農民が泣かされた!助郷制度
Vol.15 1981年6月号掲載
 昔戦国時代より明治5年に至るまで「駅伝の制」という制度があった。これは都と地方の交通を円滑にするために設けた宿駅制度で、もっぱら官用交通のための設備であった。宿駅には馬、舟、人夫などを備え、宿泊や食事なども提供した。「百匹百人」と言って、馬百頭に人足百人を東海道の各宿場に常時置いて、大名や旅人の食料や荷物を運ぶ役割をしていた。

 時代と共に、参勤交代などの時には「百匹百人」では足りず、各宿場の近くの12里内の諸村から助郷(人馬の提供)を出すようになった。もともと大名は、自ら食糧を持ち、荷物も従者に担がせて戦に備えていたが、戦国時代も終わり世の中が泰平になってくると、次第に大名は威張りだした。自分の荷物も持たないばかりか、旅の途中で不自由がないようにと沢山の荷物を持って旅に出るようになって多くの馬と人足が必要になってきた。そこで、参勤交代などの大勢の大名が通る時には、宿場の近隣の村々から馬と人足を出させてそれを補った。この傾向は元禄(1688〜1704年)の頃に増加し、享保(1716〜1736年)頃には当初の10倍以上の助郷が必要となり、それだけ農民が苦しむようになってきた。

 掛川付近には、金谷宿と日坂宿があり、そこから遠い村の人々は馬を引き連れ往復に2日、そして1日の勤めを合わせると3日間の日数を必要とした。さらにその間の食事や宿泊代も自分たちで出さなければならなかった。
「此上モナキ無理非法ト云フヘシ」(宿駅人馬助合考より)と論ずるほどであった。農民は泣き泣き、伝馬所と言われる宿駅の問屋に金銭を納めて、代役を回してもらい役目を逃れた。一方その問屋では農民から集めた金銭で賃金の安い労働者を雇って利益をむさぼっていた。雇われた人足は「雲助」と呼ばれていた。

 年々、助郷の人数や招集の回数が次第に多くなり農民は農業ができなくなり、百姓をやめる人や離散者が増えていった。日光道中沿道における武蔵、上野、下野の各地ではついに助郷一揆にまで発展してしまった例もある。この助郷制度も明治5年には廃止されたが、掛川近辺でも、泣かされた農民は大勢いた。

 先頃、隣町の菊川町の横山宅に保存されていた資料から、助郷辞退(?)の陳情書の控えが発見された。その一部を紹介します。この資料は寛政11年(1800年)日坂・金谷両宿の伝馬助郷村である嶺田村をはじめ9ヶ村が村の困窮を理由に「助郷役減免願い」を道中奉行に出し、そのかわりに岩井寺・川久保など38ヶ村の、当時助郷をやっていない村に助郷をやらせるようにという願い書を提出したもの。これに対して、江戸道中奉行所から2人の役人が来て、村内の各家に泊まり込んで実情を細かく調べた。各家に泊まり込んでまでの見分は非常に珍しいことだった。
 一方、名指しされた各村々は困ってしまい、東大坂村。西大坂村では、出来ないという返書を道中奉行所に提出した。以下はその時の内容の解釈。


●当時の村の概要
東大坂村 世帯数/143軒他寺2軒
     人 口/608人(男子292名・女子316名)
         内99名が15歳以下60歳以上
     馬 数/4頭
西大坂村 世帯数/214軒他寺4軒
     人 口/901人(男子449名/女子452名)
         内178名が15歳以下60歳以上
     馬 数/8頭

●助郷役減免願いの内容
 大坂両村は金谷宿に8里、日坂宿へは6里もの道程がある。村が遠いため急な用があってもすぐには行かれない。それに山際の村のため、谷や川が多く、雨が降って出水した場合、村内は通行不可能になる。谷から岩石や小石が崩れ出水した川の水がそれを田畑に押し出してしまう。そんな場所がたくさんあり、川が田畑より高いところを流れているため、少々の出水でもそれを防ぐには人手が大勢必要。老人や子供を除いた場合、出水した時にそれを防ぐ人数さえ足らない程。それに城主から、金や米を配給してもらっている様な状態で、貧しいので馬の数も少ない。助郷を命じられても馬や人足を出すことは不可能。

 それに、山はたいへん深山で、いのしし、鹿、さるが多く出て田畑を荒らして困っている。近年、特に多く出るので昼夜、交替で番をしているがそれでも防ぎきれない。領主に頼んで、いのしし・鹿狩り等申し立てをしているけど、山が深くてそれもできない。そのような訳で、助郷役を命じられても、1日の役目を勤めるのに3日や4日もかかっていたのでは、田地の作業にも差し支える。江戸から役人が調べている最中に、こんなことを言うのも恐れ多いことだが、たいへん困っているので理解してもらいたい。今まで同様、ご慈悲をかけて、助郷役を容赦してもらえれば、村の百姓一同非常にありがたい。


その後結果がどうなったかは資料がないので判らないが、助郷制度によって農民は非常に苦しい立場に立たされていたことだけはよくわかる資料だ。