掛川座の長い歴史の刻印
Vol.67 1985.10月号掲載 
 掛川座は明治40年頃に掛川の有志(主に商店主など)によって、芝居小屋として発足した。昭和初期頃に二代目の田島氏に、昭和29年に現在の戸塚興業がそれぞれ引き継いできた。オープン当時は天井板の一枚一枚に各店の名前が宣伝用に書き込まれていた。そして、2階が桟敷席(高い見物席)、1階が桝席(桝状に仕切った見物席)となっていたが、昭和初期に木のベンチ式の椅子に替わり、昭和31年頃に現在のような椅子に移り変わっていった。

 掛川座は芝居小屋として作られた建物なので、役者が通る花道や、舞台の中心には役者が上がったり下がったりする装置もあった。今は舞台のその部分にはには床が張ってあるが、今でも残っている。舞台の下の地下室に粉をひく時のような装置が有り、これを何人かでぐるぐる廻すとせり上がる様になっている。

 冬は客が練炭火鉢と座布団をお金を出して借り、それが入場料替わりだったこともあったそうで、それが次第に写真のような木札に替わってチケットの役割を果たした。客席は畳敷きなので下足札も用意された。

 当時掛川には映画館が全部で4軒あった。掛川座と同様に肴町の有志が建てたという栄劇場、ここは後に東映のやくざ映画や時代劇映画中心に上映された。中央劇場は洋画専門、掛川座が日活映画専門と分かれていた。後一軒は下俣にあったようだが、どういう映画をやっていたかは解らない。

 戸塚氏が掛川座を買い取ったときは、映画が全盛期になる前で、ピークは昭和35年だった。今までで一番人気のあった映画は岸惠子主演の「君の名は」で、掛川座から掛川駅近くまで行列が続いたという。それ以前には無声映画も掛川座で上映されており、専属の活弁(活動写真の解説者・弁士)が居たという。台本を持って映画に合わせて喋るのである。

 掛川座では、映画上映の無いときには、芝居や歌謡ショー、浪曲などにも利用され何時も超満員で大盛況だったそうである。満杯で札止め(入場券の販売中止)になったら、入れない客が怒り出して、舞台を駆け回ってケンカになったというハプニングもあったらしい。

 掛川座に長年勤めた成瀬さんをご存じの方も多分多いと思うが、成瀬さんが掛川座に入った当時の宣伝というのは、リヤカーの荷台に幟(のぼり)を立てて、大太鼓を乗せて、侍や桃太郎に扮した人が、口上を言いながら、町中を練り歩いたという。