掛川市内の最年長
川村イクさんの明治時代の想い出話。
Vol.14 1981年5月号掲載
掛川で最年長の川村イクさんは昨年の12月6日に満100歳のお誕生日を迎えられ、子、孫、曾孫(ひまご)、玄孫(やしゃご)に囲まれ感無量といつたところ。4人の子供に恵まれ、79年経った今、71人もの子孫に囲まれ、誕生日の日は時の重みが伝わった最良の日であったに違いない。「長生きしてよかった。」としみじみ語っておられました。明治、大正、昭和と長い歴史を生きてこられた川村イクさんに昔の想い出を語ってもらいました。
 明治13年12月6日に西山口の満水(たまり)で生まれ育ち、21歳の時に東山口の小原子(こばらこ)の農業を営んでいた川村家に嫁いでこられました。

 私の子供の頃には一人だけちょんまげを結って掛川の街の方に仕事に行っている人がおりました。その当時でも珍しかったですねえ。よく満水の前を通って行きましたが、私の記憶の中では一人だけでした。

 女の人は二つに分けて三つ編みにするが、下の方でくるくると巻いてピンで止めておくくらいでしたね。桃割れにする人はよっぽどおしゃれな人か、お金のある人でした。昔は髪結(かみゆい)と言っていたんですが、普段はなかなか行けませんでしたね。田舎の人はせいぜい盆と正月、お節句くらいで、あとはお見合いをするときぐらいですかねえ。その時(明治中頃)には日本髪(髪結代金)が2銭5厘、島田まげが3銭5厘くらいでしたかね。

 私は21歳で結婚しましたが、昔は車なんてなかったので髪結いに行くにもたいへんでした。一里(約3.93キロ)もある髪結に歩いていきました。帰りはもう外は真っ暗闇。打ち掛け姿で叔母に手をひかれ、細くて街灯もない道を歩いて嫁ぎ先へ行ったのを覚えています。

祝言は二日がかりでしたよ。昼間はできないので、夜やったんですが、夜中か明け方くらいまでやりました。一日目には親類の人が集まって、二日目に近所の衆を呼んでやりました。三日目には花婿と一緒に実家へ帰り「親戚としての往き来のはじめ」みたいな、そういう風習もありました。

それに、昔はほとんどの人が見合い結婚でしたが、一度、見合いすると断れなかったですね。今みたいに「いやだ」からといって簡単に断れなかったんですね。いやでも何でも結婚せざるを得ませんでした。近所の人の目がうるさくってねえ。お見合いしてつぶれると、近所の人が悪く言ったもんで「つぶれた」ってうらまれるもんだから、聞き合わせにくると、悪くても何でもほめからかいて言うもんだから、いいか悪いか結婚しなけりゃあわからなかったですよ。もうお見合いすれば結婚したと同じようなもんでしたね。近所の魚屋のおばさんが「私しゃあ、結婚式のその日まで顔見たことがなかった。」ってよく言っていたけど本当にその通りでしたね。

 食べ物だって粗末だったですねぇ。私はご飯つぶひとっだって、もったいなくて、未だに捨てたことはありませんよ。お菓子なんて盆や正月くらいしか食べたことがなかったですね。お菓子の種類も少なかったし、みんな貧しい生活でしたから。まして、田舎の人は年がら年中仕事してましたから、お菓子作っているひまもなかったですねぇ。まあ今は、昔から比べるとずいぶん生活も便利になったし、楽になりましたね。いま、幸福ですよ。

 川村さんは今でも家業の美容院の仕事を手伝っている。耳と目が少し不自由なのを除けばどこも悪いところはないとのこと。もっともっと長生きして日本の長寿番付に載ってほしいものです。