その76 臨家庭教育の学校まかせ
きまた たつしろう
 三年生はかわいくて楽しい、と以前に書いた。白髪の目立つぼくから見れば真実でうそいつわりはこれっぽっちもない。事実、毎日が楽しい。しかし、このかわいい三年生でなくても、子どもは根っから「うそつきの天才」である。これも真実。

 家では、お母さんやお父さんの前で、学校では友だちや先生の前で、いけしゃあしゃあとやる。これが、三、四年生あたりから磨きがかかってくる。権力をもっている者、強い者の前で、子ども自身も本能的な生きる手だてとして、都合良くうそをつく。大人だってみんなこんな時間を通ってきたし、今現在、程度の差こそあれこういう生き方をしているのではないか。

 ここでこわいのは、「家の子にかぎって、そういうことはない。」と信ずる(ある意味あたりまえのことであるのだが)親がふえてきたことである。
 ぼくが子どもの前でよく演説する「子どもは遊ばないと死んじまう。」というのや、「毎日の家での勉強を、がんばってやってきた子は、日曜日にはしっかり遊びなさい。」というのも、子どもたちに、都合よく解釈され、前後がないそのぶぶんだけがよく悪用される。

 いじめられたの、たたかれたのということでも、「家の子にかぎって、そういうことはない。」という前提で、親同士直接電話しあって、けんかもんかになったり、気まずいことになったりする。

 実は、「家の子にかぎって、そういうことはない。」ということよりも「家の子だってうそをつく」という認識があるほうが、ある場面では大切な子育てのテクニックになもる話はかわって、これはある雑誌の編集後記の一部。
………
「ある小学校の懇談会で、子どもたちの家庭生活が大変みだれていると指摘され、なげかけられた先生に、
『朝は○時に起き、夜は○時に寝る、歯磨きは、テレビは○時間まで…などのしつけを学校全体で取り組ん
でもらえないでしょうか。これだけのことをそれぞれの家庭でおこなうのは大変ですから、学校で取り組ん
でいただければ、ひと声かけるだけで子どもたちは、親がいうよりきちんと守るのではないでしょうか』
との意見に、他の父母たちも深くうなずき、
『ついでにファミコンばかりやっていて外で遊ばない子どもに、外での遊びもおしえては……。』
………
 ぼくの組の先月の懇談会はそうではなかったが、これに類した話はある。
「先生、家の子はテレビばっかり見ていて困ります。何度怒ってもききません。先生のいうことならききますので、先生の方から言ってくれませんか」
という二十年前にたのまれた話以来、いっぱいある。

 家庭教育の学校まかせというのか、「教育の下請け化」というのか。反対の話だって、うわさに聞く。
算数をいくら教えても(?)わからない子がいて、受け持ちの先生が「お宅のお子さんは算数ができませんので、塾へ通わせてください」と言ったという話。

 こう書いているぼくだって、つきつめていけば似たようなことをしているのかもしれない。あたりまえのことだが、(こんなことを書くのは悲しいが)家庭のことは家庭で、学校のことは学校で教育している親や先生の方が圧倒的に多いはずなのに、どこかで歯車がくるってきているように思う。