最後の掛川藩主・太田備中守資美候
Vol.49 1984.4月号掲載 
 明治維新の変革で、最後の掛川藩主太田備中守資美候(おおたすけよし)は、明治2年に上総芝山(かずさしばやま・現在の千葉県)に転封された。
 資美候は太田摂津守資功の第四子として、安政元年(1854年)に生まれ、幼名を総次郎と言った。文久2年(1862年)に家督を相続したことになっているので、わずか8才の時ということになる。
 太田氏は太田道灌の子孫で、掛川へは延享3年(1746年)に太田資俊が移り、以来7代、120年間も続いた。資俊候の前の小笠原候の時に、遠州地方を荒らし回っていた日本左衛門という大盗賊がいた。小笠原候は盗賊取り締まりができなかった廉(かど)で、奥州の小さな城に国替えとなってしまった。
 そのため、太田候は、掛川城に入る悪党には厳しく罰し、極刑を科したため「太田の三文首」という悪評を受けることになったようだ。
 最後の藩主資美候は明治17年に子爵となって、大正2年(1913年)に60才で東京にて没した。この写真が上総芝山へ行く前に撮影されたものなら、15歳前後の時の資美候である。