掛川町消防組
Vol.47 1984.2月号掲載 
 掛川では明治27年6月に公認消防として掛川消防組が、6部制300名をもって始まった。
 明治5年には連雀で出火し中町に延焼して150戸を焼失した大火があり、その3年半後の明治9年には、同じく連雀から出火して中町に延焼して130戸、明治27年に仁藤から出火して50戸を焼失した。この直後に掛川町消防組ができた。その後も明治33年には西町から出火して約200戸が焼失するという大火が相次いだ。
 そのため、明治34年、各消防組に人の手で水を汲み上げる腕用ポンプを配置し、消防力の強化を図った。しかし、当時は梯子と刺股(さすまた)という道具を使って行う破壊消防(大勢の力で家を壊して火をふせて消す)という方法が多く、早くてより確実だったようである。そのため、各消防組には「この家ならどうやれば簡単につぶれるか」という事を知っているとび職が必ず居たようである。
 写真は手引きガソリンポンプで、大正9年に初めてお目見えした。(場所は中町の元警察署の前)経験者の話によると「引っ張って行くだけで疲れて火消しどころではなかった」そうだ。昭和20年頃までは使っていたところもあったようだが、団員の強い要請で、昭和4年に初めて掛川にもポンプ自動車が1台導入された。