戸塚静海について
Vol.27 1982年6月号掲載
種痘活動と西洋医学の振興に努めた
木(喜)町が生んだ偉大なる人物、それが戸塚静海
 掛川市の喜町は、昔は木材関係者が多く住んでいたため木町と呼ばれていた。当時火災も多く、一度火が出ると大火事になりやすかった町である。天保13年(1843年)11月11日の夜、戸塚静海の長兄の戸塚泰輔の家から失火して、木町・塩町・横丁の70戸余りの家が焼けたという。そのためその大火事の2年後に惨事を繰り返さないように「木町」を「喜町」改名したそうである。

 種痘(牛種痘を人体に接種し、天然痘に対する免疫性を得させ、感染を予防させる方法)活動と西洋医学の振興に努めた戸塚静海は、この木町の戸塚家の三男として生まれた。戸塚家は祖父の代から木町で医業を営んでおり静海の父親は掛川藩の藩医としても活躍していた。そして、二人の兄も医師に、妹は森町の医師の所へ嫁いだという医者一族であった。現在、仁藤の公民館として使われている建物は戸塚静海の生家である。
17歳で江戸、25歳で長崎に行きシーボルトに師事

 静海は本格的に蘭学(江戸中期以降、オランダ語によって学術を研究しようとした学問)の勉強をするために17歳で江戸に行った。そして、25歳の年にシーボルトに師事すべく、長崎に遊学に出た。そこでは臨床外科の分野を学び、蘭学外科医としての実践面で卓越した腕を磨き、現在で言う臨床外科(実地)の分野を開き、その元祖と呼ばれる程になったといわれる。
 
愛飲家

 天保2年(1831年)2月11日、戸塚静海は長崎を後に帰郷の途についた。「静海上府懐日記」という日誌ににはその時の江戸へ落ち着くまでのことが記述されている。

 静海は帰郷にあたり、熊本へ帰る新免武蔵流剣士でもあった森武七郎と同道することになった。この日は雨と記されているものの、長崎出発は相当に派手で、12名の友人に送られ、さらに長崎の綺麗どころを2人連れた友人3名も加わり、投宿して別れの宴が行われた。「春雨のふる涙か桜咲くこの長崎の色香忘るな」の一首が書き添えられていた。戸塚静海の旅日記には飲酒の記事も多い。途中、西日本の名のある医家と交流を重ねながら、5月12日に掛川に帰郷。4ヶ月ほど居て9月15日には再び江戸に向かっている。

漢方医学界からの排除活動

 幕末の医学界は従来の漢方中心の医学と西洋医学に分かれていた。西洋医学は西日本から次第に東日本に広められ、各地でその真価を発揮し好評を博したので、今までの漢方中心だった幕府の医療・医育機関はおおいに慌てだした。そして、安政4年(1857年)には、幕府の医学館世話役であった多紀元堅が中心となって、西洋医学御禁制のお触書を幕府に出させたりしたが、多紀元堅と督学官が相次いで死亡したため蘭学反対の勢力は急速に衰えていった。

お玉ヶ池種痘所の開設

 翌年の安政5年3月7日には、伊東玄朴と戸塚静海らが中心となった私立の「お玉ヶ池種痘所」が開設された。これは種痘を行うための共同の機関で、現在で言う医師会立の予防接種センターのようなものである。しかし、この種痘所も半年後には神田相生町から発生した火災に遭い焼け落ちてしまった。だが、再び蘭方医らの寄付金によって再建され、現在の東京大学医学部に至るいわば原点となった。お玉ヶ池種痘所では、開設後まもない安政6年10月には死刑死体の解剖も行われ、種痘活動などの公衆衛生活動以外に医育活動などの研修事業も行われていた。

 漢方勢力の強かった江戸では、西洋医学は8年も京都・大阪に遅れていたが、お玉ヶ池種痘所が建設されて以来、組織的な行動を行ったこともあって、予想外の成果が得られ蘭方医学への理解も急速に深まっていった。そして、幼児期に天然痘を患い病弱であった徳川13代将軍家定公が重症の脚気を患ったとき、伊東玄朴と戸塚静海が奥医師として新たに就官している。

 木町(喜町)の生んだ偉大なる人物戸塚静海は、伊東玄朴とともに西洋医学の発展に常に指導的立場に加わり中心的な存在にあったが、明治9年、78歳でその生涯を閉じた。(資料提供:小笠医師会)