遠江塚(とおとうみづか)
Vol.241982年3月号掲載
 今からおよそ379年前の慶長8年(1603年)11月11日、掛川城の若殿松平定吉が19歳の若さで切腹した。定吉の父、隠岐守定勝は徳川家康の異母兄弟にあたる。すなわち定吉は二俣城で切腹した家康の長男信康(21歳または19歳説)や二代将軍秀忠(生母は掛川出身の西郷の局)とは、いとこになり、徳川家康の甥にあたる。
 定吉が切腹した原因については一説に…その日家康は池新田の村はずれで定勝、定吉父子の出迎えを受け馬に乗って千浜に行った。渚に近い砂丘の座所にはいり、家康は定勝の父子のすすめる酒杯をかたむけていた。

 やがて運ばれてきた料理の箸をとろうとしたとき、家康の周囲をとりまいていた家来たちの間に不意に声のないざわめきが起こった。家康がそれを感じ取って目を上げると座所の中から一羽の海鳥が飛び去ろうとしていた。家康はその鳥を目で追いながら、傍らの定勝に「大鷺(だいさぎ)じゃな」と呟くように言った。その時定吉が不意に「誰か弓を持て」と後ろに控えていた家来に命じた。家来の一人が定吉の愛用の弓を差し出すと。定吉は片袖をはずした。その頬にはかすかな笑いが走っていたという。

 そして、飛び去っていく白い大鷺めがけて矢を射った。矢は見事に大鷺の翼を貫き、木の葉のひるがえるように身もだえしたかと思うと、ゆらゆらと波間に舞い落ちた。定吉はひそかに家康の口から、称賛の言葉がでるのを期待したが、以外にも家康の口から出たのは「只今の弓勢、笑止見事には似たれど、万一射損じたらば弓矢の恥辱、益無き事に誇るは武士の心得にもあるまじきことよ。きっと慎みおろう。」定吉は己が不意に底知れぬ奈落に落ちてゆくのを感じた。そして、その夜定吉は、家来20余名と共に大手千年杉根方で腹をかき切って果てたと言うことである。

 定吉の切腹した本当の原因は定かでないが、家康は甥の定吉の激しい性格が、自分の子供の中でも最も愛した長男の信康を見る想いでいた。定吉の激しい性格を直させ、これからの世の中、武将としてではなく民衆を掌握していく大名として育って欲しくて叱咤したが、定吉は家康の心をわからず誤解したまま命を絶った。

 下俣には定吉の墓場「遠江塚」がある。生前の定吉と親交があり手習いの師匠であった真如寺二代聚鯨和尚の手で引導をしこの地に葬った。遠江守を葬った所として「遠江塚」と呼ばれるようになった。

 毎年11月11日は供養祭が行われるが、当日は雨が降ったことがないという。前日大雨が降っていても不思議と当日になると晴れわたっているそうである。それに、定吉は大の勉強家であり、菅原道真(天神様)の子孫でもあるため、遠江塚や真如寺には、受験を控えた人たちが祈願に来るそうである。そして、何故か虫歯が痛むときや、困っているときは「つまようじ」や「大福」を供えると治るそうである。その由来が面白い。生前の定吉は大福が好物だったからだそうだ。


下俣にある定吉の墓場「遠江塚」
歴史というものは確証のある資料が残されていない限り確実なものではありません。いろいろな資料や史跡を基に推測しながら作り上げられていますから、調べる人によって内容が異なる場合もあります。今回の「遠江塚」は西町の西村昭子さんにご協力いただきました。