おらが町の祭りばやし

Vol.6 1980年9月号掲載
 年に一度、おもいっきりエネルギーを発散できるのが「おまつり」。世の中の移り変わりと共に、街も住民も昔とは随分変わってきてはいるが、おまつりの心意気だけは今も昔も変わらないものがある。9月、10月と2回「おまつり」に関する特集を組んで、今まで以上におまつりの醍醐味を味わってもらおうという寸法。今年の日程は10月9日(木)〜11日(土)の三日間。参加する町は次の通りです。

新町・喜町・塩町・道神町・神明町・旭町・仁藤・松尾町・城内・北門・下西郷・連雀・大手町・肴町・緑町・中町・西町・瓦町・栄町・紺屋町・研屋町・中央一丁目・中央二丁目・中央三丁目・十王・下俣町・十九首・小鷹町・城西・二瀬川・城北町・鳥居町・橘町・末広町・長谷・七日町・弥生町・中央高町の39町。

その1

●喜町 ●肴町 ●瓦町 
●仁藤 ●中町
  瓦町
 瓦町はその昔、瓦職人が住んでいた町といわれている。瓦屋根を使ったところはお城か寺や神社位しかなく、昔の瓦職人はお城に出入りしていたこともあり、職人自体の格式も高かった。「かんからまち」は、雄獅子2頭で雌獅子1頭の愛を求めて腰の太鼓を打ちながら舞うもので、藩政の頃お祭りの催し物は一切掛川城の大手門から中に入ることは許されなかったが、この「かんからまち」だけは特に許されていた。しかも草鞋をはいたまま城内に上がって舞うことができたということからも、この「かんからまち」の格式の高さが判る。

10年ぐらい前までは、見物客も「かんからまち」が通ると、みんな一斉に道を開けたり、二階で見ていた人達はわざわざ下に降りてきて見るというほど格式高いものであったが、現在はやはり時代の移り変わりか、そんなこともすっかりなくなったと瓦町の年寄り衆は嘆いている。

それでも、大祭り以外の小祭りの時でも、瓦町だけはブロックを組まないで単独行動をとっている。瓦町には屋台がないので、小祭りには小獅子が1頭だけ舞うのが恒例になっている。
明治32年(1889年)のかんからまち
かんからまち保存会会長の高部文平さん
雄獅子を舞っている堀内春夫さん(30才)
 僕は18才の時から始めているんだけど、だんだん年をとるにつれ身体がついていかなくなる。もうこの辺が限界ですね。そろそろ後継者の育成をしていこうと考えています。たたみ3畳分の中で逆立ちをしたり屈伸をしたりして動きが非常に激しいので三日間の祭りが終わるとぐっと疲れが出てしまう。終わった後は体重が5キロも減っているんです。足はいうことをきかなくなっちゃうし。やっぱり年ですね。
  仁藤
 仁藤の大獅子については今更説明するまでもないと思いますが、頭や母衣などの中に総勢200人くらいの人員を動員しなければ動かない大きな獅子。頭に14人、母衣(ほろ)の中には竹竿で100人ぐらいの人足が張り支え、尾には尾引が40〜50人で乱舞する。両側には揃い法被を着た青年たちが紅白に分かれて大獅子の進退とその警護にあたる。

その昔、仁藤にある天然寺の住職が現在の鈴鹿市白子町で大獅子の頭を車に載せて、短い母衣をつけ町内をねりあるいているのを見て「この動かざる大獅子を動かしたならばさぞ見事であろう。」と言ったかどうかは定かでないが、とにかく住職のたゆまぬ努力と工夫によってできたのが大獅子。「邪を破って歯で献饌(けんせん)、悪魔退散。」と言って大獅子が舞うことによって邪気がなくなり、良いことが訪れるという言い伝えが残っている。

この大獅子は昨年の大祭に出演したばかりなので、今年のお祭りには小屋の中で次回のお祭りのためエネルギーをたくわえて居るはず。この怪物は3年間に一度しかお目にかかることが出来ない。(但し、時々トラックに載せられて日本全国あちらこちらに出没している。)

「昔は、お祭りをやるとお金がたんとかかるもんで、4年に一度だけ大祭りをやることに決めて、そのお祭りのために3年間せっせとお金を貯めたもんだ。町内で祭典費として毎月区費を集めてそれを貯金し、大祭りの時におもいっきり盛大にやっただよ。」と語るのは仁藤の川出幸吉商店のおじいちゃん。昔は祭りを通じて上下の礼儀を諭したとのこと。(今年は大獅子がでないので、屋台だけで我慢。)
仁藤の青年衆
  喜町
掛川最古の喜町の屋台
掛川で最も古いと言われている屋台を知っていますか?それはおよそ130年前に作られた喜町の屋台。この喜町の屋台は掛川藩御三家の喜半商店八代目鳥井政芳氏が20才の時、お伊勢参りの折、京都に行って町内へのおみやげとして買い求めたという非常に珍しい屋台。普通屋台は町内の人達がお金を出し合って作った物が多く、みやげものの屋台なんてきいたこともない。この屋台の山車の障子裏には金粉が施してあり豪華絢爛だったという。当時陸路では運送が不可能だったので、遠州福田港まで舟に載せられ運ばれてきた。

喜町の今駒喜一郎さんのお話しによると、掛川は城下町でお祭りの屋台を曳くにもおとなしかったそうだ。見せるための屋台であったのが、時代の移り変わりとともに、曳きかたもずいぶん荒くなり、今は曳き手だけが楽しんでやっているようにも思われる。昔の人達にとっては少々不満もあるとの事。
  中町
中町の屋台
昔の祭典の日は今のように、土・日曜日に決めていなかったので、各町村の氏神様の祭りとしてそれぞれ日が違っていた。嫁に行った娘は姑の許しをもらい、孫を抱いて実家に帰ってくる楽しみな日であった。また、親類同士でもお互いに話も弾み、旧交を深めるためには格好の日でもあった。現在は同じ日に一緒にお祭りをやるので行き来もあまりなく「ただワイワイ騒ぐだけで、気持ちのゆとりもなくなってきているようだ。」と、昔の人達は、昔を懐かしみ異口同音に口を揃えて言う。
昭和11年(1936年)の時の城西青年会の皆様
城西の時、中町から30円で屋台を借りてきた。(イシバシヤ社長回顧録)

学校を卒業するとすぐに浜松の商店に住み込みました。昭和7年に実家の城西へ帰り、翌年の昭和8年はちょうど掛川大祭の年にあたっていました。当時城西は農家7割、勤め人3割。商店と言えば駄菓子屋くらいのものでした。よその町内は祭り一色に塗り替えられるという程にぎやかでしたが、城西は屋台もなく、祭りに対しての経験もなかったので城西の子どもや青年衆は涙をのんで我慢するより仕方がなかったのです。毎年祭典はくるが屋台はなく公会堂で太鼓をたたくだけでした。しかし、何とかして大祭に参加したいと願い、幼い子ども達には「この次の大祭には必ず屋台を出してやるよ。」とよく言ったものです。

昭和11年、掛川大祭の年となり「今年こそは」と、早くから青年衆が集まり、祭りの話に花が咲きました。しかし、区からの補助金が50円しか出してもらえません。50円ではどうにもならず思案の末区民の寄付に頼ることになり、みんなで寄付のお願いにまわりました。町民の人達にも理解してもらえ、子ども達の願望も届いたのか「私も〜」「俺も〜」と、思わず涙の出るようなうれしい言葉をいただいたりして、大変多額な385円90銭もの寄付金が集まりました。当時は200円で家が一軒建てられた時代でしたから。

区民はみな青年衆の努力に驚いていました。中町から子供屋台を30円で借りてきて初の檜舞台にでることが出来ました。お祭りの3ヶ月位前より、毎夜のように集まって相談をしたものでした。費用は掛けずに実に見事に飾り付けをしたので、中町の人達も「これが子供屋台かぁ」と驚く程の出来栄えでした。年長者の人達も無言の内に助けて下さいまして感謝の気持ちで一杯でした。

この祭りがわたしが城西に居た最初で最後のお祭りでした。昭和13年に中町へ店を出して、今ではお祭りのことに関しては自信を持ってみなさまのお世話をさせて頂いております。
  こんな意見も
 お祭りに関してこんな意見もありました

高校生に対して、祭りに参加してはいけないと規制するのはおかしい。年に一度のお祭りは、市民全員で楽しむのもである。ましてや高校生はエネルギーがありあまっている時期でもあり、こういう時にこそ、持っているエネルギーを発散させるべきである。

参加してはいけないと規制してみても、周りがワイワイ楽しんでいる中で、じっとして居るはずもなく、かくれてコソコソさせるよりも。堂々と祭りに参加させるべきではないか。今は何でも規則規則で縛り付けているが、それは逆効果で、昔の人たちだって若い頃はいろんな事をやってきたはず。

それでも大人になってくれば自然にいろんなことが判断できるようになり、自分自身で善し悪しを見分けることも身についてくる。まわりで良いことと悪いことを区別してその枠の中にはめ込んでいくほうが良いのか、自分自身で体験しながら身につけていくのとどちらが良いことなのか、我々大人が考えていかなければならない問題だと思う。(掛川の商店主)
祭りには参加できないので制服姿で見学に着ていた高校生たち。
  肴町
肴町の屋台
肴町の屋台(右側)
 肴町・通称魚屋のきっちゃん寄稿

夏が終わる。間もなく祭りがやってくる…。
夕方、陽が沈む頃になると子ども達のお囃子の練習が、そこら中の町内から聞こえ始める。そうしたら気分はお祭りしかなくなり、尻は浮き、目は輝き、床に入ってもなかなか寝つかれない日が続く。以前東京に住んでいた事があり、この時期になると掛川から遠く離れた所に居ても、太鼓の音が聞こえるようで心をかきたてる。

私の住む肴町のお囃子には「大間」「鎌倉」「昇殿」「掛塚」「徹花」が有る。特に「大間」は祭典中屋台が進行している間はずっと打たれ、他の町では主曲として「屋台下」の曲が打たれる所が多いが、肴町は「屋台下」の曲がなく主曲が「大間」で、祭典中三日間はほとんど打ち続けられる。肴町の「大間」は前奏がテレツク・ス・テンで始まり、後はずっとテンケ・テンケという二拍子の単純なリズムが繰り返される。俗に「バカ囃子」とか「雨垂れ」とかいう打ち方である。

単調なリズムを繰り返し、繰り返し子どもの頃からもう何十年と打ち、聞きながら生活してきた。このリズムは無意識のうちに脳細胞の中に打ち込まれ、祭り以外の日常でも時折無意識のうちにこのリズムを指が机などを打っていることがある。左手で小太鼓のリズムを打ち、右手で大太鼓のリズムを無意識のうちに行動をしていて、我に返り苦笑する事がよくある。

小太鼓のリズムは全身の皮膚に鳥肌が立ち体毛も逆立つ。大太鼓のリズムは全神経、末端神経までをもマヒさせる。そして笛の音は、血・肉沸き立ち、臓ひびわれんばかりに高鳴り血圧一気に駆け上がる。そして三味と鐘の音が入れば、鼻汁・汗・小便全ての体液がもれてしまうがごとく酔いしれてしまう。肴町、いや掛川の人間はみなこのような症状に見舞われるんだろうか。そんな祭りがおとろえ抹消されることのないよう「永遠不滅の掛川祭り」となる事を願う。
間もなく金木犀の花の香りとともに祭りがやってくる…。

次号は、おまつりおもしろ話やエピソードなどを中心に、連雀町・西町・大手町・十王町・紺屋町を予定しています。紙面の都合で市街地が中心になりましたが、来年は郊外のおまつりを必ず特集します。田んぼにかこまれた狭い農道を屋台がゆらゆら進んでいく様子は、商店街のそれとは全く異なった感情がこみ上げてきます。屋台が田んぼに落ちてしまった話や、車軸の重くギーギーという音がうるさいと言って油をさした話等、数多くのおもしろエピソードがあるそうです。来年の特集ですが、もしそのような話を知っている方がいましたらお知らせ下さい。それでは10月号をお楽しみに!