銀座の賑わい「かけがは」駅
Vol.60 1985.3月号掲載 
 写真は大正12年頃の掛川駅構内の様子を写したものである。今と違って中々の賑わいを呈している。夏休みなのか、子どもの姿もチラホラ見える。男性の頭をご覧戴きたい。当時流行っていたのか、老いも若きも、着物の男性も洋服の男性も、一様に麦わら帽子〔カンカン帽?)をかぶっている。服装も和洋入り乱れ、中にはシャツにすててこ、腹巻き姿の男性もいる。最近はほとんど見かけることも無くなってしまったが、昔は下着で街を歩くことも平気だった。これはこれで、結構さまになっていたし、特別に違和感も感じなかった。

 さて、鉄道によって旅客、貨物を輸送する様になったのは、明治5年に新橋〜横浜間(正式開業)が日本に於ける最初であった。その17年後の明治22年4月16日に、ようやく(官設鉄道)静岡〜浜松間が開通し、同時に掛川駅も開業となった。

 当時の掛川から静岡までの旅客運賃は、上等1円13銭、中等67銭、下等34銭であった。掛川駅には上等が接続されている客車はほとんど停車することも無かった。一般庶民はもっぱら下等を利用し、上等は華族と呼ばれた人達で占められていたということである。上等、中等の座席はかなりゆったりしていて、座り心地も良かったが、中等でもでも下等の倍の運賃では、一般庶民には手の届かない乗り物であった。明治29年の時刻表を見ると、客車は一日上下各8本づつ、貨物が各4本づつ掛川駅に停車していた。

 この鉄道敷設路線決定にあたっては、かなり紆余曲折が有ったと言う。静波、相良を経て海岸線を通る線と、島田、金谷を通って小夜の中山の各宿場を走る線と、いずれにけっていするか中々決まらず、明治19年8月24日付けの静岡大務新聞には「鉄道線路海岸筋に決す」と発表までされたが、それを覆して明治19年12月下旬に、ようやく宿場筋に本決まりとなった。

 昭和元年にの乗車人数は一日辺り平均千人位だったのが、昭和41年には一万人を超した。当時の交通機関としては、重要な役割を果たしていた鉄道も、車の普及と共に衰退の一途をたどり始め、国鉄小荷物の取扱も、掛川は今年の3月で廃止となる。昭和40年頃を境にマイカー族が増え、人口増加や旅行に出かけている人も増え続けているにも関わらず、現在は一日平均7,000人程度である。この数字は昭和50年頃から大きな変動は無い。

 二俣線についても近在住民の大きな切望によって、昭和10年に掛川〜森間が開通し、昭和15年に豊橋までの全線が開通した。こちらも、現在廃線の憂き目にさらされている。ちなみに新幹線が開通した昭和39年の掛川駅発売の乗車券は一日平均13枚。昭和42年に99枚。(現在は不明)そして、新幹線掛川新駅が出来た場合の新幹線乗降客の予測は現在の乗車人数を少し上回る7,600人という発表があった。どこからこんな数字が出るのか疑問も残るが、再び掛川の駅も賑やかになる事でしょう。