先月に続いてお祭りの特集。地域の人たちの苦労話やエピソードも多く聞けましたが、そのほんの一部しか掲載できませんでした。もっと面白い話があるぞ!と言われる人もいるとは思いますが、そんな話があれば、是非編集室までお知らせ下さい。
ともかく、あの野性的な太鼓の響き、郷愁を誘う笛の音、そして屋台ちょうちんの灯の流れ、知らず知らずに町全体が祭りに浮き立ち、そして本格的な秋を迎える。町の人々の気持ちも変わってきたとは言っても、確実の実行されていく祭りは、「伝えていく」という力強さが心の中に残っていく。やはり、この風物詩、一年に於ける季節の句読点を大切にしたい。

昔は絶対に婦女子は載せてもらえなかった屋台にも、今は堂々と載れる様になった。しかし、何と言っても時代の移り変わりを一番現しているのは、すべての屋台に災害保険をかけなければいけなくなった事です。当時は自己責任でしたが現在は社会で責任を負うようになったと言うことです
(文:やなせかずこ)

おらが町の祭りばやし

Vol.7 1980年10月号掲載
その2

●連雀 ●西町 ●紺屋町 
●大手町 ●十九首

お祭りの日程
10月9日(木)PM6:00~PM9:00
10月10日(金)AM9:00~PM9:00
10月11日(土)AM9:00~PM9:00
  大手町
昭和42年(1967年)に撮影された大手町の屋台
鉄火の時にこそ祭りは最高潮に達する

大手町の丸一酒店に取材の申し込みに行ったら、一時間後に来て欲しいと言われ、行ってみると、5〜6人の人たちが私を待っていてくれた。これはいろんな話が聞けると胸がわくわく。案の定今昔の祭りの話に花が咲きいろいろな話が聞けた。

そのひとつに、屋台同士がすれ違うときの話。他の町の屋台とすれ違うとき、車輪の心棒をお互いにわざとすれ違うように練り進む。そして、すれ違う手前からお囃子が止まり、すれ違ったと同時に拍子木が鳴り出し、それを合図に双方のお囃子が一斉に始まる。(これを鉄火という。)その間の取り方とタイミングが大切で、この鉄火によって勝ち負けが決まる。(この勝ち負けは特に決められたことではなく、双方が勝手に自分達で決めていたとのこと。)この鉄火の時が祭りの最高潮に達するとき。タイミングだけではなく、時間が長くかかっても同じ調子でお囃子を続けなければならない。時にはお互い譲ろうとしないため、どうしても通れなくなって心棒を削って通り抜けたり、祭りが終わっても一週間ぐらいすれ違い状態のまま放置されていたこともあったとか。
大手町の屋台は掛川で一番幅が広いのです

 掛川城の表玄関「大手門」のあった大手町は、市内で一番小さな町なのにどういうわけか屋台の大きさと心意気は掛川一と大手町の住民は口を揃えて言う。大手町の屋台は大正二年に袋井から中古で仕入れたもので、古さから言えば喜町を上回る屋台ではないかと思われる。横幅2m80cm、長さ4m75cmと掛川一広い屋台である。昔の狭い道では、この屋台とすれ違うことは各町の屋台の一大仕事であった。現在は道路も広くなりすれ違うのも楽で有る。つまらないと言えばつまらない気がする。それでも屋台がすれ違うとき、双方がすり寄せていく事は続いている。
  紺屋町
昨年の大祭で舞った木獅子
春日屋でしか見られない紺屋町の木獅子の舞

紺屋町の木獅子は今から約470年ほど前に、前朝比奈備中守が掛川城を造ったとき、その天守閣に安置された三体の獅子の内の一体を掛川宿の鎮護(災いや戦乱を静める)の獅子として城主より紺屋町に授けたものと言われている。その時に笛や太鼓や舞を町の若者たちに伝授した。(9月号で城内に土足で上がるの事を許されたのは瓦町の「かんからまち」だけと紹介しましたが、紺屋町の「木獅子の舞」も土足で上がることを許されていたとのこと。)

この木獅子の舞は掛川において御三家といわれた竹の丸、松ヶ岡、喜半、本陣春日屋のみにて舞うものとされている。どんなに有力者の頼みでも、お金をいくら積まれても一切舞うことに応じなかった。現在でもこの伝統を重んじて、みだりに舞うことを控えている。この御三家も子孫が絶え足り、他の土地へ移っていったので、現在残っている春日屋のみで舞っている。年に一度春日屋でお目にかかれるという貴重な舞だ。

壊されそうになり、鼻が欠けたこともある

木獅子にまつわるこんなエピソードも有ります。木獅子は松の木で作ってあるので非常に重く舞うのには大変な労力を必要とするそうです。明治か大正の時代に、木獅子を舞っている人たちが「こんなもの舞うにえらくてしょうがない。壊してしまえ!」と土間に投げつけたそうです。ところが鼻の部分がすこし欠けただけで他はなんともなかったと言うことで、今は大切に保存されていて、この鼻の傷は現在でも生々しく(?)残っています。
紺屋町の屋台は2台目で、最初の屋台は西山口に譲り、昭和25年(1950年)に新しく作った屋台です。この屋台の四方に張り巡らしてある天幕は明治初期に作られたもので、唐獅子と牡丹の刺繍を施した逸品、獅子の爪には純銀を用いてあり、その製作には数ヶ月の日数が掛かっているとのことです。
  西町
その昔西町の大名行列
西町はその昔、大名行列をやっていたそうな

西町の大名行列は「封建時代の名残だ!」という反対意見や、次第に道具もなくなってきたり、また青年衆の人数も少なくなってきたりで、昭和11年(1936年)を最後に消えてしまいました。ところが、昭和36年(1961年)掛川周辺の町村が合併して市制になったとき、青年衆が仮装行列をやることになりました。そこで西町の青年衆は、大名行列は道具や人数の関係でできないため、奴のみを復活して行列を出すことになりました。しかし、当時はかつらが無くて笠をかぶったりしていろいろ工夫したものです。おかげで各町内からご指名をいただき、総勢がトラックの荷台に乗り込んで、上内田や西郷とあっちこっちの町内へ回りました。

酒やジュースも飲めない「奴」の行列

以前は「奴は長男がなるもの」と決められていて次男や三男はなりたくてもなれないような状態でした。しかし「それではいかん」と言うことになり今では誰でも自由に参加できるようになったんです。
奴をやっている者は祭りの3日間、一滴の酒を飲むことも許されません。そればかりか日中はコーラとかジュースも飲ませてもらえないんです。水分を取って汗が出ると化粧がみんな落ちちゃうからです。たいへんな仕事ですわ。それでもみんな楽しんでやっています。普通のお祭りの時には奴の「道行き」を唄いながら踊ります。その後から屋台を引っ張っていくんです。この「道行き」を始めたのは10年ぐらい前からですかね。(熊切さん談)
西町商店主の熊切さん
西町の屋台(右側)
  連雀
昭和初期の連雀の屋台
連雀の鈴木廣美さん寄稿

秋の気配とともにお祭りまであとわずかとなり、子ども達のお囃子の練習もより一層力強く聞こえてきます。掛川で生まれ育った私は、お祭りを毎年経験しながら大きくなりました。お祭りが近づいてくると、もう、うれしくてはしゃぎ回る程、大好きでした。踊りの練習にも進んで参加氏、今ではとても懐かしく思います。

手踊りといえば皆さんも御存知のように連雀は「吉原雀」が上げられますが、これは大祭りの年だけで、小学校一年生から六年生までの女の子だけが披露する手踊りです。衣装も私の頃はブルー地に藤の柄で頭には頭巾(昔は編笠だった)手甲・脚絆といった姿で、これは吉原に鳥を売りに行く際に吉原の遊郭を軽蔑し、冷やかして歩いた歌と言われています。また、連雀の「雀」にちなんで吉原雀が取り上げられ、吉原の花街が粋で派手といったところを取り入れたものと思います。

この長唄の中の二上がりと三下がり文の便りの部分だけに使われているのですが、私が思うに踊り全部を通せば長くて小学生には少しむずかしかったと記憶しています。小学生の間しか踊れないこの踊りは、私がちょうど六年生の時に大祭りだったので何か区切りの様なものを感じました。この事は多分一生私の脳裏に焼き付いて離れないでしょうし、今でもひょっこり何かで写真を見返すと、くぎ付けにされてしまうほど吸い込まれて行きます。また、どこかでメロディを聴けば知らぬ間に口ずさんで居たり、踊りの振り付けも完璧ではないけれど当時のありさまが浮かんできます。

妹たちの世代の写真も自分に見えてくるから不思議です。それほどまでに親しみをおぼえ、何かあたたかいものを感じるのです。私の中にこういった形で存在していたことによろこびでいっぱいになり、一大イベントとなって心に残っています。

もともと、秋のお祭りは穀物の豊作を祝って、氏神様に感謝する意味で行われていたわけですが時代の移り変わりとともに私たち一人一人のものとなりました。これからも私たちの手によって、郷土色豊かな掛川祭りとなる様に築き上げてゆきたいと思います。



連雀の小嶋政男さん寄稿

8月20日を過ぎると「あっ、陽が短くなったな。」と感じるようになる。僕は時として不思議に思うのですが、陽の長さは毎日少しずつ変化しているにもかかわらず、人間にはそれがあたかも、ある時期に突然として急変したかのように感じる。物質文明の中にどっかり腰をおろして暮らしている人間にとって、毎日の自然の変化を見つめる感覚は、それほど重要ではないのであろう。これは自然の中に生かされているという自覚を忘れやすい人間の愚かさかもしれない。

まあ、それはそれとして、僕にとって「陽が短くなってきた。」と感じるついでに「祭りが近づいてきたぞ。」と感じるおまけが毎年毎年ついているのだ。やっぱり人間に生まれてよかったと感じる時である。これが祭りの季節を意識し始める第一歩である。そして、その意識を高めてくれるのが涼しさと虫の声である。そしてきめては無意識に歩いていて、金木犀の香りをふとかいだ時。これでもうノックダウン。「うわっ、祭りが来る!」ということで頭の中は祭り一色にさせられてしまう。花の名前もあまり知らないものにとって、花の香りなど常は皆無といっていいほど意識していない。しかし、金木犀の香りだけはやたらと敏感である。その花は道ばたに地味に咲いていて赤黄色、香りは鼻をクンクンさせて、嗅ぎにいってもあまり匂わない。横を通りかかると、ふ〜と落ち着きのある品の良い、それでいて強烈な香りが飛び込んでくる。なんか日本文化を象徴しているようで心憎く思えてならない。(余談…もし、金木犀のような女性が現れたら、もう全身まっ赤に燃え上がり、半鐘は鳴るは火消しは飛んでくるわで、まるで火事のような騒ぎ…てな感じになるだろうか。)
こんな感情を単純で幼稚であると思われるかもしれないが、自分の中で祭りがまるで身体の一部のような存在感は確保していることを理解してもらえば幸いである。

土着的伝統芸能が自分自身のものであることはこのうえない誇りであり、最近『祭り』が自分の中の民族意識をより強固なものにしている根底をなしていると思うようになった。そして、このことに非常な喜びを感じてならない。生まれ育った連雀に、掛川に、そして日本にそれぞれ誇りと愛情を強烈に持たせてくれたものは、祭り・祭り・祭り以外の何ものでもないのである。掛川祭りバンザイ!
追伸「火の鳥よ!我が祭りにおまえの生血を与え給え!たとえ我々人間には命の終わりが来ようと、祭りには永遠の命(不老不死の命)を与え給え!」(マンガの読み過ぎ?)
昭和39年の時の吉原雀。当時小学生だった鈴木廣美さんの写真。袖が現在とは違っているそうです。
昭和初期の吉原雀
小嶋政男さん
  十九首
昭和初期の十九首の屋台
十九首の伊藤酒店店主寄稿

町の名前でみなさん、まずびっくりすると思いますが、十九の首と書きます。このいわれは、平将門以下十九人の首がまつられているところから十九首という町名がつけられました。

十九首には首塚様がまつられており、毎年8月15日と9月15日には首塚祭りをして供養しています。また、十九首には成田山というお寺が有り、この寺でも毎月28日にお祭りが行われて居ます。昔は夜店もたくさん出て非常ににぎやかでした。また、四年に一度の大祭りには女子が、あでやかな衣装をまとい「神田祭り」を踊ります。

また、屋台祭礼囃子が全国郷土芸能名曲として認定されて降ります。遠き祖先が素朴な命の中から屋台(山車)を建設し、十九首町にふさわしい郷土色を織り込んだ奉納祭礼囃子を選定し、今なお、祭典青年連によって継承保存されている、名実ともに優れた古典芸能です。主曲、屋台、下の曲、大間の曲、助曲鎌倉の曲、昇殿の曲、かっこの曲、道囃子四丁目の曲、以上七曲が認定されています。
十九首の屋台引き回しの様子(現代)

お祭り特集の取材に行って感じたことは、思い出話を聞かせていただこうとインタビューすると、大部分の方が「掛川大祭」に集中します。掛川の場合3年目ごと(4年目ごととか中2年という呼び方もします。)の「掛川大祭」につきるようです。それだけ大祭りにかける意欲がうかがわれます。「掛川大祭なくしては掛川は語れない。」昔から引き継いできたこの伝統ある行事をいつまでも失わず、後世に残していってほしいものです。しかし、観光文化的なものでも困ります。ポスターを出したり、新聞などにスポンサー付きで宣伝するなどといったことは、むなしく感じられます。ただ人間が多く集まってワイワイ騒いで楽しむだけのものではなく、その中にも昔から伝わってきた住民の意識と、現在生活している住民の意識を大切にしていくべきであると思うし、また私たち自身も未来の人たちに対して何か形に残る掛川の祭りを創り出していかなければならないのだはと思います。