小笠神社の矢はぎ祭
Vol.8 1980年11月号掲載
 大東町入山瀬にある小笠神社ができたのは今から1278年前。文武天皇朝、大宝律令が制定されたときの時代にまでさかのぼる。当時、文武天皇の皇后は熊野の神を敬っていた。そして、男児が生まれたならば東の国に熊野の神を祀ると約束していた。しばらくして男児が生まれ、小笠郡横須賀に本宮を、高松に新宮を、小笠山に那智の神々を祀ることになった。すなわち、小笠神社は熊野の神の分霊を移し祀った勧請神社(かんじょうじんじゃ)というわけなのです。

 この小笠神社でおこなわれる「矢はぎ祭」も古くからの行事で約680年前の室町時代より伝えられています。室町時代と言えば足利尊氏がまず頭に浮かんできますが、この矢はぎ祭に関する主人公は、当時将軍の次位に政務に権力のあった執権の高師直々の配下にいた県一族(あがたいちぞく)なのです。

県一族は、足利氏らの内戦において敗戦し、この遠江地方に逃げ各所に分散し、いつの日か一族再起の夢を果たすために時を待ってたのでした。そして、彼らが集まる所に選ばれたのが、県一族の信仰の神である熊野の神が祀られている小笠神社だったのです。神社祈願と称して集まれば一族の再起のための集まりとは気づかれずに秘密のうちに謀(はかりごと)ができたからです。

将軍側にとってはよからぬ会合だったので、一族は慎重に事をはこび常に6名が厳重に警戒にあたりました。しかし彼らの再起の望も次第に断たれていき、この集まりも一族の戦没、死没者の霊をなぐさめる集まりとなっていきました。時代を経るにつれ神社の祭りと結びつくようになり、一般地域住民までも参加するようになったのです。

 初めの頃は、一族の子孫らが県一族の思いを「矢」に託して弓矢をつくったと言われ、近隣に分散していた一族の警戒にあたっていた人たちがつくっていたようです。その後、時は流れ一族の子孫もわからなくなり、現在では、上西郷、構江、五明、石ヶ谷の地域の信者ら6人が例年10月23日までに、大中小の「矢」を作ることになっています。そして「矢」を作った人たちは矢はぎ祭の祭典には参加をしないしきたりになっているそうです。矢はぎ祭は毎年11月2日・3日に同地区でおこなわれます。