掛川の米騒動
Vol.25 1982年4月号掲載
下俣で生まれ育った伊藤はるさん(81歳)は明治、大正、昭和の掛川を見続けてきた。伊藤さんは大正7年8月15日に掛川で起こった米騒動を見ていた。今では少ない生き証人である。今回は当時の模様を語っていただきました。

その前に米騒動について簡単に………
 米騒動とは米価が暴騰したために生活難で苦しんでいた大衆が米を安く売るように要求して、米屋をはじめ富豪邸や警察などを襲撃した事件。

 大正7年8月、富山県魚津市の漁民の主婦等が県外移出の米の積み込みを拒否したのをきっかけに全国の37市134町139村に米騒動は波及した。
 参加者は70万人に及んだ。非力な民衆は警察隊や軍隊により鎮圧されたが、時の寺内軍閥内閣は倒れた。
 この事件は第一次大戦中の資本主義の発達にともない物価が高くなり、また米の需要の増大に生産が追いつけなかったことなど、結果その過程も日本資本主義自体自らが作りだしたものであり、その後あらゆる社会運動の発展を促した事件でもある。
掛川公園の天守台にある平和観世音
「いよいよ線路をまくらだや」

 当時一升18銭から20銭だった米が、30銭、40銭、50銭とみるみると上がり続け、ついには60銭まで跳ね上がってしまった。ギリギリの生活を強いられている者は追いつめられ、なんとか普通の生活をしていた者も「こんなに米が上がったんじゃ、はあ、いよいよ線路を枕だ。(自殺を意味する。)」と言って、みんな泣いたそうである。当時の人々の暮らしは、出費がほとんど米代で占められていた。この米の高騰で、高いからと言ってこればかりは止めるわけにはいかなかったからだ。

 8月15日夕方6時頃、松ヶ岡の方から鬨の声が聞こえた

「あの時のことは今でもよおく覚えている。」当時尋常小学校6年生だった伊藤さんは、幼いながらもその時の恐怖は心に鮮烈に焼き付いて離れないと言う。

 明治末期、現在の掛川公園の天守台にある平和観世音が、どこからか汽車で運ばれてきた。そして掛川駅からは馬車で巾が1メートルちょっとしかない道をテコを使いながら苦労して運んだそうである。日本も明治の時代から戦争ばかりやっていたためこの観音さまのことを人々は「戦勝観世音」と呼んでいた。当時の天守台は数人の尼さんによって守られていたそうである。(男性は一人もいなかったそうだ)そして、毎日夕方の6時頃になると、尼さんが打つ鐘の音がチャンチャン、チャンチャンと掛川の町に鳴り響いた。

 しかし、8月15日に限って、チャンチャンチャンチャン……と異常な鳴り方をした。不審に思った伊藤さん親子は「こんな鳴り方したことないのにきょうはおかしい。きっと何か悪いことが起こったに違いない。」そんな会話をしていたら、突然遠くの方から大勢が大声で叫ぶようなときの声が聞こえた。「ただごとではない。」と思っていると、再び松ヶ岡(当時の掛川の御三家)の方から「ワーアッ」という声が聞こえた。その時事実、松ヶ岡の前には竹槍や石を持った群衆が200人近く押し寄せていたのである。

 伊藤さんには何が起こっているのか訳がわからなかった。しかし、幼いながらに感じ取った恐怖で全身に震えがきたそうである。

墨を付けて回った警察

 近くで「米を何俵でも出すか!出すなら証文を書け!」と言う声が聞こえた。伊藤さんは戸をそっと開け外を覗いてみると、200人くらいの群衆がすぐそばに見えた。掛川で先ずまっ先に狙われたのは、米を一番多く所有していた松ヶ岡であった。

 それから群衆は何組かに分かれて、当時「お代」と呼ばれている富豪の家や米屋と、次々に回っていった。建物を壊された家、商売用の商品がメチャメチャにされた金物屋…。そして、その群衆の一団が伊藤さんの家の前を通り過ぎて近くの米屋の前に行った。そこの米屋は表の電灯の下にすぐに大きな張り紙を出した。「米一升50銭也」これを見た一団は店の前で「バンザーイ!」をしてその米屋には石ひとつ投げずに次の標的に向かって去った。

 その時、伊藤さんは、後ろの方でその様子をじっと見ていたが、その一団の中に不審な男達に気が付いた。ほっかむりをして、薄汚れたシャツを着た人が2〜3人で手当たり次第に一団に墨を付けて回っている。家に帰って「おっかあ、おとう。何だか変なものを付けて回ってる人がいたけど、ありゃあなんだいねえ?」と、話をしたが、両親にもわからなかった。

 そして、その夜から「お代」と呼ばれている家々に鉄砲手紙が次々に投げ込まれた。中には「油で焼き殺すぞ。」というような文句が書かれていたという。その日から一週間、その家々に消防団が寝ずの番に当たった。それから2、3日後、米騒動に参加した人々は次々にひっぱられて行った。

 その時始めて不審な男達が一団に墨を付けて回っていた理由がわかった。墨を付けて回っていた男達は実は巡査であった。身なりの貧しい格好をして、皆と同じように騒いだ振りをしながら、しっかりと証拠を残していたのである。生きるために必死でやっている人たちには、わからなかった。後日、墨を付けられたことが動かぬ証拠となって3年も5年も刑務所に入れられたと言う。

「野次馬の人たちまでみ〜んな捕まって、馬鹿なこんだにぃ。」幸い掛川では、伊藤さんの知る限り、けが人や死者はひとりも出なかったということである。

米騒動のおかげで

 事件後、掛川の役場から南京米や台湾米の配給があって、人々は苦しい生活を何とか乗り切ることができた。その後の米の暴騰を妨げることもできた。しかし、配給された南京米は。臭くてとても食べられた代物ではなかったという。麦なんかがあれば上等の方だ。伊藤さんは、その麦も手に入らず仕方なく南京米を口にしたが、いまでも思い出すだけで(その臭いと不味さで)身震いがするという。

 こうして、日本全国を揺るがした米騒動は結末を向かえた。しかし、ここで忘れてはならないことは米騒動に参加して警察に引っ張られていった人たちのことである。米騒動は、貧乏に喘ぎ苦しんでいる当時の大衆が生きるか死ぬかの中で選択した最後に残された行動の手段であり、唯一の抵抗の手段だった。現在に照らし合わせた法的な善し悪しは別にして、民衆の生活と生命を守るために闘った勇気ある行動であったことを忘れてはならない。