駄菓子屋さん回顧録
Vol.23 1982年2月号掲載
近代的な建物が多くなっていく中で、未だに昔ながらの駄菓子屋を営んでいる店がある。軒が低くて中は薄暗く看板さえない店もある。外観は仕舞た屋風の古い家が多い。それでも、子ども達が学校から帰る頃になると、狭い店内は子ども達でいっぱいになる。

一個5円のあめ玉をはじめ、10円のキャラメル、ガムやお菓子、テレビで人気者のシールやくじ引きがいっぱい並んでいる。大型スーパーや新しいお店だと50円ぐらいは持っていかなければ何も買えない。だから子ども達は学校から帰ると近くの駄菓子屋にすっ飛んで行くのである。

どんなに時代が進んでも、子ども達の求めるものは同じである。家は帰れば母親が買い求めたケーキや一流メーカーのお菓子が用意してあっても、やっぱり子ども達は駄菓子屋へ向かう。自分で選んで買う楽しみを味わえるからだ。子ども達の独立心が駄菓子屋を支えているのかもしれない。

そして何よりも、そこは子ども達の溜まり場である。言い替えれば子ども同士の交流の場でもあるのだ。子ども達が大きくなったとき、必ず想い出として残るんだから、こんな大きな買い物はない。
イラスト:こまいやすこ 文:やなせかずこ 
駄菓子屋の今
昔はどこの街や村にも必ず一軒や二軒はあったのに、今では年々数が減ってきている。店を新しく建て直したり出来ず後を継ぐ人がいないいため止めていく店、都市計画で潰されていく店と、理由は様々であるが、こういった店が消えていくことは何とも惜しまれる。子ども達の夢がどんどん減っていくのである。

さて、東京の新宿のある駄菓子屋さんで、駄菓子の人気商品ベスト3を調査したところ、一本10円の「麩菓子」が第一人気だった。麩を砂糖でくるんである円柱状の長細い菓子である。この麩菓子も歴史がずいぶんと長い。私の小さい頃にもあった。当時も一本5円か10円だったように記憶する。色や形、値段と、昔からちっとも変わっていないのである。

そして、二番目が「うまい棒」しゃぶっていると、カレー味、ソース味、チーズ味がしてくるお菓子で、やっぱりこれも一本10円。三番目がこれも昔から有るビニール袋入りの「ジュース」一本20円で買える。

街はどんどん変化していくのに、駄菓子屋さんだけは、昔の思い出をそのままに残してくれているようだ。時々、子どもをダシについてくるお父さんもいるようだが、その気持ちよくわかるような気がする。

78%では、掛川にある駄菓子屋さんを通じての子ども達の生活実態、そして今も残る昔のお菓子、現在のお菓子を取材してきました。あなたも昔を懐かしみながら、今は年齢的に行けなくなってしまった駄菓子屋さんの思い出を掘り起こしてください。
なめ猫運転免許証¥20(くじ)
ふうせん¥30
左から水飴¥20/イカの串ざし¥10/ミルー丹¥10/麩菓子¥10/文化せん¥10/ポンポコゼリー¥30/100てん満点!¥20/UFO¥10
大手町「すいのや」
大手町の「すいのや菓子店」は25〜26年前に開店したお店で、50年配のおばさんが一人で忙しげに切り盛りしている。おでんやお好み焼きもやっているので、大人達も時々顔を見せるが、塾帰りの子ども達が圧倒的に多い。街の中にあるせいか、なかなか繁盛している。しかし、このお店もいずれは都市計画で店を削られてしまうので、「これから先ずっとやっていけるかどうかわからない」という。

おばさんから見た現在の子ども評

「昔の子どもより、今の子どもの方が金遣いが荒いね。それに、昔の子どもは自分達で体力をつけていたけど、今の子どもはお金で体力つけている感じだね。昨日も知り合いの人と話をしたんだけど…。昔は、なわとびやらまりつきやらやっている姿は、どこへ行っても見かけたけど、今の子はあんまりやらないねぇ。ほとんどみかけないもんね。ここに来る子も、ほとんどが塾帰りの子が多い。勉強、勉強でたいへんだねぇ。」
また、こんな事も本音かな?「10円のもんじゃぁ、もうけないねぇ。ありがとうの「あ」の字を言やあおしまいだよ、アハハハハ…。」

子ども達にインタビュー

最初に話しかけた3人連れの男の子達。やはりそろばん塾の帰りで「ほとんど遊ぶ時間が無いので、塾の帰りに寄るだけ…。」と礼儀正しく答えてくれた。小学生も高学年になると、途端におとなしくなって、礼儀正しくなる子どもが多い。

次に現れた3人組、いたずら小僧という感じだが好感がもてる。久々に子どもらしい子どもに会えた気がしてホッとする。
◆名前は?
「俺。河野しげき!」
「俺は、河原崎よしひこだ!江戸っ子だぞ!江戸っ子だ!」
河野「何が江戸っ子だ!」
◆いつもここに寄るの?
河野「俺、毎日来る。」
河原崎「俺、いつも図書館に寄るだよぉ。そいだもんで、たまに寄る。」
◆新しいお店には行かないの?
河原崎「大型店はね、うるさいだよぉ、ガミガミ。それに学校で大型店に行っちゃあいかんって言われてるもんで…。」
河野「それにね、こういうお店は楽しいし、ユーモアがあるしね。」
◆何でユーモアがあるの?
河野「だって、友達がいっぱい集まるしさあ、僕らの溜まり場じゃん。そいで、ここは飲んで食べるところ、アハハ…。こういうとこの方が安くて、うまいのっ!10円とかそういうものが多いもんで、たくさん買えるじゃん。そいでさぁ、大型店は100円とかさ、高いだよぉ。それにここのおばさんもいいおばさんだし…。」
◆学校から帰って家に寄ってそれから塾に行って帰りにここに寄るの?
河野「ウヒヒヒ…、遊びまくって、疲れてえ〜そいでここに来て食べて帰るじゃん。旅立っていく…。」
河原崎「こんど中学になる。」
河野「中学に、な・る・のっ。楽しいなあ中学は…。俺はよくオール5もらうもんで…。やい、浅井(後から来た)お前も入れ!インタビュー、インタビュー!。」
河原崎「何、言ってるだっ!明日が恐いくせに。」(どうやら明日は通信簿をもらう日のようである。)
◆ところでいつも食べているのは何?
河野「うまい棒が一番うまい。その次あめ玉とか、おでん、焼きそば。」
河原崎「うん、25円のおでんとか60円のコカコーラ。」
浅井「焼きそば!」
(この後で、しっかり店のおばさんに「インタビューでほめといたで、サービスしてよ」と言っていた。)
すいのやさんから買ってきたお菓子。クロチャン¥10、ライオンクリーム菓子¥10、クッピーラムネ¥20、マルカワのフェリックスガム¥10、スキスキコーラガム¥10。懐かしい所では黒糖でくるんである焼き菓子のクロチャン。普通は大袋に入って売られているがこれは一つずつ袋に入っている。そして、フ−センガムは1センチ位の厚さのガムで、中に当たり外れの紙が入っている、そしてクッピーラムネ、昔は5円だったが今は10円に値上げされた。確かフーセンガムも5円だったような気がするが、当たり外れの紙は昔のままだった。
城西の「たけや」
箱の当て物くじを引いてみた。一回30円。出てきたのは20円のガム。
城西にある「たけや」さんは正式な屋号はない。昔、竹を扱う商売を営んでいたため、いつの間にか「たけや」という名で呼ばれるようになったそうである。正式な屋号がないというところなんかも無欲というか駄菓子屋さんらしい。

今から30年位前、まんが本の貸本屋からスタート。一冊5円の貸本の評判も上々だったが、掛川大祭をきっかけに少しずつ駄菓子を仕入れてその2〜3年後には駄菓子を専門に扱うようになった。

「たけや」さんは、くじものが意外と多い。大きな箱の中が小さく区切られているくじものの形態も昔とほとんど変わっていない。昔から表面の破るところに描かれている絵や写真は、その時代ごとの子ども達の人気者で占められている。昔は赤胴鈴之助や白馬童子、月光仮面が、アラレちゃんやなめ猫に替わっているだけである。試しに30円払って、アラレちゃんの絵のところを破ってみると、中から20円のフーセンガムが出てきた。

駄菓子はほとんど流行廃りのない物が多いが、マンガや写真が売り物の商品に関しては、やはり流行があるようだ。特に最近は流れが急テンポで変化していくので大変だ。まごまごしているとすぐ廃れてしまうし、前もってたくさん仕入れても人気が無くなると売れ行きもバッタリ止まってしまうので商品が残ってしまう。タイミングが難しいのである。

取材の途中、5〜6人の子ども達が買いに来た。やはりくじ引きに人気があるようだ。小さい子ども達は店のおばさんに、50円分なら50円を先にお金を渡してから、その範囲で買えるだけ買っていく。「おばさん、50円ちょうだい。」と言って、自分の好きななものを選んでいく。懐かしい光景だ。駄菓子屋さんでなければ見られない光景である。そこにはほのぼのとした暖かさがあり、ふれあいがある。駄菓子屋の場合ほとんど親はついてこない。一人で来るか仲間で来るかである。子どもの自立心を養わせるのにも一役買っている。

小さい頃に、5円の三角くじを引いて、みつ豆の缶詰を当てたことがある。その時は随分儲けた気がして、友達のところへ行っては見せびらかして回った記憶がある。次の日も、また当たりそうな気がして、しばらくはその三角くじに夢中になったものである。大人が宝くじを買って、はかない夢を追い求めているのに似ている。

たけやのおばさんから見た子ども達

「昔の子どもは、店に入ってくるとき『ちょうだい。』と言って入ってきた。今の子は『ごめん下さい。』と言って入ってくる。しっかりしているのはいいんだけど、なんとなく昔の子の方が可愛かったね。」と、たけやのご主人。

たけやさんから買ってきたのは、東京新宿で駄菓子ナンバーワンだったという1本10円の「麩菓子」と、作っているのが浜松のおじいさんで今病気のためこれで荷が入らなくなるかもしれないという1枚10円の「文化せん」魚の形をしている。他に竹串に刺してある薄く削いだスルメみたいなものでこれも10円。そしてアラレちゃんから出てきたフーセンガム。今流行のなめ猫の「運転免許証」20円で、免許の種類は自二・人力車・うば車・モノレール・ロボットとなっていた。住所は東京都世田谷区サシミ町6-15トルコ龍宮ベットとなっていたが、どういう意味?
箱の当て物くじは他にもいろいろ揃えてあった。子ども用の指輪やネックレスもある。
仁藤「おとうろう」
掛川市内の現在ある駄菓子屋さんの中で歴史の古さでは一,二を競う仁藤の「おとうろう」さん。明治の終わり頃までは髪結いを営んでいた。今でも「とこば」さんと呼んでいる人もいるそうである。ちょんまげの時代の終わりとともに「とこば」さんも消えていった。その後、寿司屋を経て駄菓子屋に転向。低い軒に薄暗い店内の建物も、いつ頃建てられたのか、昔のままの面影を残している。

「おとうろう」さんの由来は、つい最近まで店の前に秋葉山の灯籠が建っていたからだと、近所の八百屋のおばさんが話してくれた。

お店の客層は、2〜3才の幼児から50〜60才代のお年寄りと幅が広い。「こういう昔の家って、入りやすいみたいで、大人の人達も気軽にボーンと入ってこれるみたい。」と店のおばさん。特にお年寄りにとっては、どこもかしこも新しく変化していく中で、ここだけが唯一の思い出の場所であり、心の中の故郷であるのかもしれない。
「懐かしいね、昔はよくここで買ったもんだ。何もかも昔のまんま…。」と顔をほころばせながら立ち寄っていくという。

人間というのは、年を追うごとに昔が懐かしくなってくるものである。この店の中で変化したものと言えば、目新しい商品が軒先に並んでいることぐらいだろう。奥まった所の窓際には、店で食べていけるようにとの配慮であろうベンチ式の椅子が造り付けてある。すぐその横ではおでんの鍋が湯気を立てている。

小学生の頃、学校のそばの駄菓子屋に寄り道して、おでんやお好み焼きの買い食いをして先生に叱られた事をふっと思い出す。その時のお好み焼きのおいしかったこと…。あそこの店のおばさん元気だろうか…懐かしさがこみ上げてくる。
「おとうろう」さんも、もうじき都市計画で壊されていく運命にあるようだ。救いようのない寂しさが胸を襲う。

おとうろうのおばさんから見た子ども達

昔はくじものもよくやったが、最近では子どもに知恵が付いてきたのか、外ればっかりで当たりが少ないからイヤっていう感じになっているので、今はやらない。昔の子は素直で可愛かった。もちろん今の子も可愛い子はいるけど、ちょっと何か言うと、つっかかって来るというか、反抗してくる子が多い。

おとうろうやで買い求めた、ビニール袋に入っている「人参」は中にお米をはざしたポン菓子が入っている(20円)昔ながらのお菓子だ。そして棒の付いた水飴が20円、最近のばら売り菓子でよく売れているというUFOは1枚10円、焼菓子をチョコレートでくるんである。
美人ヶ谷「あおいし」
今から50年前の代表的なお菓子と言ったら、豆板、ねじりんぼう、あめ玉、落花板くらいであった。一個1銭のねじりんぼう、あめ玉なら1銭で7個買えたそうである。黒い鉄砲玉が7個でやはり1銭。そして1銭で引けるくじ引きは最高で5銭の当たりくじがあったそうである。5銭の当たりくじが当たると5銭分のお菓子を自由に選べる仕組みになっていた。

当時のおやつは、芋の蒸かしたものやら豆を煎ったもの位だったので、子ども達にとってお菓子を腹一杯食べることは夢であった。一日に1銭か2銭の小遣いをもらえる子は良い方で、盆か正月くらいしか買えない子も大勢いた。2〜3人で1銭か2銭の小遣いを持って「わたし、これ買うで、あんたこっち買いない。」と、それぞれ違う物を買って、お互いに分けっこし、2〜3種類のお菓子を少しずつ味わう知恵を身につけていたようである。

お菓子も満足に食べることのできなかった昔の人たちは、より一層駄菓子屋に対する愛着と郷愁みたいなものを、深く感じているのではないだろうか。そして、これだけのお菓子の氾濫している現代の世の中で育っていく子ども達に、はたしてお菓子に関する思い出が残されていくのであろうか。今の子ども達の幼い頃の想い出として残されるものは、勉強、勉強で追いまくられたことぐらいかもしれない。

美人ヶ谷の「伊(かねい)商店」は青石のバス停前にあるので別名「あおいしの店」とも呼ばれている。掛川〜東川根(現在の掛川〜川根線)が開通したときに開店したので、かれこれ60〜70年も営業しているそうである。

田舎の駄菓子屋さんは、お菓子だけでは生計が立てられないし、他にお店もないので、種類は決して豊富でないにしろ、いろいろな物を置くようになる。ちょっとした日用雑貨にはじまって、練り製品や豆腐などのおかず類も必ず置いてある。今では、車でちょいと飛ばしていけば街の大型スーパーへ買い出しに行けるので、利用客も少なくなっているが、近在の人達にとって、集落で1軒か2軒しかないこういったお店は貴重な存在であった。今でも村人にとっては大切な役割を果たしてくれているのである。

伊商店が開店した当時は、付近にお店が一軒もなかったので、ほとんどの村人達が利用してくれた。だからなんとか生計も成り立っていった、しかし、現在はおばさんの小遣い程度にしかならない。家族からは「もうやめろ」と言われているそうであるが、「私が元気なうちはやっていきたい」と頑張っている。

ちょうどお店にやってきた中学一年生の中山正広君は「ここのお店にくると、おばさんと話をしたりして、楽しい。小さい頃から、小遣いをもらうと一人で飛んできて買いに来た。親戚の子なんかも遊びに来るとすごい来たがるので一緒に来る。」と話してくれた。


かねい商店のおばさんから見た子ども達

今の子は100円位もってきて、あれとこれを買えばいくらかって計算しながら買っていくが、昔の1銭か2銭の小遣いでは計算もなにもなかった。それに今の子どもは、甘い物はあまり好かないみたいだね。

私たちの小さい頃によく売られていた、たんきり飴(10円)が置いてあった。中にはやはり当たり外れのくじが入っている。そして鯛のポンポコゼリー(30円)や新しくなった30円のチョコレートが並べられていた。
下俣「よこすかや」
下俣にある「よこすかや」は、昔料亭であった。料亭を営んでいた頃の戦前には、掛川公園でよく相撲の公演が行われたそうである。そんな時には必ず、よこすかやにも割り当てで、何名かの力士が泊まっていったそうである。しかし、戦争直後には食糧事情が悪くやめていく料亭も多かったが、よこすかやも戦後間もなく駄菓子屋に商売替えをした。

今のおばさんは、5〜6年前に母親が亡くなったため引き継いだそうである。現在では一日の来客数は30人前後と少なくなった。それでもこの店を守り続けているのは「こういった昔ながらの店が少なくなった今、昔を懐かしんで来てくれる人がいるからやめられない。」という。「前の道がもうすぐ広くなる計画だから、そうなったら多分この店も終わりでしょうね。後を継いでくれる者もいないし、店をきれいにしてまでもやるともりはない。」とも語ってくれた。またひとつ、昔ながらの駄菓子屋さんの灯が消えていく…。

駄菓子の内容も、外装の漫画やデザインが変わっている程度で、今も昔もあまり変わっていない。一方の大型店には目新しい商品がおびただしく並んでいる。そんな大型店に押されているのは目に見えているが、それでも大型店にはくじ物がないので、そんなところで差を付けていくしかないとも言う。

よこすかやの中の入口左には、かき氷の機械が置いてあるが、これももう2〜3年前からやめてしまったとのこと。昔はどんぶり等の容器を持ってきては、いくらいくら氷をかいてくれとか、蜜を多くしてくれ、少なくしてくれといろいろと注文されたそうであるが、そんなところにも駄菓子屋さんの人情がうかがえる。そして、もうひとつこの店内にはおよそ似つかわしくない機械が置かれていた。コインゲームの機械である。業者が置いていったまま取りに来ないという。2〜3年前に子ども達の間で大流行したコインゲームも、学校からの禁止令により今は全く使われていない。


よこすかやのおばさんから見た子ども達

今の子は打算的で、すばしっこいですね。へたなこと言えばこっちがやられてしまいますよ。小遣いは一日平均100円位使うみたいですね。昔は、盆、正月、祭りなどの特別な日でも来なけりゃお菓子も買えなかったけど、今は正月も普通の日もほとんど変わりません。お正月だからと言って、特別たくさん買っていく子もないですね。

よこすかやで買い求めた駄菓子は、イカの足20円、黄な粉のついた棒あめ10円、シャボン玉30円。
倉真「学校下」
食料品やお菓子などをお買い求める大人の買い物客も多い。、
倉真の橋本屋さんは、倉真小学校の下にあるので別名「学校下」とも呼ばれている。ここのおばあさんは、他の人がやっていたこの店に32才を迎えたお正月にやってきた。以来42年間、当時5才と6才だったお子さんを育てながらこの店を一人で切り盛りしてきた。

当時は一間位(1.5〜2m)の長さの台の上にお菓子とジュースを置いただけの、なにも無い殺風景な店内であった。駄菓子は一日おきに町の問屋がリヤカーを引いて運んでくれた。今では。駄菓子に始まって、食料品から日用雑貨・文具の類までが所狭しと置かれて居る。専門店のない村の店は自然とそうならざるをえない。村人にしてみれば種類は少ないにしても町までわざわざ出かけて行くことを思えば随分と便利なお店に違いない。

夕方になれば主婦や子ども達、若い衆などがひっきりなしに訪れる。しかし、ここ数年前から、ノートなど文房具類は全て学校で揃えてしまうようになったので、ほとんど売れないという。「毎日ほこり落としでたいへんなだけ…。」と嘆く。それでも置かないわけにはいかない。それに、学校の登校途中に立ち寄ってはいけないという御触れまでおまけについたため、子ども達の数がグッと減ってしまったそうである。

学校から御触れが出た後のこんなエピソードがある。学校の先生が生徒達が行き帰りに店に立ち寄らないようにと門番(学校の出入り口の道のすぐ横に店がある)をしていたが、そのうちに門番をしていた先生がコソコソ買いに来たそうである。門番のおかげで子ども達のお客は減ってしまったが、「村の人達にはさんざん世話になったから、恩返しのつもりで続けている。」と、おばあさんは語る。
そして、他の店は改装したり新しく立て直したりしてきれいにしているが、橋本屋さんでは、店内だけは昔のままの方がいいからと、そのままにしてある。天井も床もみんなおばあさんの歴史が染みついている。

おばあさんには、思い出しただけでも涙が出てきてしまうという辛い想い出がある。
敗戦後の食料のない時代には、とにかく売りたくても売る物がなにも無かった。お金が無いから仕入れも出来ない。他の人が栄養失調になってはいけないからと気をつかっていたら、自分が栄養失調になってしまった。一番悪い時には立てない体で床を這いずって店番をしたという。上の息子さんがまだ7才の時、まだ何もわからない息子さんに店番を頼んだこともあるという。何度店を止めようと思ったかわからない。「でも、村の人達に助けてもらいながら、ようやくここまでになりました。村の人達、一人ひとりにお礼をすることは出来ませんが、こうしてお店を続けていく事で恩返しをしていきたいと思っています。」と、涙ながらに語ってくれました。


橋本屋のお嫁さんから見た子ども達

この頃の子どもはしっかりしているので、くじ物に人気がありますね。現金が当たるのもあるから、少しでももうけてやろうという考えが強いみたいですよ。

橋本屋さんには串カツという1本10円のお菓子があった。なかなかの人気で、薄〜いイカみたいなものにパン粉を付けて揚げてある。ちょっと硬いけどカレー味がして中々旨い。5本や10本くらい軽く平らげてしまいそうである。それから、硬くしたパンの葉面に砂糖を塗ってあるラスクはこれも歴史は長く、昔と全く変わらない味と形、1枚10円。最近の駄菓子で利子つきチョコレート「もうかりまっせ」があった。チョコレートの下に利子つきカードが入っていて、そこの3っの銀色の丸を削ると、10円、20円、30円、50円、100円、はずれの文字が出て来る仕掛け。当たりが出たら同額の商品と引き替えることが出来る。「はずれ」が出たら「ごめんね」という注釈つきだ。因みに購入した「もうかりまっせ」は3っともはずれでした。あめが1本5円、ジャンケンポンのせんべいが30円だった。
駄菓子だけではなく食料品や日用品などの生活雑貨などがと所狭しに置いてある。
左から、あめ¥5、串カツ¥10、ラスク¥10
「もうかりまっせ」は中のくじを試したが、
儲からなかった。


時代の流れとともに、古い物は取り壊されて、新しい物へと移り変わっていく。
小さい頃に遊んだあの河も、山もすべてが変わってしまった。
善かれ悪しかれ、これはひとつの歴史である。
駄菓子屋さんの、あの優しいおばあさんの笑顔を探し求めても、
昔を辿って歩き続けても、昔のことは還ってこない。
今日と明日が違うように、人々もまた、次々に歴史を作っていくのである。
78%は、人々に想い出を残して行きます。大切に、たいせつに保存してください。