その78(最終号) 学校とは、教育とは
きまた たつしろう
 前々月号の本誌に、「廃刊、七十八%は七十八号で終了します」という社告(?)が出ていた。

廃刊という言葉が実にいい。みなさん(ほんとはほとんど読まれていまかったのあろうが)に「お世話をかけたこのコラム」もさようならだ。しかし、ぼくの本心は、七十八%がほっとしていて、二十二%がちょっとさみしい。

 いままで、七十八回の連載の途中で、「あれも言いたい、これもイイたい!!」コーナーを中心にしていろいろな意見をよせていただいた。ぼくの描き出す子どもたちが、一方的な見方だとか、偏ったとらえ方だとか、悲観的、おおげさだという意見もよせられた。筆者の交代を訴えられたりもした。読んでもらえていることの証拠なのだからうれしいのだが、さみしい気持ちもチョッピリあった。

 しかし、ぼくが教師として経験してきた二十年前、十年前の子どもたちと、今の教室の子どもたちは明らかに変わってきていることはたしかなのである。

 家の子一人だけ見ていればそんなには見えないかもしれないが、教室の子や、学校の子や、小笠地方の子は明らかに変わってきている。それが社会の進歩に合わせての前進的な姿なのではなく、退歩している面が多いのが哀しい。

 マスコミや発達した情報機関や制度で問題にされる子どもたちの悲しい姿は、この地方の子どもたちの中にもまちがいなくほんとうに現れているのである。それを、一層悲観的に見せているのは、ぼく自身も含めて、親や学校や世の中が身のまわりのことと思わないことだし、自分たちが造りだしている世界の中だからこそ、こういう子どもが生まれ出てきていることだと切実に思っていないことである。

 今日、乗っている自転車のペダルがギーコギーコと騒がしい音をだしてやかましくてしょうがないので、自転車屋さんに行った。
 その、以前から知り合いの自転車屋さんは。「ああ、これね」と言って音のする方と反対のペダルのネジみたいなものを直しはじめた。
 ぼくが、「でかい音はそっちじゃないようだけど」と言ったら、
『自転車は自転車屋にくれば直る。子どもは学校に行けば頭がよくなる』と笑って、作業をすすめていった。さあ、直ったよといわれて、乗ってこいでみたら、あのギーコギーコは、確かに、ぴたりと止まっていた。

ここでとやかく言うまでもなく「子どもは学校に行けば頭がよくなる」というのがまさに親の願いなのである。頭がよくなるという考え方や言い方には語弊があると思うが、ほんとうにそうなのである。

 ぼくの学級の子どもたちに「学校で楽しい時は」と聞いたら、給食、プール、休み時間、昼休み、図画工作などのどれかを選ぶに違いない。国語や算数の時間だという子は一人いるかいないかだと思う。ほんとにさみしいことだが、これがいまの子どもたちの考え方の、現実だ。

 小学一年生で、大人三人がかりでも手に負えない登校拒否が田舎の村にも出る。この子が思っていたこととはまったくかけはなれた現実がそこにあったからなのか、本能で生きる子どもたちだからこそ、そうさせたかもしれない。いや、きっとそうに違いないのだ。

学校とは教育とは、なんなんだろう…。

子どもの願いは『楽しい学校』なのである。

ぼくは、親と子の願いにこたえる教育の仕事をこれからもさがし求め続けていきたい。