約70年前の小学校
Vol.59 1985.2月号掲載 
写真は大正14年の上内田共和尋常高等小学校の卒業記念帖より(石井昂氏所蔵)
 小笠郡上内田村共和尋常高等小学校は、明治6年8月に中内田学校の分校として設立され、明治8年にもう一つの分校と合併し、本校より独立して共和学校となった。上内田、和田、板沢、子隣、岩井寺の地区の子ども達が通学した。現在の市立上内田小学校の前身である。
 当時の義務教育は尋常小学校までで、希望により高等小学校(2年制)か中学校〔5年制)のどちらかに進んだ。(義務教育が小学校6年中学校3年の六・三制になったのは昭和22年から)
 尋常小学校と高等小学校は同じ所に併設されていて、中には尋常小学校だけの所もあったため、高等小学校に進学したい人は他の小学校に通った人もいた。こちらは義務教育では無かったので月謝が必要だった。

 高等小学校に進む子どもはクラスに半分くらいいたが、中学校に進める子はわずか数人で、家が裕福な子どもに限られていたようだ。中には弟や妹を学校に連れて行って、子守をしながら勉強を続けた子も何人かいた。
 当時の服装と言えば、着物に袴、足はわらじ履きという出で立ちで、運動会といえどもそのままの服装で、せいぜい袴を膝丈くらいまでたくしあげるしかなかった。また、勉強と言っても、教科書はほんの2〜3冊しかなく、今のようにテストに追いまくられることも無かった。しかし、修身(道徳教育)が全教科の筆頭に置かれ、明治23年に教育勅語が発せられてからは、「忠君愛国」の教育に終始した。現在愛用(?)されている学生服も、元を正せば軍隊からきたものだという。中学校ではゲートルを巻かされたり、草履の代わりに地下足袋が流行ったときもあったと言う。これらのゲートルや地下足袋なども兵隊が身につけていたものが、いつのまにか一般の国民の間に浸透したものと思われる。

 学生服というものがこの辺りで普及したのは関東大震災の後、大正12年以降だと言われている。震災によって疎開してきた都会の子ども達が着ていたのが徐々に普及していったのだが、初めの頃は「へんてこりんな物を着ている」と、みんなからバカにされていたそうである。それがいつの間にか、制服として定着してしまった。
 女子のズロースなるものが普及したのもこの頃で、それまでは袴の下に腰巻き一枚を身につけていただけだった。「男子と女子で縄跳びをしていると、足を大きく広げるもんだから、男子生徒が下から覗くんですよ。それで、見えた見えたと囃し立てるものだから、女子が怒って、よく石をぶつけられたもんですよ。」と、昔を懐かしむお年寄り。

 さて、尋常小学校を卒業した子どもは、就職と言っても今みたいに向上や会社がそんなにあるわけでなし、丁稚奉公や女中奉公などといった仕事に就く。当時は徒弟制度が盛んで、大工になるにも親方の家に住み込みで技術を教え込まれた。いわゆる、年季奉公といわれるものである。女子の場合は女中奉公の他に、紡績工場へ行く人も多かったが、貧しい家の子は、家族が給金を前金で貰ってしまうために、一年とか二年の間は無休で働くことになる。「今の子ども達のように甘えていなかった」と言うが、12才といえばまだまだ子どもである。家族と離れ離れになっても、じっと耐えるしかなかったのである。