大正時代の現場事務所
Vol.70 1986.1月号掲載 
 写真(上)は農家の庭先で撮った写真と思いきや、逆川の改修工事(大正12年〜昭和5年)の内務省(現建設省)の現場事務所である。後ろが堤防だから河川敷に建てられていることになる。建築現場の事務所と言えばすぐにプレハブの建物を想像してしまうが、良く考えてみればプレハブ住宅というのは外国で第二次世界大戦後、大量の住宅不足にともないその解決策として質より量を重んじて作られたものであるから、大正時代に有るわけがなかった。それにしても現場事務所のイメージとは程遠い。

 こういった建物は、工事が始まる前に建てられ、工事が完了するとまた解体して、次の工事現場へと移転していく。だから、工事現場の建物は日本全国探してもおそらく現存している建物は無いだろう。

 茅葺きの屋根にガラス窓の取り合わせもなかなかユニークである。当時のこういった建物にガラス窓を使ってあるのは珍しいと言う。この建物に宿泊している人はいなかったそうだから、右側の建物は工事用の道具置き場として利用していたのかもしれない。建物の右前には男乗りの自転車も置かれている。

 一枚の写真(下)は、太田川の曽我樋管工事(大正14年7月撮影・水を送るための管を架け渡す工事)の時の写真である。丁度昼休みなのか、女性の膝の上には弁当箱らしきものを包んだ布が置かれている。男性の中には、写真なんか関係ないといった感じでもくもくと箸を動かしている人が何人か居る。そして、一様に底の深いアルミ製の弁当箱である。(アルミ製の弁当箱は真ん中に梅干しを入れると長い間には蓋に穴が空いてしまうことがあった)

 現場で働いている少年だろうか、まだ幼さの残る少年が4人ほど写っている。そして、右側の後ろは杖を突いたおじいさんと、子どもを連れた男性が一緒に写っているが、この3人は工事現場を見学に来ていたのだろうか一緒にポーズまでとっている。真ん中辺りに何故か一人だけ法被を着て背中を向けている男性が居る。いったいどうしちゃったんだろう。背中には三星印という文字が漢字と英文字で染め抜かれている。

 この写真を見る限り、何とも長閑な風景であるが、実際には機械の発達していない時代であったから、砂利や土を運ぶトロッコ以外は全て人力に頼っていたから、仕事は今よりもずっときつかった。(写真は金田組所蔵)