掛川なんでも一番
Vol.18 1981年9月号掲載
今回の特集は「何でも掛川一番」を拾ってみました。たとえどんな物でも、どんな事でも一番と名が付けば、たいしたもの。立派の一語に尽きるのです。

さあ、あなたの身の回りをグル〜リ見回してください。意外や意外、こんな事も、こんな人が、と気がつくかも知れません。気がついたらすぐに78%にお知らせ下さい。なお、この記事は78%が独自で調べ上げたものですので、間違い等ございましたらお詫び致します。
イラスト:こまいやすこ 文:やなせかずこ
掛川なんでも一番
掛川で一番高い場所 八高山・白光神社(標高832m)

掛川の最北端にそびえ立っている八高山は標高832mあります。その頂上には白光神社が建っています。ちなみに小笠山は264.4mですから3倍以上の高さになります。


掛川で一番低い土地 曽我地区・領家(海抜18m)

高い所があれば必ず低い土地もあります。調べた結果、曽我地区の山水電気周辺が海抜18mと一番低い。大雨が降った後など、家と大きな木だけが見えるといった状態がしばしば。周辺はまるで湖と化す。


掛川で一番人口の少ない集落 明ヶ島(13人)

掛川市の人口は少しずつではあるが年々増加している。にも関わらず、山間部の住民は都会の便の良い所へと移転しているため、年々減少しているのが実情だ。人は自然にいろいろな面で便の良い所へ集まってくる。交通の便が悪い村や、生活するのに不便なところはどうしても捨て去るを得ない状態に追い込まれる。幼い頃から住み慣れた土地を離れていかなければならない寂しさは当人達にしかわからないだろう。

明ヶ島は掛川市の最北端にある集落である。大尾山からかなり奥に入り込んでいて、昨年の夏明ヶ島キャンプ場へ取材に行ったときには、すでにかなりの家が空き家になっていた。村は静まりかえって、子どもの姿をついに見ることができなかった。昭和56年7月1日現在、5世帯で人口は13人しか居ない。


掛川で一番古い木 上垂木六所神社近くの大杉(樹齢約千年)

掛川市内から大池を抜けて北上し上垂木に入ると垂木川が流れている。その川を渡ると六所神社がある。神社前の道路に接してそびえているこの古木は、約1000年もの長い間生き続けている。いろいろな歴史を刻み込んでいるこの古木、人間社会の変わり様を果たしてどんな気持ちで見てきたのか聴きたいものだ
明ヶ島の民家
六所神社と道沿いにある大杉
掛川で一番大きい木 八坂事任八幡宮の大杉(樹高約36m)

掛川市内から国道一号線を静岡方面に向かって走って行くと、日坂峠に差しかかる手前にある事任八幡宮。その本殿の東奥に、樹齢700年以上といわれる大杉がそびえ立っている。樹高は36.5m、根回り11.2mもある見事な大きな杉の木である。下から見上げても天辺が見えない。


掛川で一番大きい池 上垂木・桜木池

掛川に池(ため池)と呼ばれているところは、大小合わせて300ヶ所以上あると言われている。その中でも最も大きな池は、上垂木の知連地区にある「桜木池」で貯水量は約205,000トン。


掛川で一番小さい池 東山口・木の下池

反対に一番小さな池は東山口の影森にある「木の下池」で、貯水量は約200トン。

事任八幡宮の大杉
掛川で一番古い民家 旧日坂宿・川坂屋(築130年位前)

旧日坂宿には江戸時代の初期に、東海道五十三次が設けられ、小夜の中山や大井川の川止めなどの時に日坂の宿に宿泊する旅人が多くなった。32軒もの旅籠屋(はたご・旅人宿)が建ち並び、増減することなく明治まで栄えていた。

現在はその殆どが新しい住宅に建て替えられ、昔のままで残っているのは川坂屋という屋号で呼ばれていた旅籠屋だけ。川坂屋の所だけ、わずかに昔の面影が残っている。120〜130年前に建てられたというこの旅籠屋は、古くても未だにどっしりと構えている。昔の建築の素晴らしさを垣間見た気がする。さしずめ現在のプレハブ住宅などは足下にも及ばない。

さて、この川坂屋は、国道一号線が開通するまでは、400坪もある広いお屋敷だったそうだが、一号線が川坂屋のど真ん中を突っ切ったため、道路を挟んで両側に分かれてしまった。現在は100坪くらいになってしまったそうだ。惜しい…

旧日坂宿の川坂屋
掛川で一番地価の高い土地 南西郷・ジャスコ周辺

最近の土地の高いのには恐れ入るところだが「掛川で一番と値が高いのはどこだろう」と興味だけはある。一坪もてるかどうかあやふやな状態の貯金通帳の額とにらめっこしながら「将来は一番地価の高いところにビルを建てたい」と意気込みと希望だけは掛川一というレターハウスです。さて、55年10月の静岡県地価調査によると、南西郷のジャスコ周辺が1平米148,000円(坪あたり488,000円)と一番地価の高いところです。


掛川で一番地価の安い土地 北部の山間部

逆に、地価の一番安い所ってどこだろう。北部の山間部一体は1平米50円(坪あたり165円)と安い。これなら手が出せると思ったら大間違い。山の場合、50坪とか60坪と切り売りしてくれない(と思う)ので、買うには一山買わなければならないので、これもどうやら無理みたい。なかなか地主にはなれそうにない。


掛川一の高級茶 東山・山東製茶工場製造茶

掛川の特産品と言ったら、なんといっても「掛川茶」。お茶の品質に立地条件は大きな役割を果たしている。昔から、特に霧の発生するところでは良いお茶ができると言われている。東山地区はそういった立地条件にも恵まれ、また専業農家も多いために高品質のお茶が次々と生まれる。52年度、55年度と二度にわたって「全日本お茶品評会」で農林大臣賞を受賞したという東山のお茶は、やぶ北の深蒸し茶。昨年受賞したお茶は、なんと1キログラムで256,780円(単位を読み間違えないように)という値段で落札されました。「味よし、香りよし」の最高級茶ですが、一般市民の口にはなかなか入りそうにない。ちなみに、大臣賞受賞のこのお茶の生産量はわずか10キログラムだけです。


掛川で一番古い車 連雀・疋田医院のダットサン860cc

疋田医院のダットサンは1956年式、もう25年も乗っている勘定になる。疋田医院の奥様が免許を取得したのをきっかけに新車で購入。冬の寒い日を除けばエンジンもすこぶる快調で1回でかかるそうだ。ナンバープレートには「静5 す1485」と書かれている。ナンバーからしてもそんじょそこらにある代物では無い。県下でも珍しいそうだ。「大事にのれば車なんて何年も乗れるものですよ。」とは奥様の弁。なるほどと感心ばかりもしていられない。自分の車は新車で購入してまだ3年。みすぼらしいのなんのって恥ずかしい限り…。ちなみに疋田医院の奥様は25年間無事故・無違反で県から表彰されています。見習わなくっちゃ!


掛川で一番古いトンネル 青田隧道(明治28年)

上張と板沢の間に、陣馬峠という小さな丘がある。この丘の下に隧道が完成したのは明治28年(1895年)のことである。陣馬峠はその昔、高天神城の信号所として大切な役割を果たしていた場所でもある。この隧道は青田隧道と呼ばれ、長さ222.6m巾4.5mの薄暗いトンネルである。当時から近年までこのトンネルのおかげで交通がスムーズに流れるようになった。現在はそぐ隣に広くて明るいトンネルが出来たため、ほとんど通らなくなってしまったが、たまには昔を偲んで通ってみるのもいい。


掛川で一番長いトンネル 大和田トンネル(387.5m)

上張と板沢の間に、陣馬峠という小さな丘がある。この丘の下に隧道が完成したのは明治28年(1895年)のことである。陣馬峠はその昔、高天神城の信号所として大切な役割を果たしていた場所でもある。この隧道は青田隧道と呼ばれ、長さ222.6m巾4.5mの煉瓦造りの薄暗いトンネルである。当時から近年までこのトンネルのおかげで交通がスムーズに流れるようになった。現在はすぐ隣に広くて明るいトンネルが出来たため、ほとんど通らなくなってしまったが、たまには昔を偲んで通ってみるのもいい。


掛川で一番狭い県道 倉真-金谷線(2m弱)

倉真温泉より松葉を経て金谷方面に向かって車を走らせていくと、道幅がだんだんと狭くなっていく。路面も舗装されていない所もあり、農道と間違えそう。道幅約2m弱の正真正銘の県道です。

駅前通りにあるジャスコ
掛川なんでも一番(人物編その1)
掛川男性ドライバー経歴第一位 西町・早瀬春一郎さん

早瀬さんは掛川タクシーの社長さん。大正12年(1923年)7月13日に免許取得以来60年近くも運転されていることになる。当時は車の台数もごくわずかで、免許取得の手続きも非常に簡単に取れたそうだ。早瀬さんは東京で家庭教師をしながら、病気のためにある大きな病院に通院していた。その時病院の医院長にすすめられ免許をとることになった。そこの病院の車を借りて警察に行き、警察署の広場で少し乗ってみせただけでもらえたそうだ。まだ車に慣れていないために「あんまりうまくないなあ」と言われたそうですが「静岡の田舎で乗るから」と説得して見事パス。以来60年無事故を守り続けている。


掛川女性ドライバー経歴第一位 城西・小林うたさん

現在75才になられる小林さんは、掛川ではちょっとした有名人。昭和4年(1929年)4月4日に運転免許取得後、昭和6年には自家用トラック運送事業所の免許まで取得し、トラック運送会社を設立。自らトラック運転手として働いた。今でこそ女性トラッカーは珍しくないが、当時としては注目の的だったようだ。以来終戦後までトラック運転手として頑張ってこられた。現在は家族から「危ないから」と、運転を止められているのであまり乗らないようにしているそうだが、たまに自分の用事で出かけるときには、家族の車を借りて走らせているとか。昔取った杵柄で張り切っているおばあちゃん。昔は無免許運転をしてもあまり厳しくなかったようで、免許取得前でも走り回っていたようです。免許証も、県庁で実地試験を受け、一ヶ月後掛川警察署で筆記試験を受けただけで一度で見事パス。なんともうらやましいおはなし。


掛川長寿第一位 大手町・河村イクさん(満百才)

河村イクさんは昨年の12月6日に満百才の誕生日を迎えられ、今年の12月6日で百一才になられる。まだまだお元気で、耳と目が不自由なところを除けば、至って健康なおばあちゃんです。掛川で河村さんに続くのは、97才のおばあちゃんが一人と、96才のおばあちゃんが二人いらっしゃいます。おもしろいことに掛川市の年齢別人口の男女比を見てみると、上から52才まで全て女性上位になっています。なぜか女性の方が長生きしているようです。これは女性の優しさ、思いやりの表れだと解釈してほしい。大切な夫や子どものために「長生きしなくちゃ」と頑張っているのです。


棒高跳びの掛川一 上内田・栗田典彦くん(4m50cm)

中学1年生の時から棒高跳びを始めて、中学3年生の時「全国ジュニア大会」に出場して、4m10cmを跳び見事一位という勝利を得た栗田君です。それ以前の「東海大会」の時には4m40cmで中学の新記録を出しています。現在も8月1日で4m50cmと、着実に記録を延ばし続けています。


掛川一の太鼓打ち名人 葛川・鈴木常吉さん

9才の頃から太鼓を打ち始めて50年。掛川で太鼓を打たせたら右に出る者はいないと言うほどの太鼓打ち名人。今掛川はもうすぐはじまる祭りを前に祭り気分一色。鈴木さんの太鼓の音が響き渡るのももう間近。


掛川で一番多い苗字 鈴木(975世帯)

電話帳で調べたので正確な数字ではありませんが、掛川で一番多い苗字は「鈴木」さんでした。全部で975軒。一軒当たりの平均家族人数が4人とすると3,900人が鈴木を名乗っていることになる。掛川では100人中6人が鈴木さんなのです。大衆の中で叫ぶときには気をつけましょう。さて、次ぎに多いのが「松浦」さんの619軒でした。ちょっと意外な結果でした。


掛川一の子だくさん 日坂・牧野幸江さん(8人兄弟姉妹)

日本の平均的子どもの数は二人。一人っ子でわがまま一杯に育てられ自主性の無い子ども達がぞくぞくと増え続けている昨今、一人っ子にとっては羨ましい様な家族がある。兄妹8人が手を取り合って生活している姿は何とも微笑ましい限り。「毎日、もめ事(兄妹ゲンカ)も多いけど楽しいですよ。何かあったときにはお互い協力し合っています。」と次男の収宏(かずひろ)君。現在長男の広一さん(24才)は東京に、長女の伸子さん(22才)は嫁いでいかれたので、家には次男の収宏君(18才)、三男の稚通君(17才)、次女の洋子さん(14才)、四男の安彦君(12才)、三女の礼子さん(11才)、四女の早苗さん(8才)の6人がいます。


掛川一の笛吹き名人 南西郷・塚本幸一さん

屋台笛を吹き始めて50年。それ以前は舞台笛を吹いていたという塚本さんは今年で76才。コツさえ心得ていればいくら年を取っても呼吸が苦しくなることは無いそうだ。また、塚本さんは趣味で笛や太鼓も作っているが、こちらもその出来栄えは掛川一に値する。
西町の早瀬春一郎さん
大手町の河村イクさん
葛川の鈴木常吉さん
南西郷の塚本幸一さん
掛川なんでも一番
掛川で一番珍しい木 居尻・大尾山の鳥居杉

大尾山(670.9m)の観音堂の前にそびえ立っている鳥居杉は樹齢千余年。その間に落雷のため木の幹が腐り空洞となって、十数メートルの高いところから根を生じて地面に達して養分を吸収している非常に珍しい杉の木。その形から鳥居の名が付いたという。昭和32年6月に静岡県の天然記念物に指定された。


掛川で一番広い公園 掛川公園 3ヘクタール(30,000平米)

都市公園(市で管理している公園)は市内に21カ所あります。一番広い公園はなんといっても掛川公園。その広さは3ヘクタール。なお、現在建設中の大池公園が出来上がればそちらが掛川一となる。広さは13ヘクタールで、多目的体育館(スポーツの他にコンサートや集会所などとしても利用できる)、多目的野外広場、等の他に駐車場も完備される予定。但し、全て完成するのは1995年の予定なのでまだ14年も先のお話し。


掛川で一番狭い公園 下俣・花崎公園(1,200平米)

掛川西中学校のそばにある花崎公園は1,200平米というミニ公園。小さくとも公園に変わりなし。掛川市民の憩いの場として近くの方々に利用されています。


掛川で一番ののっぽビル 南西郷掛川駅前・高さ32m8階建て

掛川市の玄関、掛川駅前に8階建て、高さ32mのビルが今年11月に完成する。1階から8階までは展望エレベーターで上り下りするようになっている。このビルがオープンするようになれば文字通り掛川一ののっぽビルとなるわけで、掛川にどんな明かりが点るか楽しみだ。(掛川スーパー所有で現在は名称未定)


掛川で大きな事故が一番発生する場所 日坂国道1号線

国道一号線の日坂峠は緩いカーブが多く、信号も無く2車線になっているため力のある車はついスピードが出がち。特に深夜になると車の通りも少なくなるのでスピードを競い合ったりする車が多くなり非常に危険。死亡事故の多い所です。また、小さい接触事故などは市街地の駅通り、連雀、中央町の周辺に集中しています。


掛川で一番寿命の短かった橋 大手町・大手橋(15日)

逆川に架かっていた大手町の大手橋は、明治33年(1900年)11月2日に完成した。ところが同年11月17日の豪雨によって、わずか15日にして城西の明治橋と共に流失してしまいました。天災は実に恐ろしい。


掛川で一番大きな火事 西町で194戸

明治33年〔1900年)1月4日、西町より出火した火の手は、中町から連雀そして緑町へと延焼していき、188戸を全焼・6戸半焼させるという大火が発生した。なお、当日は消防組の出初式であったといわれ、この時以来出初式を1月6日にしたと伝えられている。その後昭和53年より1月4日に戻った。
《当時の文章より》午前4時頃掛川町西町寄席海望亭ヨリ出火ス〔原因興行后使用ノ座布団ヨリ)折柄ノ西烈風ニ煽ラレ飛火甚シク数ヶ所ニ発火 全町乃東ハ連雀中央ニ及ヒ緑町延焼シ戸数百八十八戸ヲ焼失 半焼六戸ニ及ヒタリ 富田当消防組ノ出初式ノ日ナリシ 掛川警察署ハ本火災ニ類焼セリ(原文のまま)
それ以前にも明治5年12月28日に連雀町で大火があり、中町に延焼し150戸が焼失。明治9年6月16日にやはり連雀町より出火し中町に延焼し130戸が焼失している。昔はひとたび火災が発生すると大きな火災になりうる条件が揃っていたようだ。地震・雷・火事・親父(近頃はおやじより母親の方が恐ろしい?)とはよく言ったものである。近頃これに原子力が加わってもっともっと恐ろしい時代になりつつある。


掛川で55年度火災発生の一番多い地区 西山口、曽我 各4件

昨年は消防署が出来て以来一番火災件数が少なかったようですが、それでも大小合わせて36件の火災が発生しています。その内の8件が西山口地区、曽我地区で占めています。火事の原因が最も多いのが、たき火とたばこによるもの。個人個人が気をつければ防げるものがほとんどです。普段の火の取り扱いに気をつけましょう。


掛川で一番人口の多い町 城西・1,625人

宅地指定区域になって急激に人口が増えてきたのが城西。昭和56年(1981年)7月1日現在440世帯で1,625人が住んでいる。


掛川一日本一(?)の大笛 八坂・事任八幡宮(長さ2.4m)

昭和29年〔1954年)に竹友会(笛を吹いている人達の会)の会員が全員(20人位)で、2日掛かりで制作に当たったという竹笛は、長さが八尺(2m40cm位)もあります。倉真の杉山勝美さん(現竹友会会長)宅の裏山にある一番太い竹を伐採して作ったもので、口を当てる穴は片方の足がスッポリ入ってしまう程大きい。また、指で押さえる部分も腕がスッポリ入ってしまうそうです。未だかつてこの笛を吹いた人は一人も居ません。そして、この笛はすぐに事任八幡宮に寄贈され、現在も奉納してあります。


一番始めに電話が引かれた日 明治41年(1908年)8月1日

一番最初の電話機はテレビでよく見かけるハンドルをガリガリ回す式のものでした。仕掛けはハンドルをガリガリ回すと、交換台にある磁石式の板が落っこちるようになっていて、落ちた板によってどこからかかってきたが判るようになっていて、交換手が出たら相手の番号を伝えると繋げてくれるというような仕組みでした。明治41年4月6日に、掛川郵便局で初めて電話による通話事務が開始され、同年8月1日に電話交換業務が開始され、一般の加入者が53本ありました。仁藤にある桝忠もその53本の中に入っていて電話番号は22番でした。その他はどこに引かれたのかは資料が無くわかりません。なお、郵便局から電報電話局に替わったのは昭和24年(1949年)7月1日のことです。


掛川で一番最初に公衆電話が設置された所 掛川駅前

公衆電話なるものが初めて設置された場所は掛川駅前。昭和10年(1935年)3月31日の事です。この頃から、ようやく庶民の間でも使われるようになって来ましたが、それでもまだまだ縁遠いものであったようだ。


掛川に最初に電気が引かれた日 推定明治40年(1907年〕頃

日本に於ける白熱灯の始まりは明治18年(1885年)11月29日に、藤岡市助という人が自分の設計した国産移動式発電機を用いて、東京日本橋の東京銀行集会所開所式に、白熱灯を40灯点灯したのが最初といわれています。それから12年後の明治40年頃に掛川町新町に「松阪水力電気(株)遠江支社」が設置され30KWの火力発電によって掛川町と西方村〔現菊川町)に供給されるようになった。掛川の電灯点火日は記録に残っていないが、西方村の電灯点火日は明治44年(1911年)7月21日だった。


掛川の信号機取付第一号 大池交差点・昭和41年〔1966年)

現在、市内の信号機は押しボタン式を含めると全部で51機あります。そして、掛川で初めて信号機が付けられた場所は国道一号線の大池交差点。昭和41年1月14日に初めて掛川に信号機が登場しました。昭和44年3月22日に二瀬川の交差点に設置されるまではその3年間信号機は一台だけだったということです。今では考えられない事で、少し走れば「また信号!」なんてこともなく交通もスムーズに流れていたことと思が、信号に慣れていない人達が、まごまごしている姿が目に浮かぶ。信号に歴史が意外にも浅いということも知った。


掛川一深い井戸 掛川公園の霧吹井戸(深さ約50m)

掛川公園内の頂上にある霧噴井戸は深さは約50メートルもあり、その底面は近くに流れる逆川の水底と同じだと伝えられています。
「この井戸は昔『覗かずの井戸』といって覗いて見ることを禁じられていました。天亀天正の頃であったろうか、この城に対して敵兵が押し寄せてきた。『おう、小癪な、一もみにせよ』城兵は勇ましく城の門から出て戦った。しかし、敵の兵は多勢で城兵は次第に攻め立てられて、ついに城中に追い込まれてしまった。城兵は多くの死傷者を出し残りの武者も少なくなってきた。守将は『もうこれまでだ全員打って出て斬り死にか、白旗を掲げて降参か、それとも火をかけて自刃するか』と最後の決を幕僚に計った。幕僚たちも死に恥をさらすよりは『火をかけて自刃』と決意し、将にその行動に入らんとした。と、不意に天守閣の前の井戸から、もうもうたる白霧が吹き出てきた。そして霧は見る間に城を包んで。一寸先も見えないようになってしまった。敵の兵は攻めることができない。『うっかりすると逆襲を受けるぞ。気をつけよ』と軍を納めて早々にしりぞいた。今ならさしずめ煙幕戦術である。これ以来この井戸を霧吹井戸と呼ぶようになって、その神秘さに人の覗くのを禁じたそうである。(遠州七不思議より)
大尾山の鳥居杉
事任八幡宮の大笛
掛川なんでも一番(人物編その2)
掛川一のルービックキューブ6面合わせ135秒 倉真・宮原勝さん

昨年暮れから世界的ブームをさらったルービックキューブも最近では衰退の一途を辿っている。最初は一面、二面が合わせられただけで得意になっていたのに、雑誌で六面あわせの図解入り説明書が出てきて、六面あわせが出来るようになると、今度は時間を争うようになってきた。過去のルービックブームを振り返って、昨年暮れに3分の壁を破ったという宮原さんをご紹介します。ルービックキューブを始めて一ヶ月半というスピードで六面あわせに成功。3分の壁を破ってからは、ひたすらタイムを縮めることに専念。そして、ついに135秒の成果を収めました。


ルービックキューブ6面合わせ最年少 新町・松井大介くん 8才

今年のお正月にルービックキューブを買ってもらった大介君は、毎日毎日ルービックキューブとにらめっこ。本も何も頼らず、自分の力だけで六面あわせに成功。始めてから2〜3ヶ月で出来るようになったというから凄い。タイムも3分くらい〔180秒前後)と大人顔負け。大介君は現在9才になりました。まだ、一面が合ったぞ!と喜んでいる人は、努力を!


55年度高額所得掛川一 原川・三浦律男さん 7,091万円

三浦さんは三浦医院を経営している方で、掛川市内では昨年に引き続きトップの座を維持している。55年度の所得額が7,091万円也。なぜか、高額所得の上位を占めているのはお医者さんばかり。不景気なんてどこ吹く風のお医者さん。ああ、うらやましい。子どもを医者にしたいという親が増えるのも無理のない話。


日本一髪結い 研屋町・夏山いちさん(故人)

17才で富士市に修行に出て以来、70才になるまで約50年間以上もの長い間、髪結い一筋に生きてこられた夏山さんは、昨年4月26日に86才で亡くなられました。夏山さんは大正初期から、日本髪を主に手がけてこられましたが、昭和29年(1954年)の「全国かつら十日会」のコンテストで、見事第一位を獲得されました。


世界に名だたる彫刻家 西町・鈴木淳さん

西独シュッセルドルフで開かれた「現代彫刻コンクール」で掛川市西町出身の鈴木淳さん(34才)が一位という快挙を成し遂げて、副賞として百万円相当の研修旅行をプレゼントされた。東京芸術大学中退後、シュッセルドルフ工芸大学で現代彫刻を学び1975年に卒業。その後もシュッセルドルフ市で創作活動を行っています。


掛川出身の有名芸能人 西町・伊東史朗さん

昔、掛川市が掛川町だった頃、東山村から燃料の薪をもらった。ところがお返しに掛川町からは何もあげる物が無いということで、掛川第一青年部の人達が演劇部を結成して、東山村へのお礼として劇を演じた事があった。
その時に兄の伊藤祥蔵さん(現在西町在住)が主役を演じて、子役として弟の輝男さん(伊東史朗さんの本名)が引っ張り出された。まだ掛川第一小学校の生徒だったのに芸が光っていた。以来、方々へ行っては演じていたが、やがて東京の高校へ進み上京。その時、新宿のフランス座というストリップ劇場に日参。ストリップはそっちのけで、その間にやる軽演劇を夢中で観ていた。軽演劇がはじまると目をランランと輝かしている姿が劇団の人の目に留まり楽屋に呼ばれた。それがきっかけで石井均一座に入るようになり、以後「てんぷく笑劇場」などに三波伸介らと共演。人気も急上昇。
伊東史朗さんは昭和12年6月生まれで5人兄妹の4番目〔三男)で、現在は東京都調布市深大寺に住んでいます。
倉真の宮原勝さん
夏山いちさん(左)
鈴木淳さん
伊東史朗さん

今月の特集「掛川何でも一番」いかがでしたか?掛川版ギネスブックのつもりで拾い上げてみました。もっと多くの情報を集めたかったのですが、短い期間に加えて少人数で記事を集めたので、このくらいで納得して頂きたいと思います。そして、まだまだ一部の人しか知らない事がいっぱいあると思います。これを機会に読者の方々からの情報が集められればと期待しています。一つ一つは、関係している所に行けばすべてわかることばかりです。それを記事として纏め、そして自分達の住んでいる周りのことを掛川市民が意識してくれるだけで大いに意義があることだと思います。