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今年は春の暖かさが遅い。先日逆川に流されてしまった中央小学校の一年生。なんとも哀しい。家の人や、決まったばかりの担任の先生や、その子と関わりのある人たち全てにとっては、胸痛むやりきれない新しい春の出発になってしまっている。つらい。
たんぽぽや菜の花の繁る土手を、子どもの姿をさがして歩きまわる哀しさなど、当事者でなければ決してわかることではないと思う。こうして筆にすることさえ気にする。
ぼくは、五年六年といっしょにした子どもたちと三月に別れ、悶々とした春休みを過ごしたが、盛えだす花の中で少しは明るい気持ちになってきたところで新しい子どもたちと出会えた。今度は三年生。久しぶりで、かわいいい。何もかもが新鮮である。ほんのこの前の六年生なら、同じ仕草でもぶりぶりしていたのに、こんどはニコニコして見ている。気分が変わるということはこんなにもものごとを新しく見せる。
休みの日、あしたの教室ことをあれこれ考えながら無精ひげをそる。家の小僧さんの机の前の壁に「お母さんと子どものこうつうあんぜん」というカレンダーがのったポスターが掛けてある。三月と四月のところが開いてある。そこには、このごろちょっと落ち目のキン肉マンが登場している。ぼくはひげをそりながら何気なしに読む。ミートくんが信号の青になった横断歩道をさっさと歩いて渡っている。キン肉マンが後ろからあわてて声を掛けている。「しんごうがあおにかわっても、すぐにわたっちゃだめだぞ。みぎひだりをよくみないと、くるまがくるぞ」とさけんでいるマンガ。
その下に、“しんごうがあおでも たしかめよう みぎひだり”とスローガンが印刷されている。
ぼくは最後まで読んで、あわててしまって、ひげ剃りのスイッチを止める。
いったいコレはナンダ。信号が青なら“渡れ”じゃないのか。
少し昔に、“飛び出すな 車は急に止まれない”というのがあった。ぼくはこれに、えらく腹を立てた。車中心の考え方だからだ。
世の中は、いつも弱いもの、つらいもの、さみしいもの中心に考えなければならない。車は、人間なんていっぱつでやられてしまう強者だ。だから子ども(人間)中心の“気をつけろ 子どもは急に止まれない”という気持ちで、いつのときでも運転してもらわなければならないのだ。「信号の青も信用できない」、と教えていかなければならない今の世の中はまちがっていないか。
こんなこともある。チカンが、学校の近くや通学路にに出たというウワサのたんびに、こどもたちには、「車に乗っている人がもし道を聞いても“わたしはよくわかりませんから近所の大人の人に聞きなおしてください”と言うんだよ」と、くどくど教えるこのつらさ。
千人に一人、いや、万人に一人いるかわからない悪い大人のために、大部分の善意を切りすてなければいけない今の教育。そして、総務庁や警察庁の監修の交通安全カレンダーが、信号が「青」でもすぐは渡らせないという教育。
世の中どこかくるってやしまいか。
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