掛川の伝統工芸織 芸葛布を追って 
Vol.19 1981年10月号掲載
秋の七草を覚えていますか?ハギ、オバナ、クズ、オミナエシ、フジバカマ、ナデシコ、キキョウ。この七草のひとつに数えられている「葛」。今月は掛川の特産であるこの葛にスポットをあてて特集を組んでみました。

「秋の野に 咲きたる花を指おりて かきかぞふれば 七草の花」この歌は万葉歌人である山上憶良の作による葛の歌。奈良・鎌倉時代から千年の歴史を持ち今に伝わる葛布は、麻に似た目の粗い素朴な工芸織物。

しかし、この葛布は、いま技術を受け継ぐ者も少なく、ロウソクの灯火のように細く、やがては消え去るのではと言われています。事実、繊維を取る人も、それを織る人も高齢化が進み、その技術を受け継ぐ人もほとんどいないと言ってもよいくらいに後継者不足に陥っています。機械化が許されないこの葛布産業の将来は明るいのだろうか。我々の時代に千年の歴史の終止符は打ってはなるまい。
文:やなせかずこ
葛布のはじまり
葛布(くずふ)のはじまりは史実としては残っていない。だがその布の性質からみると、古代に木の皮などの自然繊維を採って布を作ったように、原始的な作業が始まった頃から作られていたものと思われる。

文書として明らかに葛布のことを指すと見られるのは奈良時代の万葉集にある。それは万葉集の巻七の旋頭歌(せどうか)に有り、この歌には葛布は一般の常用着として広く用いられているように歌ってある。(※1)そして、平安初期に、制度の細則や法典などを集成した「延喜式(えんぎしき・927年完成)」という本には、宮中で使用される葛布の染色方法まで指定してある。

当時葛布は、喪服や袴地として用いられ、貴族達の「けまり」の遊びの時にも奴袴(さしぬき)として用いられた。以後、時代と共に馬乗袴にも用いられていた。

このように葛布は、宮中、武家、貴族をはじめ常用着まで多くの衣服に用いられていた。また葛布を織る人々も全国至る処にいたらしく、葛布織りの作業もあまりむずかしくなかったので、葛が採れる所ならば、ほとんどの農家は副業で織っていたものと思われる。それでは、現在伝わっている「掛川特産の葛布」はいつ頃からあったのであろうか?
葛を繊維にしてから繋いでいる昔の様子
※1 原文は「姫押 生澤邊之 真田葛原 何時鴨絡而 我衣将服」
(をみなへし佐紀沢の辺の真葛原いつかも繰りて我が衣に着む)
葛布の伝説
ここに遠州地方の二つの伝説が残されている。
その伝説とは…

昔、天方村(あまがたむら・周智郡森町)にある行者が山中の滝のそばで小さな草ぶきの家を作り修行にはげんでいたが、あるときその山中にかかる滝の水に打たれ洗われている美しい一房の糸を見つけた。太陽に照らされきらきらと輝くその光沢にひかれながら急いでそばに行ってみるとその糸と見えたのは、滝の周りに繁茂していた葛がその清流に洗われているうちに繊維状になったものであった。
この行者は、葛の繊維を手に取り、強さ、光沢などから布として使えるのではと思い、早速信徒である老婆に伝えたところ、老婆はこの葛を持ち帰り、他の葛もあつめて繊維にし、布に織って掛川の領主に献上したところ、領主はその美しさを大変気に入り、この葛布をこの土地の主なる物産とした。そして、この滝を「葛布(かっぷ)の滝」と名付けた。(葛布の滝は現存し、森町の街はずれから約4キロほど北に行った山中にある。一の滝、二の滝、三の滝とあり、三の滝は高さ14m、巾2m余りの飛瀑となって壮観であり森町指定の文化財になっている。)

さて、もう一つの伝説とは…

掛川の郊外のある山中に女の行者がいた。行者は修行に励みながら、滝の水で葛を洗い繊維にしては布に織っていたという。そのことは次第に近くの村の女の人たちに伝わり、村人達もまた行者のやるように、葛を採り、滝水で洗い繊維にしては葛布を織りはじめ、町へと売られるようになったという。
あるとき、この村に掛川宿より商人が訪れた。そしてこの商人が言うには「あなた方の織られた葛布は、すばらしくりっぱな布だが、あなた方の村があまりにも郊外にあるので、買いにくるにも大変で、それをまた掛川宿へ帰って売るときにも費用がかさんでしまい高いものになってしまって買い手も少ない。いっそのこと私どもの掛川宿に住居を移して葛布を織ってくだされば、今までより高い値で葛布を買い入れましょう。」ということであった。
そのことがきっかけとなり、ここの村人たちは長年住み慣れた村から離れ、掛川宿に住居を移し、葛布を織り、販売するようになったという。

以上がこの地方に残された伝説である。二つとも共通していることは、大自然の恵みともいうべき葛を、自然に深く関わって修行をしていた行者が、滝水に洗われている葛の繊維、布としての新たな用途として開発したことである。

伝説はあくまで伝説なので、実際に文書として残されたものはというと…

「遠江国調誌」に源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮の神前にて静御前の舞を鑑賞しているときに、小笠郡原谷村西山の城主に「この紺色に染められた葛布は当国の産物なのか?」と質問したというから、この鎌倉時代から葛布は掛川の産物となってきたと思われる。また、1713年に発刊された「和漢三才図会」という百科事典には、「葛布は遠州掛川から出る」という内容のことが記されている。
葛布で織られた袴地(明治以前の反物)
葛布で織られた馬乗袴地(明治以前の反物)。葛苧は細かく手触りも柔らかい。
嘉永七年の葛布買入帳〔左)文久四年の池谷(古田屋)店卸帳(中)安政二年の古田屋店卸帳(右)
葛布問屋の廃業と「グラスクロス」の輸出
江戸時代頃から葛布は武士の礼服である「裃(かみしも)」地や「合羽(かっぱ)」「かや」などにも使用されるようになり、小紋染めもなされるようになった。袴も無地物から縞物まで作られ多くの武士達に愛用された。また、縦糸を染色したり、葛の繊維を染色したりして葛布を織り、また、織り上げた葛布に型染めをして数々の種類がつくられた。中でも乗馬用の袴地には、普通よりも大きな柄が使われ、色分けも20種、柄も200種以上もあり、織縞も含めれば相当多くの種類のものが使われたと見られる。

これらの葛布の中で問屋が喜んで引き取ったものは、町や村の女の人が織っていた粗く太い葛布ではなく、武家の子女が内職として織っていた特殊な葛布であった。それは、縦糸に絹糸を用い、横糸になる葛は非常に細い「針裂き」という葛苧(くずお・葛の繊維から作られた織あ糸)を使用したもので、手触りもこれが葛布かと思われるほど柔らかく、これらはほとんど御家中品として珍重された。

当時、葛布は多くの農家や一部藩士の家で織られていた。葛織りという作業は当時にしてみれば、ちょっとしたコツさえ覚えれば、木綿織りと操作は変わらないのでさほど難しい仕事ではなかった。

こうして全国に知れ渡り愛用された葛布に、最初の危機がおとずれた。それは明治維新である。武家社会が崩壊し、生活様式も変化してきた。今まで使われていた羽織袴や道中合羽などや常用着も用途がなくなり、次第に生活からも置き去りにされていき、今まで葛布で生計を立てていた民家やそれを扱っていた問屋にも影響していった。

明治2年の正月に、掛川の問屋12軒が連名で役所に、市中取締役町年寄を通じ、嘆願書を出した。当時、葛布問屋は太田藩の指定業者である。毎年10両という金を上納金として納めていたが、今となってはそれを3両にしてほしいという内容のものであった。しかし、問屋は次から次に廃業に追い込まれていった。

このように問屋がほとんどつぶれた中で、一軒だけ西町の古田屋という問屋(現在の池谷さん先代)だけは、葛布の新しい道を求め続けた。そして明治6年に、今まで襖(ふすま)の引き手の所だけに破れ止めとして使われていた葛布を、襖全面に使用したらどうか、という考えの基に広い幅の葛布を織りはじめていた。これが掛川に於ける葛布の襖地・壁布の起こりとされている。しかし、この幅広の葛布が商品として認められるまでには5〜6年も先のことであった。

このように明治以降は、それ以前衣服用の反物として織られていた葛布は、一転して住居用の襖地、壁布として使われるようになり、明治18〜19年頃には「グラスクロス」として輸出までするようになった。そして、輸出の最盛期の明治36年から39年頃には、掛川に葛布を織る機(はた)が800基、年産は76,000反にも及び、ほとんど、窓掛け、壁布、襖地であり、その生産量の9割が米国に輸出された。
葛布問屋の嘆願書の覚書きと見られる書状。
この座布団地には葛布が使用されている。きめ細かく織られ、藍染めが施されている。今では、このような藍染めは殆ど行われずに座布団地に織られている。
朝鮮半島から葛の材料の輸入がはじまる
このように今では考えられないほどの量が明治後期には織られていた。その材料になる葛もまた全国から掛川に集まった。北は青森、福島、栃木、そして神奈川、長野、愛知、兵庫、南は四国や九州からも集まって来た。静岡県内では、掛川近郊を含め、富士山周辺、伊豆半島方面から良質な葛が取り寄せられた。その中でも、茨城と栃木の葛が全体の8割近くを占めていたという。

しかし、手仕事で行われる葛布の材料作りにも限りがあり、当然の事ながら材料不足ということになっていった。そのためマニラ麻などを使って織った時もあったという。

明治43年の夏、掛川から川坂重作という人が、朝鮮半島に渡り、葛の材料の作り方などを公開し指導した。初めの頃は技術不足のため品質も悪かったが、次第に改善がなされ、安い労働費とともに、国内の生産量をはるかに上回り、国内使用量の9割近くが輸入された。しかし、国内のものと比べると、葛布の材料としては、太く、厚く、光沢も劣っていたという。そして、朝鮮半島の済州島でも葛布が織られたが、長くは続かなかった。国内でも茨城や兵庫などでも織られたが、これも同様に長続きしなかった。
葛布に二度目の危機が
以後、昭和の時代に入っても、壁布として欧米諸国に輸出され続けた。しかし、葛を織る業者の生活は不安定だったという。景気の良いときは、もっと織れとあおり立てられ、不景気のときは問屋が買ってくれないような時もあった。今なら見込み生産をするところだが、原料を買わなければ葛は織れず、織った葛は売れないという状況では、心配で仕事を小さくする他はなかったという。

戦時中には、葛の原材料も少なく、縦糸に使う絹糸も配給制になり、葛布を織るにも申請をし、前年の生産量に応じた絹糸が支給された。敗戦後、今度は織物消費税が課せられ、輸出品にも消費税を払わされたりしたが、なんとか税金がかからないように手続きしたという。

間もなくして掛川輸出葛布共同組合が組織された。当時、ほとんどの業者は手持ちの原料を使い果たしていたが、残されていた原料で葛布を織り、それを持ち寄って組合の資金とした。そのうち朝鮮産の原料も入ってくるようになり、仕事も安定しながら伸びていったのである。

ところが、1961年に韓国が富国政策の一環として、韓国国内に葛布作りを奨励し、原材料の輸出をも禁止したため、日本の業者は材料不足という危機に見舞われた。当時業者は掛川に15軒、金谷に8軒、藤枝に1軒、滋賀県に9軒(滋賀では主に葦を織っていたが葛布も織っていた)と合計33軒あって、ほとんどが韓国産の材料で織っていた。(1960年の韓国産材料が約200トン、国内産が7.5トン)

このような状況の中で、工賃の安い韓国産の葛布が次第に欧米諸国に出回り、とうとう海外市場も制圧されてしまった。そして現在ではこれらのほとんどの業者は廃業したり転業したりしている。
葛が織りなす人生模様
榛村はつよさん(78才)は、掛川では数少ない葛布の原料作りの技術を持っている。

自宅の前庭には今朝方、山から採ってきたばかりの葛蔓が並べられていた。朝早くから、乳母車を引いて山に採りに行ってきたという。榛村さんは採ってきたばかりの葛蔓を、一人黙々と太い茎のものと細い茎のものとに仕分けているのだった。

18才の時、森町の円田村から、ここ桜木村〔現在は桜木地区)に嫁いできて初めて葛布と出会ったと言う。桜木村では昔から一部の人達の手によって、葛から繊維を取り出す技術が受け継がれてきた。農業の側ら、内職程度に葛布の原料作りをやっていて、専業でやっている家は一軒も無い。手間ばかりかかって、売るときにはいくらにもならないからだ。今では桜木地区で5〜6人しかいないと言う。それもみんな高齢者で、そのうち自然消滅ということになりかねない。

「私がこんな年になってもやっているのは葛が好きだからですよ。みんなはお金になっていいなあって言うけど、これだけ一生懸命働いたっていくらにもなりません。だけどこの仕上がった葛の糸を見て下さい。光沢があって丈夫で本当に美しいですよ。こんなに自然の素材が生きている素晴らしい葛をなくしたくありませんからねえ。命のある限り続けますよ。」

榛村さんは山歩きが大好きだ。78才というご高齢にもかかわらず、栗林の中や土手を這いずり回っては、良い葛を求めて歩いている。「あそこに行けばいいのがあるあっちに行けばいいのがあると、原料を追っていくのがとっても楽しみだ。」と語る榛村さんの目は生き生きと輝いて見えた。

さて、今朝方採ってきて仕分け束ねられた葛蔓は、翌日に、今度はご主人が庭にある大きな窯で煮詰めていく。太い葛蔓は50〜60分程度、細い物は30分ぐらい、グッグッ、グッグッと煮詰めていく。これは経験と勘がものを言う。ここで失敗すると繊維が弱くなったり、光沢が無くなってしまうので、大切な行程だ。一度には出来ないので、これだけで優に5〜6時間かかってしまう。

そうして煮詰められた葛蔓は、刈ったばかりの青草の中に埋められる。2昼夜の間眠った葛蔓は表面が白っぽくなっている。そして、まだぬくもりの残っている葛蔓を、家のすぐ裏を流れている川で、葛の原料となる部分と芯だけをを残して、きれいに洗い流されていく。

そして、芯を取り去り、さらに束ねて流水で洗う。繊維だけになった状態で引き上げ、まだついている湯垢を取るために、まえもって作っておいた米のとぎ汁に一夜つけてから乾かし、仕上げでもう一度川で洗い流す。
原料となる山に自生する葛。大きな葉や花を取り去り蔓だけにする。
葛蔓の葉を払い、太い茎と細い茎に分けていく。
煮やすいように太い茎と細い茎の蔓を分けて束ねていく。
仕分けて束ねられた今回の葛蔓。全部で60キロぐらいある。 翌日、束ねられたままの葛蔓が庭に据え付けられた釜戸で煮詰められる。 煮詰め終わった葛蔓は刈り取ったばかりの青草の中に2昼夜埋め皮を腐らせる。
2昼夜寝かした後、流水の中に浸け、外の皮を取りながら洗い流していく。 蔓の外皮を取った後に芯を抜き取る。 残った繊維をまとめて、さらに水洗いをする。
榛村さんは何十年間という長い間、この川と付き合ってきた。いつも一人ぼっちで黙々と洗ってきたという。葛と共に、苦しみや哀しみもこの川に流してきたのだろうか。「これだけやって、どれ位の葛が出来上がるのか?」不安であり、楽しみの時間でもある。一本一本丁寧に、腐らした表皮を洗い流して、さらに芯を抜く作業にかかる。乳母車いっぱいにあった葛が、どんどん少なくなっていく。採ってきた60キロほどの葛蔓だが2日間くらいかけて残ったものは、1キロ程度の葛布の原材料である。

河原で腰を降ろす石の上は硬い。一日中、前屈みになって洗うために体中が痛くなる。「話す相手も無く。たった一人で川を見つめつづけてきた。」という。その報酬がたった1キロの原料であり、痛んだ身体である。

しかし、仕上がったときの喜びは一入である。6人の子どもを育てながら、農業のかたわらに作り上げてきたこの繊維が、織機で一本一本丁寧に織られて、製品となっていく。どんな作品に仕上がっていくのか、どんな人が使ってくれるのか。そんなことを考えながら、明日もまた、いい葛を求めて山を駆け回ることであろう…。
陽の当たらない風通しの良いところで乾燥させ、やや乾いたときに絡まりをとり、さらに乾燥させていく。
出来上がった約1キロの葛布の原料。このあと糸に紡ぐ。
葛布のこれから
それでは、現在の葛布の業界はどうなっているのだろうか。葛の原料不足、後継者不足といわれている中で、組合長の掛川葛布工業の内田さんに聞いてみた。

「現在、組合に加入している業者は10社あります。材料不足で葛だけで織っている業者は少なくなりました。昨年ですが、中国の農業省から葛布を織りたいという申し込みがあり、試験的に葛の材料を現地で作らせ送ってもらったが、国内物に比べると光沢も悪いし、葛も弱いのでほとんど使用できなかった。実際には50キロ位送られてきたんですけど、選り分けてみると1キロにも満たないんですよ。ですから、こちらで織って、国内でできた葛布も一緒に送ったんですが…。」

「もし、葛の原材料を輸入するようにするなら、現地指導をして技術を向上させてからでなくては、今の段階では無理です。それよりは、国内産の原料確保が優先ですので、農協に働きかけて、葛の採取から繊維にするまでの詳しいパンフレットをつくり、農家に働きかけて材料を作ってもらうようにしてもらう予定でいるので、その方が先決です。」

現に、市内のある小学校では、生徒に葛の原材料作りを知ってもらおうと、教科に取り入れているという。将来この中から後継者が育ってくれることを望むが、それは数十年先になるであろう。しかし、このことが市内全校的なものになっていき、良質の材料ができるようになれば、またひとつの望みもでてくる。

いま、葛布は民芸品的なものに移行しているが、本来の姿である反物はもう織られていないのであろうか。その辺を業者の方はどのように考えているのか聞いてみた。

「反物を織ることは出来ます。しかし、葛の糸をもっと細くしなければ、あの柔らかさはでません。そして、よほど良い材料を使わないと光沢も出ませんから。染色技術も昔のようにやるというと、それもマスターしなければならないし…。全ての作業に時間がかかりますから、出来上がっても相当高価なものになってしまいます。まあ、このように作ってしまうと価値判断はできませんね。今までグラムいくらで、とか何時間だからいくら、とかでやっているので…。逆に言えば葛布の生き残るもう一つの道とも考えられます。それには、藍染めなどの技術を学び取り、葛も針裂きという方法で繊維を作れば夢ではありません。今は無理かもしれませんが将来は考えなくてはならない問題になるかも知れません。」

また、大池の二久村松葛布店のご主人は…
「私の所ではやはり葛の材料不足が最大の悩みです。後継者はいません。きっと私の代で終わりだと思います。材料は少しは取ってあるんですが、糸を紡ぐ人が少なくなってしまったので苦労します。いま壁掛けなどの芯になる部分は、マニラ麻をつかっています。他は葛で織っていますがね。暇を見ては自分で糸にしてます。早く材料を確保したいとは思っています。」

仁藤にある川出幸吉商店のご主人は、昭和25年頃から小物民芸品に切り替え始め、昭和39年から本格的に民芸品に移行した。現在も全国から問い合わせがあり発注に追われているが、将来的には材料が不足するのではないかと気がかりだそうだ。
「葛布業界全般に材料は不足しています。うちは常に3〜4年分位の材料は用意してありますが、それ以降となると心配です。毎年材料は入ってくるのですが、材料を作る人達が当然減ってくるし、それを受け継ぐ人も少ないので、やはり問題は材料不足というよりは材料を作る人の後継者を育てることでしょう。糸を紡ぐ人はかなりいらっしゃいますが、ほとんど老人の方ですので‥。」

「製品の将来性というと今は民芸品の小物が多いですね。数千枚もの大量注文もあります。全国に実演や展示会をやりに行くんですが、そこでお客様が『ここをこうしたら良い』『こうはできないものか』というような使う側の意見を聞き、教えて頂いたことを製品に織り込んでいくので喜ばれています。将来的にもいいのではないでしょうか。また、衣料品にも力を入れていきたいです。いま、座布団地に織っているようなものをもう少し細かく織って甚平を作ったんですが好評でした。昔の反物として使用した針裂きという葛の糸を使えば柔らかい物ができます。しかし糸を作る人がいないので今は自分で紡いでいます。すべて手作業なので大変です。」

また、手織カーテンとして、米国で13の販売店を持つ、緑町にある小崎葛布工芸の小崎降志さんは…
「材料不足も問題ですが、うちは織り子さんの後継者不足で悩んでいます。約10台ある機織り機の織り子さんは若い人でも45才以上で、83才の人もいます。完成された技術を持つには10年くらいかかるので、今から習い始めてもすぐには使えない。早く後継者を育てたいと思っています。現在、手織りカーテンを主にやっていますがコストを抑えるために、葛だけでなくマニラ麻などの天然繊維を入れています。」と言って見せてくれたのは、葛布の持つ良さを十分に生かしたものだった。



葛布業界もこれからは、多方面にわたった考えを出さなければならない時期に来ている。原材料不足、後継者問題にしても多くの努力を要することであろう。ほとんどが機械化されオートメーションで作られる多くの製品が冷たさしか持たない中で、全行程一つとして機械化さえ許せない葛布業界。その出来上がった葛布の持つ素朴さと優雅さ、そして千年以上の伝統織りとしてもう一度見直したい。
がま口や草履ハンドバックなど、葛布の伝統織りの民芸品として全国で人気がある。