オランダ人・日本国交商大商官・艦舶帥
ゲーズベルト・ヘミンの墓
Vol.17 1981年8月号掲載
全国に二カ所しかない珍しい形式の墓

 仁藤の天然寺に、およそこの寺に似つかわしくない、カマボコ形の墓がある。この墓はゲーズベルト・ヘミン氏の墓で、キリスト教が禁止されていた当時に、掛川の地で亡くなったヘミン氏を、天然寺が手厚く葬り現在もこの地に眠っている。キリスト教徒を仏式で葬ったところにその時代背景を強く感じますが、この形式のお墓は日本では珍しく、長崎に一つと天然寺だけにあると言われています。
 1549年にカトリックの宣教師フランシスコ・ザビエルが渡来し、日本と西洋との接触が初めて行われたのは周知の通りですが、その後、鎖国に至るまでの100年間、西洋物質文明とキリスト教文化が日本に流れ込んできました。しかし、宣教師を中心とする信者の精神的結合は、せっかく確立されようとしてきている封建秩序にとっては危険な行為。それを敏感に感じた幕府は秀吉以降、キリスト教を禁じる政策をとりました。1635年に外国船の入港や貿易を長崎に限り、さらに1639年にはポルトガル船の来航の禁止、いわゆる鎖国令が出されたのです。キリシタン(キリスト教信者)に対する弾圧は徹底的に進められほとんど全滅に近い状態にまでなりました。
鎖国中にも特権を与えられたオランダ人

鎖国令が出されたにもかかわらず、オランダ人だけは格別の野心がないものと認められて、通商貿易を許されていました。当時唯一の外来者として大江戸の地を闊歩出来たようです。

ゲーズベルト・ヘミン氏もその一人でした。ヘミン氏は、日本国交商(今で言うなら大使的な役割を果たしていた)の大商官および艦舶帥(船長)として、日本を訪れたのです。当時は長崎へ入港すると必ず、江戸屋敷の将軍の所へ行く決まりになっており、ヘミン氏は寛政10年(1798年)の2月に長崎を出発して3月15日に11代将軍家斉と会見した後、4月に江戸を発ちました。しかし、途中でお腹の奇病にかかり、掛川町に足留めとなり、ついには4月24日その病気のため亡くなられたということです。
初めてコーヒー豆を日本に伝えた人?!

 キリスト教が禁制になっていたため、遺骸の始末がすこぶる面倒だったようだが当時の天然寺院代が奉行所等に日参してようやく天然寺で葬ることになりました。以来、23年目ごとには必ずオランダ人が立ち寄って赤い酒を手向けて行くのが慣わしとなった。しかし、明治維新以降は途絶え香花料もこなくなってしまった。オランダ政府は手を引くし、ヘミン氏の遺族もあとを絶ったため文字通り無縁仏となってしまったのです。

 しかし、大正12年(1923年)にオランダ公使館通訳官の文学博士フェンストラ・コイベル氏が古記録の調査のために墓参りに訪れたため墓石の修理や記念碑を建てたらどうかという申し入れをしたところ修繕費の負担と記念碑の建設費へ150円を寄付しさらに毎年20円づつの香花料を贈るということに話がまとまった。そして、昭和3年(1928年)に130年記念碑が建立されたのです。

香花料については現在も続けられていたがここ2、3年は途絶えているとのことです。また、一説によると、ゲーズベルト・ヘミン氏が日本に初めてコーヒー豆を持ち込んだ人ではないかとも言われています。(資料提供:天然寺)