縄文式土器時代考
Vol.10 1981年1月号掲載
 日本の祖先は、ほとんど大陸文化の影響を受けることなく、石器時代を過ごした。しかし、土器や石器に見られる高い工芸的才能は石器時代としては他に類のない高まりを見せたという。

 例えば縄文式土器の使われていた時代を見ると、早期の頃には、器の面により糸で文様をつけていたのが前期には土器そのものを縄編みのようにした文様を付け、中期には土器に彫刻をほどこしたり、中には透かし彫りを加えたりしたもの、後期や晩期になるとその文様が千変万化で、器の形も生活用途にあったものが作られるようになった。(かめ型、壺、深鉢、浅鉢、皿、高坏型など)

 しかし、食べることや生産に関しては、狩りをしたり採集をしたりの生活で、農耕、牧畜の技術はほとんど発達せず、低い生産力であった。住居も竪穴式住居で、地表を少し堀りさげて土間を作り、柱を立てて屋根を付けたもので、古代社会に入ってもこの方式がつかわれていました。

 当時の生活は、自然現象に大きく左右されたことは、この採集生活によってもわかります。豊作を祈るために呪術を行い、そのための土器(土偶)や魔よけのための装飾品なども出土しています。すなわち、呪術を信仰していたとうことは、それ自体当時の人間の生活に大きな力を持っていたと考えられます。

死者の手足を折り曲げ地中に埋める屈葬なども、死者の再帰の恐怖から考え出されたもので、さらに死者のひざの上に石を抱かせた抱石葬等もありました。呪術がこの時代を支配していた事は明かで、その集団は、やはり呪術にすぐれた者がまとめていたと思われます。

 この時代の社会組織はあまりよくわかっていませんが、現在有るような国とか県、都市や町などは存在せず、人間同士の貧富の大小などもない時代の文化であったと言うことが判断できます。すなわち、縄文式土器の時代までは、政府を必要とせず、上下の差のない時代が数千年もの長期にわたり維持されていたのです。

 しかし、同じ時代の大陸文化は、すでに金属文化の時代で、いまから2300〜2400年前の海を隔てた当時の漢王朝では強大な国家を形成していました。その発展はめざましいもので、ついには日本に金属文化と水田耕作の農耕技術をもたらし、今までの低い生産力と未開の文化は一大変革をとげたのです。

 そして、その新しい文化は、国家の成立と階級支配の政治社会を形成する力を持っていました。その変革は土器にもみられ、今までの様式とは異に、単純な器形と直線的な文様で、細かな土で高温で焼き上げています。これを弥生式土器と呼び、掛川地区でも多くの遺跡があり、出土品も多数あります。
協力/仲屋考古資料館 仲屋栄一氏 (掛川市原里)