人力で作られた奥姫橋
Vol.68 1985.11月号掲載 
 掛川第一小学校から仁藤の笠屋町にかけて、南へ通じる道の途中に橋が架かっているが、この橋は奥姫橋と名付けられている。昭和3年7月に竣工されるまでは橋が無く行き止まりになっていた。それまでは笠屋橋を迂回していた。奥姫橋から掛一小学校の通り魔では民家は一軒も無く一面の田園地帯だったという。

 奥姫橋の工事は細田の金田組が請け負ったが、当時は人力だけが頼りで、大工、とび、土工の人々を集めて行われたという。橋脚のボーリング作業の時は、10人ぐらいの女性が、一本一本の縄を持ち、引っ張るときに「よいとまけ」のかけ声を掛けながら行ったそうである。「よいとまけ」のかけ声を掛けるのは、全員の呼吸を合わせる意味がある。

 橋が架けられるときも、家の建て前と同じ様に餅投げが行われた。橋が出来れば地域住民にとっては、わざわざ迂回しなくても済むので、便利この上も無い。そんなわけで餅投げの準備と費用は地域住民が負担した。そして、竣工式の日には必ず三夫婦が渡り初めをしたという。

 一家で三夫婦揃っている家が選ばれ、その三夫婦が先頭になって歩き、その後に関係者が続くのである。市長といえどもこの日ばかりは先頭には立つことはできない。これは「長く持つ」という縁起をかついだもので、今でも続いているそうである。

 竣工式の後は関係者を招いて宴会が始まる。今ならちょっと問題になるところだが57年も前のことだから時効として、その時の写真を掲載させてもらった。宴会場は冨田楼という当時掛川で一番大きな旅館で行われた。(中町の現新泉の前辺りに有った。)女性達が掛けている前掛けには、すべて「祝奥姫橋」という文字が染め抜かれていて、昔の方が今よりはるかに派手だったことを窺わせる。

 ところで、緑橋の総工費が昭和元年で8,000円、大手橋の総工費が昭和5年で7,000円位だったというから、この奥姫橋もそのくらいだったと思われる。これが一年掛けて作った橋の金額で有るが、貨幣価値の違いを感じさせる。

 この奥姫橋も今年には打ち壊されて、来年新しい橋に架け替えられる。(写真は工事中と竣工式が桝忠、宴会の様子が金田組が所蔵)