最後のちょんまげ
Vol.62 1985.5月号掲載 
 「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と言われた頃は、人力車、ガス灯、牛鍋、散切り頭、洋服などは流行の最先端であった。断髪令は明治4年に出されたが、強制では無かった。そのため、中々切ろうとしなかった人もいて、丁髷(ちょんまげ)がほぼ姿を消したのは明治40年頃であった。

 写真は断髪令が出た頃に、最後に丁髷を結う記念に撮らせたものだと言われている。後ろで腕まくりして裾を端折(はしょ)っている姿と、客が扇子らしき物を手にしているために「夏に撮影したもの」という説があるが、実は、客が手に持っているのは、頭の上の毛を剃る時に、額に当てて落ちてくる髪の毛を防ぐための道具(毛受)である。しかも、着物の裾を端折っているのは刺青を見せるためにそうしているのではないかと説く学者もいる。事実、現在の渋谷理髪店の店主の父親が、当人〔写真の立っている人物)が亡くなったときに湯灌をして「その時の刺青がとてもきれいだった。」という話をしていたというから、故意に着物の裾を端折っていたことも考えられる。

 徳川家康が三方ヶ原の戦いで、武田信玄と戦って大敗し、浜松城に退いた。この時天竜川は大水で渡れないし、敵は迫ってくるわで困りきっていた時に、藤原藤七郎(?)という人が案内を願い出て無事天竜川を渡ることが出来た。家康が「お前は何ものか?」と尋ねたところ「人様の髪を結ってお金を戴いています」と答えた。家康は「お前は命の恩人だ、俺がいずれ大望を遂げたときには、何らかの形で褒美をとらせる」と言ってその場を分かれた。

 後に家康が天下を取ったとき、藤七朗は江戸城に呼び出され「お前の望みは何か」と聞かれ「私は元々侍の子孫(藤原鎌足)なので侍に戻して欲しい」と答えた。しかし家康は、侍になるより今のまま髪結いとしてやっていくことを勧め、自分の髪を結わせた上で褒美として、金銭一銭(銀銭一銭という説もある)を持たせた。その後も江戸城へ上がる度に金一銭を貰ったという。それ以来床屋のことを一銭職と呼ばれるようになったそうです。当時の金銭一銭は非常に価値のあるものだったそうです。

 髪結床は集会所みたいな役割も果たしていて、自然に人が集まってくる溜まり場でもあった。碁を打つ者、本を読む者、用も無いのに一日中ブラブラしてる者もいる。特に明治に入ると職を失った武士が、行くところも無くて朝から居続けるようになる。その内に断髪令で日本中の人々が一揃えに丁髷を切り出したので、髪結床は目の回るような忙しさとなる。職を持たない武士も手伝うようになり、仕事を覚えて自分で店を出すようになった。おかげで、日本国中床屋でいっぱいになり、断髪令後は最低の商売と言われるようになってしまった。

 その頃から、髪結いも鋏を持たなければ駄目だと言うことになり、鋏と櫛を買って始めたものの、刈手も刈られるお客も初めてのことで、どんなのが良いのか、そんなことはまるっきり解らない。刈手は鋏をチョキチョキ音をさせる方が上手なんだろうと、むやみやたらにチョキチョキやって、時にはお客の耳まで切ってしまったことも度々あったそうです。当時の人々にとって、散切り頭になることは革命的なことであったろうと思われます。