掛川にあった草競馬
Vol.58 1985.1月号掲載 
 かつては「お屋敷」と呼ばれ、内濠、外濠に囲まれ、桑畑と茶畑と水田が続き、藁屋根の農家が点在する近郊農村地帯だった城西も、今では420世帯にまで膨れあがった住宅街と化した。
 大正時代、掛川の城西に競馬場があったと言うが、それを思い出させるものは何一つ残っていない。掛川・城西線から西へ、逆川と国道一号線の間(下俣、十九首の北側に位置する)に競馬場があって、毎年、春秋二回の草競馬が行われたという。
 現在の魚正の横の駐車場の所に「馬憩所」という競技の前に馬が休憩する所があった。そこから西に進むと、桑畑の中に馬場があって、周囲は柵で囲まれていた。木の桟敷(さじき・高く構えた見物席)も設けられていて、ここは入場料を払った人だけが入れるようになっていた。ところが、柵越しにどこからでも見られたので、当日は大人も子どもも大勢やってきて、結構お祭り気分で楽しんでいたようだ。娯楽に少ない時代だったから尚更である。実際に馬券もあり、優勝者には賞金も出たようだ。
 大正時代と言えばのんびりとした時代ではあったが、軍国主義の時代でもあった。軍から払い下げられた馬を、農耕馬として飼っていた農家も多く、いざ戦争となったときは軍の要請に基づき、馬を提供することもあった。そのためには良い馬をたくさん育てることが必要だったのである。競争させることにより、馬主は勝ちたい一心で、良い馬に仕上げようと努力するからである。
 当時、馬場は全国至る所にあり、この辺だけでも、五明や袋井の可睡にもあったということだから、この背景にはやはり軍国主義の影が見え隠れする。遠州地区の馬主が、それぞれの開催地に集まり自慢し合った姿も見られたという。当時名馬と言われた馬は「ホーリュウ」と「大錦」。よく調教されている馬は、馬場に入った途端に走り出したという。中にはなかなか走り出さないで馬主を手こずらせた馬もいたことだろう。
 さて、この掛川競馬場も、逆川の河川工事が始められた昭和初期に廃止された。逆川は河川工事が始まる前までは、曲がりくねった川で、大雨が降ればたちまち氾濫した。橋も殆どが表面に土を覆いかけただけの土橋だったが、今では土橋を探すのに困難な程すっかり姿を消してしまった。(写真は大正13年11月15日に撮影されたもの。中町・斉藤周作氏所蔵)