水田耕作の始まりから古墳文化へ
Vol.11 1981年2月号掲載
水田耕作の開始と階級の成立

 日本の金属器時代の最初の文化は弥生式土器文化であります。しかし、この文化は日本の中で生まれ発達したものではなく、すでに青銅器時代を経て鉄器時代に入っていた大陸の漢の国からの影響による文化であったのです。そして、稲作技術の導入とともに水田耕作が開始されました。この鉄器は石器と比べ高能率で多くの用途を持っているため、農耕技術や生活様式を発展させていきました。

 しかし、水田耕作をすることにより今までより大規模な共同の労働力が必要となり、それまで行われなかった開墾や灌漑をするために、人々は集まり集落もより多くの人々で形成されるようになりました。そして、米作などの生産力も高くなり、余剰物資の貯えも可能となって、労働力の大小強弱によって収穫高の大小も生まれてきました。

 この時代に、次第に大きな力を持った者が小さな者を隷属させ、階級的な関係が形成されていったのです。こうした階級関係は、収穫の差や部落の大小などの物質的な条件を基礎としてそれらを背景として政治的な支配関係を生じさせ、その結果、各地に小さな支配関係が生じている集団を形成していったのです。

埋葬形態が権力者によって変化してきた

 そして、次第にこのような小さな支配集団を統制する政治的な権力支配者が生み出されました。当然ながら彼ら支配者側の埋葬形態も変化をもたらし、今で言われる古墳が発生しました。

 この当時、一般の民衆は、地中にじかに埋葬されていたようですが、この古墳、たとえば前方後円墳などを代表とする高塚古墳は、葬られた者の生前の権力がどれほど強大であったかということを示すものであり、副葬された鏡や剣、勾玉や多くの工芸品などでも、強力な権力者だけの墓であったことがわかります。

掛川にある古墳は670基余り

 古墳は畿内を中心に、3世紀末より6世紀ごろにかけて全国に多くつくられました。この掛川市内にも大小670基もの古墳が現在確認されています。その形は、円墳と丘陵の斜面に横穴を掘って埋葬した横穴墳がほとんどで、横穴墳だけでも500基余りあります。前方後円墳は4基確認されています。

 円墳には「春林院古墳」(直径約30メートル)や「平塚古墳」(直径約30メートル)などがあり、前方後円墳では西郷地区にある「下山古墳」(全長112メートル)、原野谷の「大塚古墳」(全長60メートル)、「金塚古墳」(全長66メートル)、吉岡の「ひさご古墳」(全長55メートル)があり、その中でも下山古墳は静岡県下最大の古墳です。これらのものは5世紀前期から6世紀中期のものと思われ、この時期にはもうすでに掛川の地においても、かなりの支配力、権力を持った豪族がいて、掛川地域を統制していたものと思われます。

(仲屋考古資料館 仲屋栄一氏)