祭り彼方此方
Vol.20 1981年11月号掲載
夏が過ぎて秋を迎える頃になると、どこからともなく笛や太鼓の音が聞こえてくる。

この音色の中にはなぜか遠い昔を偲ばせ、故郷を離れている者には郷愁を感じさせる目に見えない、何か不思議な力が潜んでいるような気がしてならない。

住民達は一年に一度だけ巡ってくるお祭りを精一杯盛り上げて楽しもうと、一ヶ月も前から準備を始めるのである。

お祭りは土地柄によって様々なやり方があり、伝統や歴史も様々である。それぞれの土地の風習や習わしを垣間見ることも出来るのである。

(今号は市内から離れた郊外の祭りを中心に、後半では市内の一部を取材してみた。)
日坂地区古宮の屋台と青年衆
文:やなせかずこ 
日坂事任八幡宮祭
夏も終わりを告げ、秋に足を踏み入れた途端に、日坂・八坂のお祭りが始まる。他の町より一足早く祭りが訪れる。住民達は、祭りの期間中だけはむき出しの姿をさらし出し、村は祭り一色となる。ゆく夏を惜しむように、村中に祭り囃子が響き渡る。


わかれわかれになった日坂・八坂の屋台

日坂の事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)は1200年という長い歴史を持つ由緒ある神社である。お祭りの歴史も古く、270年ほど前に御輿が作られ、古宮と下町の屋台は170〜180年の年数を経ている。

どんなことでも人間から人間へ受け継がれていくというのはたいへんな事である。なのに、祭りだけは違う。なぜか後継者は後を絶つこともなく、途中で中断されても、また復活するのである。

話が逸れてしまったが、事任八幡宮の氏子は、日坂地区(古宮、下町、本町、川向)と八坂地区(宮村、塩井川原、影森、海老名)である。

なのに、今は国道一号線の規制がやかましく、一号線で屋台を曳いてはいけないことになってしまった。そのため現在は、日坂地区と八坂地区は別々に屋台を曳いている。ここも少しづつ昔の良さが失われつつあるのである。

事任八幡宮の境内には露天商が建ち並び、安全祈願をする者、露天でアメや鯛焼きを買っている者、大人から子どもまでたいそうな賑わいである。遠くで屋台のお囃子の音がテンツク、テンツク…と鳴り響いている。

八幡宮の境内に巫女さんが4人、棒アメを舐めながら何やら話し込んでいる。そばに寄って写真を撮り、年齢を尋ねてみると、小学6年生と中学2年生であった。化粧の下にあどけない童顔が覗く。これから舞台で踊りを踊って、夜には着替えて屋台を曳き、日坂祭り最後の夜を楽しむとのことである。


昼間の間10人足らずでは上り坂も一苦労

八坂地区で宮村の屋台を曳いているのは、どういうわけか10人足らず…。子どもと付き添いの人達が、別の屋台を曳いて先に行ってしまったために、残るは青年衆のみ。

ちょうど上り坂になっているので、なかなか前に進まない。どこの屋台も昼間はかけ声が弱々しい。前夜の疲れが残っているのか…。しかし、あたりが暗くなってきだすと、俄然のってくるものである。特に今夜は最後の夜ということもあって、最高に盛り上がりそうだ。

170〜180年を経た由緒ある屋台を曳いている日坂地区の古宮は、30人前後の青年衆で乗りにのっている。取材途中の私たちが行くと、盛大な拍手と拡声器で出迎えてくれた。いやがる(?)私に、無理矢理お酒をついでくれた方、ついでにもう一杯ほしかったな…。(9月15日取材)
古宮の屋台には見物客も多かった
露天が立ち並ぶ事任八幡宮の境内
巫女さんたちは小学生と中学生
坂道を上がる八坂地区の宮村の屋台
孕石の天神社祭り
石段を上がると天神社がある
法泉寺温泉より北に4〜5キロ、掛川一長い大和田トンネルを抜けるとすぐに原泉という集落にたどり着く。(そのすぐ北は原野谷ダムになっている。)原泉の中に世帯数わずか13戸という孕石(はらみいし)の集落があり、この一画に「天神社」が祀られている。毎年2月25日と9月25日に祭りを行っているが、はたしてどんなお祭りで、どんな風におこなわれているのであろうか?


子宝は100%だ!?

天神社は子授け神社である。10年位前までは祭典の当日になると、神社周辺に10店舗ほどの露天が並び、村から出家した人達が帰ってきたり、子どもに恵まれない人達が大勢つめかけ、静かな村は一変して賑やかになったそうである。しかし、年々祭典に訪れる人も少なくなり、かろうじて孕石の住民の人達の手によって守り継がれているのが現状である。

祭りといっても派手な儀式もなく、神社内で人々が集まり祝詞(のりと)を唱えるぐらいである。参加者は13戸の各家から1名づつ天神社に集まり、時々近隣の部落の人や、子宝祈願に来る人達が訪れるるが、平日のため子ども達の姿が無い淋しいお祭りである。

天神社の周りには古来より小石が生まれるという大岩があって、子どもの出来ない人がその小石を持ち帰って祈ると子どもが授かるという不思議な言い伝えが今も残っている。そのため、普段の日でも子宝に恵まれない人達が、この噂を聞いて、遠方より訪れては祈願していくそうである。その後、子宝に恵まれた人達は子どもの写真と共に、持ち帰った小石を返しに来るのである。

大岩は小石(表面に浮き出ている)を取られてボコボコに穴が開いている。そして天神社の中の壁には子ども達(赤ちゃん)の写真がいっぱい飾られている。孕石の村人に「確率はどのくらいですか?」と尋ねると、「100%だよ!」という答えが返ってきた。そのためかどうか知らないが、孕石の13世帯全部の家では子宝に恵まれ、みんな幸福に暮らしているということであった。


人も出ず屋台も無し、祭り心は「伝統と厳粛」
取材した9月25日は運悪く朝から雨が降り続いている。そのせいか祭りだというのに幟(のぼり)も出ていない。(後で見たら神社の中にしまってあった。)集落から川沿いに歩いて行くと道が突き当たる所に出る、右手を見ると村人達が架けた手作りの(?)橋が架かっている。厚い長い板を繋ぎ合わせて作ってあるのである。その橋で川を渡って行くとすぐに「天神社」が建っている。

最近では、祭りイコール屋台というイメージがあまりにも強すぎて、屋台の出ないお祭りは徐々に忘れ去られてしまっている。さて、神社に着くと孕石の住民一軒に一人づつ出席して厳粛な雰囲気の中、祝詞が行われる。時々、お参りの人が訪れては帰っていく。今日は金曜日なので子ども達も学校に行ってしまっていない。式典の終わった後は、村人達の祝宴の場である。

※なお、子宝に恵まれない人は天神社で祈願してもらい、小石を持ち帰れば子宝に恵まれるそうです。確率100%かどうかは定かではありませんが、なんとなく効きそうで、途中祈願してもらっている女性を見ていて、こちらまで子宝に恵まれては「大変」と、少し離れた所から見ていた次第。(9月25日取材)

これから祈願されたい方は、祭りの当日の午前9時から午後1時までに申し出て、氏名を神前に供せば「子授祈願」をしてもらえます。祭日以外の日は、原泉郵便局前の弓桁甲子郎宅(Tel.5-2015)へ連絡すれば詳しく教えてくれます。
天神社の御祭神は菅原道真公 子授神
壁には子どもの写真が貼られていた
境内の大岩は小石を取った跡がたくさん有る
原野谷川に架かる板橋(上流にはダムがある)
孕石神御和讃
すがる想いは子宝に  せめてのぞみを掛川と
山路へだてし孕石   包むみどりの杜かげに
伝えつたえて今もなお 人の心にしみわたる
まこと不思議や孕石

石をひろいて 祈るとき
子種たちまちみごもれば
効験妙なる 天神の
お告げ尊く 身にしみて
仰ぐ祠(ほこら)の ありがたさ
五明の小高神社祭
五明の小高神社は氏子97軒。雨乞いの神様である。不思議なことに五明の祭典の日には、必ずと言っていい程、雨が降るかどんよりと曇っていると言われている。ところが今年はこのジンクスが破られ「本日は晴天なり…」。秋晴れの最高の祭り日和である。

しかし、お祭りも昔のようには楽しめなくなった。屋台や衣装だけは派手になってきたにも関わらず、いろんな規制や問題が多すぎる。その一つに交通の問題がある。交通量が多すぎて、屋台を曳いているとすぐに車がつながってしまう。

五明などは道が細いので特に大変である。車が通る度に屋台を道路の端いっぱいに寄せないと車が通れない。そして、車が通過するまでじっと我慢の子である。少し練り始めるとまた車…。そのたびにかけ声も一時ストップではシラけてしまう。

それでも村人達は、年に一度のお祭りを精一杯楽しもうと、村中に響くような大声を張り上げていた。祭り囃子の音が辺りの山々にこだましてくる。


お祭りなんか…おもしろくないョ!
3〜4才児が5〜6人小高神社の手洗い場(手だけ洗うところ)の裏へかわりばんこに行っては、ズボンを上げながら帰ってくる。おかしいな?と思いながら覗いて見ると、みんなおしっこをしているのである。屋台を曳く前にしっかり準備をしているのである。ズボンを上げる仕草が可愛い。

「お祭り楽しい?」って聞くと「楽しくないも〜ん。だって手にまめが出来ちゃって痛くてしょうがない。」「私も〜」「私も〜」「お小遣いたくさんもらった?」「なんにもくれない。持っていこうとしたら、持ってっちゃいかん!って怒られた。なんにもおもしろくない。」なんて言いながら、屋台の出る合図があると、すっ飛んで行って、引き綱の一番前をぶんどっていた。やっぱり楽しいんだ。

(小高神社祭 10月3日、4日)
和田岡地区つくしの団地祭り
掛川の人達は、まだまだ「余所者(よそもの)」意識が強い。昔から住んでいる住民達の「余所者は寄せ付けないぞ。」という頑な態度に腹を立てたり、一抹の寂しさを味わうこともしばしばである。そんな中で、新しく出来上がっていく団地の新住民達はどんな風に祭りを楽しんでいるのだろうか。


伝統はこれから築きあげる

和田岡地区にある「つくしの団地」は、今から6年位前に出来た郊外の住宅団地で、現在は45軒ほどが住んでいるが、まだまだ歴史の浅い団地である。同じ地区内の吉岡、高田、各和とは、二俣線を挟んで分かれている。

サラリーマンが多いここ「つくしの団地」では、2年前から、団地内で子ども達のためにと、近隣の古い屋台を買ってきて、祭りの日を作った。今年で祭りも3年目になる。氏神様とか、そういった面倒くさいしきたりや伝統は一切関係ないという。つくしの団地内には神社はもちろんない。

和田岡地区で祀っている吉岡の「八王子神社」、各和の「八幡神社」、高田の「加茂神社」は、すべて線路の向こう側にあり、交通規制のため屋台を引っ張って渡ることも出来ないのである。

つくしの団地の住民は、お祭りを一つのコミュニケーションの場として、これから自分達なりの伝統や歴史を築き上げて行こうとしている。寄付金も楽しむのもすべて平等である。「団地に住む子ども達にも、他の町の子ども達と同じ様に、祭りの楽しさを体験させてやりたい。」という親心から出発した祭りである。


ビールとおでんとお汁粉で酒盛り!

つくしの団地の公会堂の中では、大人達がおでんをつまみにビールで酒盛りの真っ最中。お祭りにビールは合わない気もするんだけど…。ビールにおでんにお汁粉という複雑な組み合わせで一応納得。お汁粉もおでんもとても美味しかったんですが、途中で屋台が出発するというので、ジャガイモと玉子を食べ損なって未だに悔やんでいます。(教訓:食べ物はおいしいものから食べろ!)

つくしの団地では、一ヶ月前からいろいろ準備しながら祭りを盛り上げていくのを目的とし今年は大人用の法被まですべて手作り。来年は子ども用の法被も手作りにしようと張り切っている。年々少しずつではあるが、着々と自分達の町の歴史や伝統を築き上げている。

(つくしの団地祭 10月3日、4日)
子ども連が担ぐ子ども御輿
手作り法被の役員さん達
構江・石畑・石ヶ谷の五社神社の祭り
上西郷に祀ってある五社神社の氏子は、構江、石畑、石ヶ谷地区の188軒である。浜松の五社神社の本家と言われている。

徳川家康に仕えていた(今で言うお妾さん)西郷の局(お愛の方)の実家が、掛川の西郷にあったと言われている。そして、この西郷の局は氏神様へお参りに行きたいと言っては、浜松から度々里帰りをしていた。「それ程お前が在所へ帰りたがるのなら、氏神様をこっちへ移そうじゃないか」と家康が言ったかどうか定かではないが、家康の権力で浜松へ分家として氏神様を持っていったと言われている。


夕日に染まった屋台

五社神社の境内には露店も建ち並び、3台の屋台が出て盛大に行われた。

取材に行ったのは夕方の5時半を少し回っていた。太陽が西の空に沈む寸前であった。屋台はちょうど県道から田んぼが続く細い道に入って行くところであった。夕日に染まった屋台のシルエットが美しく、思わず見とれてしまった。

こういった風景は田舎でなければ、なかなか見ることが出来ない。今の子ども達が。何時までもいつまでも、この情景を忘れずに、故郷を離れたときに、ふっと思い出してもらいたいものである。

(五社神社祭 10月3日、4日)
方の橋の八幡神社祭り
まとまりを大事に、和気あいあいの祭り
ここ上西郷「方の橋」では昔からの地元住民が100軒位、あとの30軒は新しく入ってきた住民である。そこで若い連中が集まり、地元の人間と新しく入ってきた人達との溝を埋めて行くにはどうしたらよいかを話し合いながら真剣に取り組んできた。そして、始めたのが祭りである。取材に行き、着いた時にはもう祭りも終わり皆公民館に集まっていた。

祭典委員の一人は「30年前に余所者としてこの村にやってきた。その時に受けた苦い経験を、他の人達にはさせたくないと思っています。正直言って、神社とかそういうものはあまり関係ない。それよりも一番大切なのは、お祭りによって村人達がいかにまとまっていくか、そして、親交を深めていくかです。」
「方の橋もこれからまだまだ新しい住民が増えていくと思います。そんな中で若い連中が中心になって、いろんな催しや行事を行っていくことは最高にすばらしいことだと思います。子ども達も楽しめるし、こうやって祭りが終わった後、一杯やりながら親交を深めていますよ。」と語る。

7年前、荷車に飾り付けをしたのをきっかけに、次の年には屋台を作り、少しずつ歴史を創り上げている。最初の苦労も何のその、今では村人達は和気あいあい。

(八幡神社祭 10月3日、4日)

祭りは最高におもしろい!年に一度のストレス解消にもなる祭り。見栄も外聞もかなぐり捨てて、普段隠れているもう一人の自分を思いっきり出すことが出来る。何をやっても無礼講で許されるから、最高に面白いのである。ここから後半は祭りの出来事などの取材いろいろのまとめ。
水垂地区の祭り
なんだ坂、こんな坂…
水垂の屋台には茶娘が飾り付けてあり、屋台の素朴さを感じさせる。以前は茶畑と畑と山だけだったが、そこに住宅団地が開発された。

大多郎団地の周辺は坂道ばかりである。登ったと思えば下り坂、下ったと思えば登り坂。屋台の綱を曳いているのは子ども達が多く、坂を登ったり降りたり大変である。そのためか、かけ声も他とは違い一風変わっている。「そらっ、やれっ、元気がないぞ!元気だせっ、なんだ坂、こんな坂、もっとやれ!、もっとやれ!」

肴町の太鼓の練習
街は一ヶ月も前から祭り気分!
太鼓の音に誘われて街を歩いていると、肴町の町内では屋台小屋に集まって練習の真っ最中!

町名の由来は掛川市詩によると「海魚も川崎の海より出るものを運び来りて肴町に売る。」となっている。昭和40年(1965年)頃までは魚市場もあった。そのため山車の上には毎年鯛を飾り付ける。今年の飾りの大きな鯛は真っ赤な塗料で色づけされた後だった。

屋台小屋の中では小学生が青年衆に太鼓の打ち方を教えてもらっている。どの顔も真剣そのもの。小学6年の女の子に感想を求めると「今までは男子の人数が多いもんで、女子はぜんぜん打たせてもらえなかった。踊りばっかり…。今年からようやく打たせてくれるようになったんだけど、もう今年で最後だもんで、つまんない…」

女の子がすねる気持ち、わかる、わかる。午後9時を知らせるチャイムが鳴ったと同時に練習は打ち切り。本当はもっと打ちたいのを我慢して、みんな家に向かって走り去って行った。心はもう完全に祭り気分…。
鼻の欠けた木獅子の舞
祭り中でも滅多に見ることが出来ない!
午後5時30分より、紺屋町の木獅子の舞が見られるという情報が入ったので、すっ飛んで行った。木獅子の舞は格式が高く、祭り中でもなかなか見ることが出来ない。今年も10月9日の祭りの始めに一度舞っただけである。一度は壊されそうになった木獅子も、普段は掛川城内で大切に保存されている。そして、お祭りの3日間だけ紺屋町の会所でにらみをきかしているのである。

鼻が欠けている以外はみ傷みも少ないので、とても470年もの歳月を経ているようには見えない。しかし、現在の木獅子は大切に保存しておいて、新しい木獅子を作ろうかという話も持ち上がっているそうである。年に一度、470年も経ている木獅子の姿を一目見ようと楽しみにしている人達は、新しい木獅子を見て裏切られた気持ちがするんじゃないだろうか。保存も大切だけど、伝統も大事にして欲しい気がする。

さて、7人の若者による勇壮な木獅子の舞の儀式が終わると、紺屋町の祭りの幕開けである。屋台の四方に張り巡らしてある天幕の刺繍をまじまじ見れば、なるほど自慢するだけのことはある。唐獅子と牡丹の刺繍が品良く施してあり、笛や太鼓の音に合わせて獅子が今にも踊り出しそうである。獅子の爪の純金が光っている。
祭りと火事
仁藤で火事だ?!
日坂・八坂のお祭りに雨が降らない年には掛川祭りに雨が降るというジンクスが有り、今年は晴れた日坂・八坂祭りだった。案の定、前夜から大降りの雨になった。だが、祭り初日の9日の朝方は雨も止み、10日、11日はカラッと晴れ渡った祭り日和であった。

しかし、11日最後の夜、それぞれの屋台が引き上げていく時に思わぬハプニングが起こった。仁藤〜連雀の通りにけたたましいサイレンの音とともに消防自動車が入ってきたのである。仁藤の喜町へ抜ける狭い道路には屋台が2、3台ひしめいていた。「仁藤で火事だ!」ということで、野次馬が一斉に駆け出したから大変である。しかし、火事騒ぎもぼやですみ、消防自動車も火事現場まで行かずに途中で引き返していった。
祭りの夜は静かに更けていく
祭りの最後の夜を惜しむかのように、若者は明け方近くまで町内を練り歩く。大手、連雀、肴町でも青年衆が集まって「大手、連雀、肴町、それっ!」とかけ声を掛けながら練り歩いていた。しかし、一人減り、二人減り…真夜中の零時半頃には15、16人程の若者が残っただけである。最後の最後までかけ声が響き渡っていた。

屋台が引けていつもの静けさに戻った街はなぜか淋しい。いつもの夜に戻っただけなのに‥。人通りはパッタリ途絶え、道路に散乱しているゴミの跡が生々しい。午前2時、3時になるとかけ声も次第に聞こえなくなり、祭りの夜は静かに更けていった。