十九首の地名由来
Vol.7 1980年10月号掲載
 平安時代の中期、今から千年以上も前の朱雀天皇の時代に、武将の平将門(たいらのまさかど)は摂政藤原忠平に仕えていた。

 将門は検非違使(けびいし)になることを切望していて、幾度となく摂政に求めたが取り上げられず、失望の日々が続いていた。(検非違使とは、今の裁判官と警察官とを兼ねたような役職で、その権限は強大なものであった。)そこで将門は、京にいても検非違使の望が叶わないなら仕方がないと思い、京を離れて関東に赴いた。後935年、自分の伯父である常陸(ひたち)の国の平国香(たいらのくにか)を殺害し、兵をあげて近国を侵したりの叛逆が続き、また自らを新皇と称し、偽りの宮廷を下総の猿島(さしま・茨城県猿島郡岩井付近)に建立し、関東地方に威を振るっていた。

 平貞盛(たいらのさだもり・後の平将軍)はこの謀反(むほん)をなんとか鎮めなければと、自分の父を甥である将門に殺された恨みも手伝って、藤原秀郷(ふじわらのひでさと・むかで退治などの伝説があり弓の名手)らと協力をし、天慶3年(940年)に兵を出し、この将門の乱を攻め打った。そして、将門ら19人の首を持って(当時は討伐の勝利の証として首を取った。)京都へ帰る途中、京都から将門征伐のため上総へ向かう一行と掛川の宿で出合ったのである。

 京都からの一行は将門征伐の事実を知り「これは正しく平将門の首なり。」と確認し、それならば、京都まで首を持っていかずともこの地で……ということになり、この19人の首を宿場はずれの村に、さらし首として並べたのである。そのことがあって以降、この村を十九首(じゅうくしゅ)と呼ぶようになった。