塩町火災
 Vol.36 1983年3月号掲載
 昭和9年(1934年)2月28日午後3時ごろ、子供が遊んでいたロウソクの火が障子に燃え移り、またたく間に33軒を焼く大火災となった。

 これが「塩町火災」と言われる掛川では昭和の時代に入って一番大きな火災であった。焼け出されたお宅の中に印刷屋があって、この印刷屋の紙が堀之内(現在の菊川町)まで飛んで行ったと言われているから当時は相当な強風が吹いていたものと思われる。

 上張のガードから北に向かう塩町通りは、昔は南北(海と山)を繋ぐ重要な道路であった。道幅は今ほど広くはなく二間から二間半(3.6メートルから4.5メートル)くらいで、道の両側はほとんど隙間のない位に商店が建ち並んでいた。

火元から火は東に延び、通りから南側に向かって一気に延焼していった。町の北側は二軒の土蔵によって延焼をまぬがれた。火の廻りが早く、逃げるのが精一杯で、ほとんどの家が何も持ち出せないような状態であったという。火災に遭った袴田さんのお宅では、風呂釜と焼けた掛け軸が残ったくらいだったという。

 昔、塩町の公会堂の裏に9尺(2.7メートル)くらいの大きさの池があったそうである。古文書では昔公会堂を作るために掘ったと記されているそうで、この火事の跡の瓦礫を運んで埋められ今は跡形もない。そして、この池の奥の田んぼにも埋めたために、戦争当時に野菜がなくていろいろ植えようとして耕した所、瓦ばかり出てきて大変だったということである。今でも火事のあった所の土地からは少し掘ると焼け跡が真っ黒い層になっていて、焼けた茶碗や炭がいっぱい出てくるそうである。

 ここに掲載した写真は、掛川で唯一の貴重なその時の写真である。撮影者は当時中学3年生だった中央町の山下酒店の現店主。山下さんが学校から帰ってくると「火事だ!」と言う声で外に飛び出すと、東の方で炎がかなり高く上がっているのが見えた。親戚の家がある方向だった為に「手伝いに行ってくらあっ」と道を通らず田んぼの中を走って行った。

現場は野次馬でごった返していたそうだ。水の便が悪く、水道の水と神代地川の水では間に合わなくて、大東町へ抜ける上張のガード横に水を抜く小さなガードがあってその下の水をバケツで手送りをしたという。これは当時中学校に配属将校という軍人の教練の先生が来ていて、ちょうど帰るときの火事だったために、汽車で通学している生徒達を「こっちに来い!」と指示して教官の指導の下にバケツリレーが行われたそうである。また、現在の藤田鉄工所の駐車場付近にも水路があったが、水路に溜まっていた水も直ぐに空になってしまったそうだ。

 山下さんも一緒に手伝っていたが「のどが渇いても水道の水がきやへんもんで、ここらで帰らすって帰って来たら、カメラにフィルムが入っていたから、途中で三脚を買って写真を撮りにいきました。当時のカメラは弁当箱くらいの大きいカメラで、風呂敷をかぶせて撮るやつだったから、それを担いで行きましたよ。」そのカメラで収めたのがこの写真である。撮った後はご自身で現像から焼き付けまで行ったそうです。(写真は中央町・山下酒店店主撮影)