戦勝祝いの仮装行列
Vol.69 1985.12月号掲載 
 大正7年(1918年)11月に第一次世界大戦は終わった。写真(吉筋貫二氏所蔵)は、日本軍が中国の青島(チンタオ)を侵略したとき、戦勝祝いの仮装行列を行ったときの記念写真と思われる。(当時の軍旗を持っているので疑う余地は無いが)場所は喜町の喜半商店の裏庭である。緑町にもこの当時の物と思われる仮装行列の写真が残っているそうなので、多分全町をあげての戦勝祝いだったのだろう。

 明治37年(1904年)の日露戦争の時にも日本国中で華々しく戦勝祝いが行われた。東京では「帝国万歳大勝利」「戦況報告演劇」が上演されたりして、各座で戦争劇が盛んに行われた。提灯行列やイルミネーション電車(電灯やガス灯を使って装飾を施した電車)も走ったと言う。

 掛川でも駅前に凱旋門を作って、帰ってくる兵隊を迎えたと言う。その時に提灯行列や仮装行列が行われたかどうか定かでは無いが、「かなり派手に行われたというのを聞いた」という人もいるので、多分その時も行われたのだろう。
 住民が楽しむための仮装行列ならともかく、戦争に勝ったお祝いの仮装行列だけは御免被りたい。

 昔は事あるごとに仮装行列が行われたようである。二俣線の掛川〜森間が開通したときも、子ども達は旗行列を作って旗を振り、大人達は仮装行列、夜は提灯を持ち列を組んで練り歩く提灯行列が行われた。仮装行列は各町内ごとにそれぞれ工夫を凝らして扮装し、審査員の前に行く。審査員が点数を付けて1等、2等、3等と決めていくので、みんな真剣であったと言う。

 その頃も、学生の参加は禁止されていたようであるが、当時中学生だった3人がこっそり参加。寺から坊さんの衣装を借りてきたり、女学生に扮して大人に混じって出たところ、坊さんの扮装をしていた人の高下駄の鼻緒が切れ、下を向いて直していたら、それを見ていた仲間が「○○どうした?」と名前を呼んだ。偶然にもその場に先生が居合わせ「まずい」と思ったら、運悪くかつらがポトリと落ちてしまい、ばれてしまったそうである。参加していた他の2人はこの事態に声を掛けることも出来ず、素知らぬふりをして行ってしまったという。扮装していたので顔が解らなかったのだろう。見つかった人は、最後まで他の2人の名前を言わなかったので、1人だけ3日間の謹慎を命じられたそうである。