50年前の夏の想い出
Vol.66 1985.9月号掲載 
 明治34年6月に静岡県で5つの中学校が文部大臣の許可を得て開校した。その中には掛川中学校も含まれていたが、実際には明治13年に一度廃校している。明治19年に当時の文部大臣が「学問が盛んになると反政府運動をやって困る」という理由で、中学校を減らすために浜松中学校と合併させてしまった。そのために明治34年まで廃校に追い込まれたのである。

 写真(桝忠所蔵)は昭和10年頃に掛川中学校のプールサイドで撮影されたものであるが、掛川中学校のプールはすでに大正15年に50mプールが新設されていた。これは全国的にも非常に早く、なぜか水泳に力を入れていたようである。東京で一番古いプールと言われている東京芝のプールも、掛川のOBの人達の運動によって出来たものだと言われている。

 当時、水泳部の先輩で東京へ行っていた人達が、同じく水泳部の先輩でもある掛川出身の戸塚九一朗氏(後の建設大臣・労働大臣)のもとに足を運び掛け合って作られたものだと言うことです。それによって、東京で水泳の全国大会が行われるようになったのです。

 掛川中学校は男子校で、男女共学になったのは昭和24年に県立掛川西高等学校になってからである。「男女席を同じゅうせず」ということがまかり通っていた時代でもある。だから、写真にも当然女性は写っていない。
 まだ水泳パンツなるものは普及していなかったようで、全員が褌(ふんどし)姿である。今でも学習院大学では褌なるもので水泳をしている様であるが、一般的にはずいぶん昔に姿を消してしまった。

 15〜16年前に私より3つ年上の従兄とその友人が、近くの池に泳ぎに行ったことがある。その友人は褌で泳いでいたそうで、「池でさんざん泳いだ後、岸にたどり着いたら褌がなかった」という話を後で聞いて大笑いした記憶がある。夢中で泳いでいる内に、何かに引っかかってひもが解けてしまったのだろう。旧城東村の人だったので「山奥の方の人は今でも褌をしているのか」と、冷やかして笑った記憶があるので、当時でも珍しかったのである。写真のメガネをよく見ると、みんな同じ様な、まん丸メガネである。