その73 教育技術の法則化
きまた たつしろう
 臨教審が「審議の概要(その三)を発表した。みんなが、今なんとかしてもらいたいと思っていること、非行・校内暴力・なんでも規則や管理・受験戦争などについてはほとんど答えを出してくれていない。

 それどころか、超エリートをつくる方法とか、お金のある家の子は至れりつくせりの教育を受けさせる途を選べる方法とか、政府に気に入らない先生をしごきなおす方法とかしか書かれていない。

 これは、国鉄民営化というのが、みんなの税金でシコシコ作り上げてきた線路をお金持ちや大会社によってたかって分取ることでしかなかったのと似ている。
 掛川の二俣線を残すのには、また税金を使い、高級車を持てない市民が、なけなしのお金で、今まで以上の率でキップを買うのである。

 自衛隊には湯水のように税金を使い、福祉にはまわってこない。日本政府があんなに援助しなければ、マルコスだって長続きしなかった。日本の黒字はアメリカに文句ばかりつけられているが、ぼくら庶民のところまで、これっぽっちもお金は、まわってきていない。いったい、もうけたお金は、どこにいってしまっているのか。

 ぼくらみたいな貧乏人には、いつまでたってもホンモノが見えない。「教育」という仕事のある一面は、こういうことを見抜く力の一端を身につけさせることではないのかと、時々思う。こんなことを言うと、「政治教育」だと批判されそうではあるが…。

 今、教育の世界でも全国的な視野でみれば、向山洋一という神奈川の先生の提唱している「教育技術の法則化」運動というのがある。教育書を専門に出版している明治図書という会社も売りだそう、もうけようと力をいれている。そして、とうとう、「教室ツー・ウェイ」という雑誌まで創刊された。
 ぼくのいる職員室では一度も話題になったことはないが、静岡県下ではたくさんの先生たちがコウフンし始めているみたいだ。

 教育の仕事の中で?T情熱?Uとか?Tロマン?Uほど大切なものは他にない。だから、それはそれとしてよい。教育の仕事を法則化という面からみつめなおすことも大事なことである。だから、ぼくも向山洋一のボウ大な著書を必死に読んで、使わせてもらっている。しかし、ここには、ドロドロした子どもたちは登場しない。教育の仕事も、ファンシー化してきている。世の中、右も左もまん中も、どっかおかしい。

 ことしも、あと二日で子どもたちと別れる。
がんばってやっているのだが、毎日ブリブリと怒ってばかりで、ろくなことをしてやれなかったように思う。年を経るごとにつめたい先生になっていくように思う。

ヘリクツばっかり考えていて、教室の子どもたちをなんにも伸ばしてやることができなかったように思う。

 あさってが卒業式だというのに、まだ、おじぎの仕方がうまくないのだの、よびかけの声が小さいだのと後ろ向きの教育ばかりしている。

 毎年、毎年、今年こそはと桜の木の下で考えて、次の春、申し訳なさいっぱいで子どもたちと別れる。

ぼくの三月はなさけない。