホコリをとって靴墨で磨くこと。そして、しまいぱなしにしておくと皮が硬くなってしまうので、度々履くこと。そして、時々日陰干しをするとよい。カビが生えるのを防いでくれます。ちなみに、カンガルーの皮が柔らかくて一番長持ちするそうです。
入口が変わったが昔の風情を残すハタノ靴店
靴職人の長い歴史を物語る顔が優しく微笑む。
手を休めず語り続ける畑野さん
休憩中にはキセルで煙をくゆらせ、火鉢で手を温める。
これが最後の手縫いの革靴になった。
岡本とうふ店(葛川)
8年間の修業で身につけた物。

夕方になるといつもの通り、遠くからラッパの音が聞こえ出す。寒い日も、雨の日も、風の日も…。最近はラッパの音も珍しく、この音を聞けばすぐに「豆腐屋さん」とわかる。家々からエプロン姿の主婦やら、お店の人が顔を出し「おじさん、今日は遅かったねぇ」とか「間に合ってよかった」とか言う言葉が交わされる。

真冬の寒いときでも素手である。冷たい水の中から豆腐を取り出す。さっき拭いて濡れたタオルがもうコチコチに凍っている。痛いからと拭かずに、そのままカブで走って行く。ラッパを持つ手が凍える。そんな冬の朝はもう25年も続く。

「辛くても、売り手と買い手の心のふれ合いがあるから楽しくて続けているんだ。それがなかったらやらないよ」という。

8年間の修行で身につけたものは、「豆腐の売り方」と「根性」である。敗戦直後の厳しい状況の中で修行してきたことは決して無駄ではなかった。

修行の朝は午前1時から3時の間に起きて、豆腐を作りながら夜明けを迎える。午前中いっぱい豆腐作りに専念する。そして午後からは恐怖の配達である。自転車の荷台に豆腐をめいっぱい積み込んで、一里〜二里(約4〜8キロメートル)もある道程を走り回るのである。

豆腐を積んだままひっくり返る事も度々あった。舗装されていない道路は、石ころばかりの砂利道で、その上冬になると風が強くて重い荷を積んでいる自転車はなおさら頼りない。トラックが直ぐ横を走り抜けていく。脇に避けようとしてひっくり返る。豆腐は原型をとどめない無残な姿をさらけ出す。せっかく来た道程を今度は空荷で引き返す。浮かんでくるのは、店で怒られる自分の姿…。

「朝が早いのは何とも思わなかったけど、この時が一番辛かった。」という。文字通り豆腐との闘いであった。修業先が食料品も扱っていたので、仕事が終わるのは夜の10時過ぎ。その後風呂に入って洗濯だ。


2000年の歴史を持つ豆腐ができるまで。


豆腐の歴史は長い。2000年も前に中国で作られ、我が国には奈良時代に遣唐使によって伝えられたと言われる。その製法と味は昔となんら変わることなく伝えられ、現在も庶民に愛され続けている。

豆腐は大豆を一晩水に浸けてから少量の水を加えながらどろどろになるまですりつぶす。さらに数倍の水を加えて煮る。冷めないうちに布袋でこして豆乳とおから(絞りかす)に分け、豆乳の熱いうちに水溶きした凝固剤(硫酸カルシウム)を加え、タンパク質と油分を凝固させる。これの上澄みを除いて布を敷いた穴の開いた箱に流し込み、重しをかけてさらに上澄みを除くと豆腐が出来上がる。これが木綿豆腐と呼ばれているもの。

店を持っても、毎朝毎晩ラッパ片手に売りに走る。


店を始めた当初は、他の豆腐屋の手前もあって、新規で始めたところの商品はなかなか食料品店には置いてもらえなかった。

ラッパを吹いて売り歩くしかない。しかし、ここでも新規で始めた者の入り込む余地がなかった。ラッパを吹いて売り歩いている豆腐屋は他にも何軒かあったからだ。その人達にはちゃんとお得意さんがいた。

「鍋を持って外に出ていても、人が違うとそのまま奥に引っ込んでしまう。そのくせ、ほかの豆腐屋が来ると、わしがそばにいても平気で鍋持って買ってった。『こんちくしょう』と思って、いろいろ考えた末に、翌年の夏が来たとき、昔は冷蔵庫がなかったもんで、冷や奴で食べられるようにと、氷をいっぱい入れて冷たく冷やした豆腐を売り歩いた。」

「それも、夕方には他にも売り歩いている人が大勢いたから、昼間歩いてみた。初めの4〜5日は反応がなかった。それでもくじけず歩いてみると、5日目位から少しずつ客が増えてきた。1ヶ月後位には夕方売り歩いていた豆腐屋が売れなくなって、他の豆腐屋も昼間売りに歩くようになった。」

「そこで今度は出来たての熱い豆腐を朝早く売り歩くことにした。夏なんかは冷蔵庫がなくて一晩置けないもんだからまたよく売れた。朝が早くてそんなに作れないもんだから、売る分だけをちゃっと作って売り歩いたもんだ。」そうしたらやっぱり他の豆腐屋も朝売り歩くようになった。」


豆腐売りのラッパの音は、俺で終わるよ。


「そうやって、小さな街の中を5〜6人の豆腐屋が競走しながらやってきたが、今じゃそのラッパ吹きもなくなってきた。掛川では俺が最後になるかも知れん。朝売りに行くと、寝間着のまま飛び出してきたり、客もいろんな格好していておもしろかった。今じゃあ、朝は一分でも二分でも寝ていたい方だから、朝なんて行ったって全然売れん。」と語ってくれたが競争相手がいなくなって淋しそうだった。

今では特別に朝早く起きるわけではない。途中までの工程は機械化されて楽になってきているからだ。その代わりに、あとの作業が大変である。豆腐のカスが機械の中やらそこら中に飛び散っている。機械の掃除にたっぷり1時間半から2時間はかかるという。

豆腐屋も店を出した頃に比べて売る数は半分ぐらいに減ってしまった。豆腐の需要が減ったわけではない。市外から豆腐の大型店がどんどん入り込んできたからだ。しかし、岡本とうふ店は、これからもラッパを吹きながら、奥さんとの二人三脚(最近は息子さんも手伝っているそうだ)で乗りきっていくことであろう。
店内は機械化がなされ、作業中は蒸気でいっぱいになる。
岡本とうふ店の岡本茂さん。
カブの横に荷台を付けて豆腐を売り歩く。
お客さんとの会話がはずむ楽しい時間。
ラッパを吹いてもらった。音で豆腐屋とわかる。
木綿豆腐、絹ごし豆腐と焼き豆腐の三種類が岡本とうふ店の主力品。
麩屋久商店(十九首)
「水のない掛川には嫁っこに出せれん」と言われた掛川で麩作り。

「掛川だけは、嫁に行かせるな。」と言われた程水の便が悪かった掛川の地で、麩屋久の先代は磐田から十九首に移って商売を始めた。大正11年(1922年)に上水道が引かれるまで掛川町民は、水に大変苦労したそうである。特に東の方は水の出る所が少なくて、たまたま井戸のある所には、毎朝水を汲む人が列を作って並んでいたということである。

ところが、十九首近辺は水源地だったおかげで、水は豊富に湧き出た。(大正11年に上水道が引かれたときの水源地にもなった)現在の麩屋久の地も、穴を掘って枠を置いておけば、水がいくらでも湧いてきた。建物の中庭には、昔、4ヶ所堀った井戸の内、1ヶ所だけが使われないまま残されている。その水溜の中で鯉が泳いでいた。いざというときのための防火用水の役割も果たしているという。

麩づくりは昔すべて手作りだったために、大量の水を必要とした。小麦粉をよく練った後、水を入れて洗い流していく。すると、澱粉質は水に溶けて白い水となって流れ、麩の原料となるタンパク質(グルテン・麩質)だけが固まって下に残る。この作業を機械のない時代には、大きな桶に入れて素足で練った。

今では、タンパク質だけにしたものを専門に行っている工場があるので、そこから原料を仕入れているため、あまり水を必要としない。先代が大正3年に、磐田の見付からこの地に移ってきたのは、この場所が豊富に水の出る場所だったからである。


仏教の伝来と一緒に中国から渡ってきたという麩。


麩は538年の仏教の伝来と共に中国から伝わってきたといわれている。当時は焼麩ではなく生麩であった。昔のお坊さんは、肉とか魚類は食べなかったので代わりに豆腐や麩の植物タンパクで栄養を補給していたそうである。今は栄養分析で、大豆や小麦粉の中にはタンパク質が多く、特に発育盛りの乳幼児には、非常に良いというデータが出ているが、当時はそこまでわかっていなかった。昔の人は昔のひとなりに、いろいろと考えていたのだろう。

麩の日本での発祥の地は京都。その伝播は京都から伊勢あたりまでに長い間留まっていたが、この遠州地方に伝わってきたのは明治時代からだと言われていて、西の方から来た職人により伝わったという。栄養価が高く、淡泊な味の麩は、家庭の食卓に、そして料理屋、子どものお菓子にと、今も人々に愛され続けている。


大正末期にはモーターが入った。


「我々は、初めから機械でやっているので、その苦労を知らない。」と二代目のご主人である松本さんは言う。原料をとったり、練る作業まで全てを手でやった時代には、麩作りも大変な労力を必要としたようである。

麩屋久では、大正の末期にはもう原料を練る機械が入った。まだまだモーターなど普及していない時代であった。「近所の機械屋さんから、一個100円(今の価格で約20万円ぐらい)のモーターを宣伝用にタダで置いていくから使ってくれ、と頼まれた位だから、掛川でも一番初めに使い始めたんじゃないですか。」こんないい物が出たと、みんなで喜び合ったそうであるが、当時の職人さんにしてみればごもっともな話である。それからは、一番大変な練る作業を、機械が一手に引き受けてくれるようになった。

松本さんは、半年間だけ磐田に有る同業者の所へ修行に出たが、それ以外は、麩屋久を守るために麩作り一筋にいきてこられた。戦役から還ってきて「さあ、やるぞ!」と、意を決したときには、原料がなく、やるにやれない状況だった。そして、原料がいくらでも入るようになった今、世の中は食料品の種類が増えすぎて、麩の需要もこれ以上は望めない。

4人ばかり居た職人さんもやめて行き、今では内輪だけで何とかこなしている。三代目の息子さんも後を継いでくれることになった。これからも掛川の人達の栄養源として食卓に上ることであろう。
1m位の長さに焼き上がった麩はこの機械で切断される。
麩屋久商店のご主人、松本幸一さん。
原料を入れて13分後天火のフタを開けるとふっくらと焼き上がった麩が姿を現した。
作られている麩は、まる麩、たまご麩など種類も多い。上に見えている機械は原料を練るためのもの。意外と小さいので驚いた。
堀内弘畳店(瓦町)
機械化されても畳を一から作れなきゃ職人にはなれないよ。

五代目の畳職人の堀内弘さんは、この町の畳屋に生まれ育った根っからの畳職人だ。初代がこの瓦町で商売を始めたのは、江戸末期の安政(1854〜1859年)の時代であった。以降、二代目、三代目…と職人気質は受け継がれ、もうすぐ六代目が誕生する。堀内弘さんは修行にこそ出なかったが、厳しい父親の前では甘えは許されなかった。

「ちょっと間違えたり、口答えをすれば、そのへんにある定規で張り倒されたもんだ。スパルタだったにぃ…アハハハ。今、この若い衆に(横で働いている息子さん)そんなことすりゃあ、反対にこっちがやられちゃう。」と言って笑った。しかし、息子さんに言わせれば、やっぱり厳しかったという。

「僕が高校を出てはじめたばっかりの時は、もちろん機械はあったけど絶対に使わせてもらえなかった。針に慣れるために一年間は縫う作業ばっかり。それも薄縁(うすべり)ばかり作らされて、畳なんてぜんぜんやらせてもらえなかった。その後は、床切りといって、包丁で周りを切ることばかりやらされました。だから機械がなくても一から手でやれます。」

たとえ世の中の機械化が進んでも、肝心な要所要所は手作業である。職人であることを肌で感じた息子さんは、一級技能士の免許ももらえたし、一生の仕事としての自信も付いたと言う。

「職人気質っていうのは、いいものを作りたい、人に負けたくないっていつも思っている。職人なんてバカなもんで、人に誉められりゃあ喜んでよけいにやるだけんが…」とは、五代目堀内さんの弁。長い歴史を守ってきた秘訣はこの職人気質が、次代にしっかりと受け継がれてきたことにあるかもしれない。


昔はリヤカーを引いて新しいわらを集めにいったもんだ。


農家の人達が「わらを買ってくれ」と言ってきたのは遠い昔のこと。コンバインが這うようにあちこちで動き回るようになってからは、一年分のわらを集めるのは不可能に近い。昭和35〜36年頃までは、農家の人達が売りに来たのを買ったり、リヤカーを引いて近在の農家へ買いに行ったりと、米の収穫時期には畳を作るよりも、新わらを集めるのに忙しかった。戦前のわらの値段は一貫目(3.75kg)あたり2銭か3銭。今は一貫目16円位。ちなみに畳1枚のの値段は戦前は35円。(戦後お米一俵と畳六畳分と交換したこともあるという。)今は7,000円〜8,000円である。

集めたわらは倉庫に入れられて、1年間は寝かして乾燥させる。そして、米が不作の年には、当然わらも少ない。そんな時には農家の家に置いてある俵までもらってきて、解いて使ったこともあるという。だが今はそんな必要もない。新潟とか富山の産地から床が入ってくるからだ。後は、必要な寸法に切って薄縁をかぶせて、縁を付けるだけだ。周りを縫うのも、切るのもみんな機械がやってくれる。但し、要所要所は手作業となるから、全ての工程をマスターしておかないと出来ない。

今の仕事は納期仕事だから、手でやっていたらとても間に合わない。「最初に機械を使ったときは、おっかなかった。早すぎて…。こんなもん使うより手でやった方がよっぽど早いと思ったけどねぇ。機械に慣れちゃえばこんな楽なものはない、こっちのほうがずっと早いからねぇ。」そう言って節くれ立った手を見せてくれた。布を切ったり縫ったりするのと違って、必要以上に力が要る。指の関節は太く、包丁を握り通している手は握りダコができていた。「昔はもっとがんこな手だった。今でもすごいけど、昔はもっとすごかった。指はあかぎれが絶えたことがなかったし…。」


新製品もあるが、わらで作る畳の方がよく使われているよ。


畳も今はスタイロ畳という新しい製品が出てきた。堀内畳店でももちろん扱っているが、依然としてわら製品の方が需要が多い。スタイロ畳は中に発砲スチロールが入っているので湿気には強い。しかし、よく使う部屋では真ん中がだんだんへこんでくるという。それに化学製品だから、灯油をこぼして中に染み込むとスチロールが溶けてしまう。

わらの場合、湿気には弱いが、しっかり作ってある物ならへこんでいくことはまずない。湿気のない所なら何十年でももつそうである。そして、わらは畳になっても生き続けていて、汚れた空気の浄化作用もあるという。
江戸末期から続く畳店の五代目堀内弘さん
六代目の息子さん
表(ござ)を藁で作った床に張るのは昔ながらの技法で行う。
包丁は毎日研ぐので段々小さくなる。右の小さい包丁は10年位使ったもの。
浜口瓦店(城西)
農業から瓦職人へ。


城西の逆川の堤防伝いに一本の高い煙突がそびえ立っている。その煙突からは月に2〜3回だけ、瓦を焼く煙がたなびく日がある。一人の農民が、田んぼ9反、畑3反、それに少々の蚕を捨てて瓦職人になった。浜口周平さん(65才)である。当時30才の働き盛りの時であった。自分の所で食べる分だけの土地を残して、半分は兄弟に譲り、そして後の半分を売り、そのお金を手に商売を始めた。

満水で瓦の製造をしていたおじさんの一言がきっかけとなった。そこに手伝いに行っていた浜口さんにおじさんは「やってみないか」と、話を持ち込んだ。そのあと直ぐに自宅の横の空き地に作業場を作った。


いくら作っても売れない。瓦が山積みになった。


当時、掛川には瓦屋が他に15軒ほどあった。しかし、始めたのはいいが、予想外の厳しい試練に何度やめようと思ったかしれないという。いくら作っても売れない。1ヶ月、2ヶ月…5ヶ月が過ぎても1枚も売れない。商売を始めた翌年の正月には一銭の金も手元になかった。

5人の子どもを抱えてひもじい正月の朝を迎えたが、たまたま来た知人が「本当に一銭の金もないのか」と言って、千円を置いてってくれた。その千円で何とか正月の三ヶ日を過ごすことが出来た。

商売を始めて5ヶ月が過ぎようとした頃、初めて瓦が売れた。遠方の人が上内田に家を建てるからと言って買いに来てくれたのである。「その時の嬉しさは口では言い表せない」と言った。それからは、徐々に売れるようになったが、相変わらず貧乏から抜け出す事は出来なかった。

子ども達に学校へ持たせてやるお金がないときは度々、セーターの袖口がボロボロになっても買ってやることも出来なかった。奥さんが10日間茶摘みの日雇いに出て、そのお金でようやくセーターが買えた。


瓦は飛ぶように売れたが、自分の家が灰になり途方に暮れる。


昭和40年頃は建築ブームで忙しかった。瓦は飛ぶように売れ、生活もなんとかゆとりが出来、家も長男夫婦のために増築した。しかし、これから今までの苦しかった分、楽をしようと思っていた矢先に、建て増ししたばかりの本宅が焼けて、全て灰となった。昭和41年12月の事であった。隣近所と西側の小屋が類焼を免れたことは不幸中の幸いであった。(この時には作業場は川を隔てた別の場所にあった。)

それからは死にもの狂いで働いた。朝は5時に起きて夜は11時まで、みんながテレビを見たり一家団欒のひとときを過ごしている間中、浜口さん夫婦はがむしゃらに働いた。建築ブームだったこともあって翌年の昭和42年6月には本宅を新築した。

火災で落ち込んでいたとき、ある先生が「捨てて勝て」という言葉を残していってくれた。「何もなくても、働けばなんとかなるから、もう一度頑張りなさい。」と言ってくれた。その言葉を支えに今日まで頑張ってきたと言う。


燃料はいろいろな人が持ってきてくれるから、その分安上がり。


15軒あった瓦屋はみんなやめていった。瓦を焼いているのは掛川で一軒きりになってしまった。ガスで焼けば便利で楽だからと、殆どの瓦屋が燃料をガスに切り替えた。しかし、今ではガスの値段が上がり、一窯焼くと5万円の燃料費が消えていく。その分瓦が高くなるなるから、大手の安い瓦が出て来ると太刀打ち出来なくなる。最近の不景気と重なって、ここ数年でみんなやめていった。

ここでも浜口さん夫婦の間で、何度か「やめようか」という相談がなされた。それでも機械の借金を抱えてやめるわけにはいかない。ガスに切り替えるのをやめたおかげで、燃料費がかからない。安く上がるので値段も下げられる。

浜口さんの作業場の前と隣が材木屋を営んでいる。廃材やらおが屑をせっせと運んでくれるので、そのおかげで燃料には困らないそうである。しかし、その分労力がかかる。朝の4時に火を入れて、夜の7時頃までは、付きっきりで火の番をしなけらばならないからである。

瓦は時間を掛けてゆっくり焼くのがコツである。そうしないといい瓦は焼けない。窯の温度は900度前後を保たせる。高すぎても低すぎても、瓦にすぐにヒビが入ったり曲がったりしてしまうからだ。焼きを失敗して全部捨てたこともあるという。

浜口さんの焼いている瓦は純日本瓦である。純日本建築の建物に日本瓦はよく似合う。風格と重みが増す。昔は「これ以上いい瓦は焼けないのか」と試行錯誤しながら焼いてきた・そして今は、本当に満足のいけるものが焼けるようになったという。

いい瓦は艶があって色が白い。つい最近までは、色をきれいに見せるために塗装を施したこともあるが、冬になるとヒビが入るので今はやっていない。私たちが見る限り、そんなことする必要が無い程きれいに焼けている。

今から20年程前、翌日焼くようにと、窯いっぱいに瓦を入れて焼くだけにしておいたものが、大雨と大水のために冠水して、窯の中まで水が入り全部溶けてしまった。焼く前の瓦はただの土だからである。

「次から次へと本当にいろんな事があった。今はその苦労が実って夫婦でのんびりと、いい瓦を焼くことに専念している。」と、しみじみ語ってくれた。今までは、ご主人も屋根工事を兼業でやっていたが、今は長男夫婦に任せているとのこと。
「私らが作った瓦を、長男が買ってくれる。」と、嬉しそうであった。浜口夫婦の二人三脚はまだまだ続きそうである。
高い煙突からは月に数回瓦を焼く煙がたなびく。
焼く前の瓦を詰めた窯と浜口さんご夫婦。
窯には1,800枚の瓦が入っている。
窯の中の瓦は間隔を開けて丁寧に積み込む。
焼き上がって出荷を待つ純日本瓦。
粘土質の土で成形した瓦を乾燥させている所。